66
イシャンも、商会の長たちも。
誰一人としてジューダスの事を覚えていなかった。
つい先ほどまで会話をしていた人間の事を忘れるなんて有得ない。
セリエルにも確認を取ろうと振り返るが彼女の姿は見当たらない。
後は任せた、任された
と会話していたのに無責任な奴め。
……それとも彼女も忘れてしまったのだろうか。
イシャン達はおれの言動に疑問しか抱けないようで
訝しげな、それでいて気が振れてしまったのかと
心配するような瞳でこちらを見ている。
何故?
思い至る事と言えば去り際にジューダスが言い放った
≪私の事は忘れろ≫
と言う言葉。
それと珍しく双眸まで外套から顔を出したあの動作。
一種の暗示のようなものなのだろうか。
だとしたらおれにだけかからないのもおかしな話だ。
おれもばっちりあの金に輝く両眼を見
不思議と心地好い声を聞いたというのに。
心のつかえは取れないがやるべき事を後回しにして良い理由にはならない。
依頼完了の手続きを終え無い事には商会長達は
自分の部下達と合流する事も今後の話し合いの場を設ける事も出来ないのだから。
ギルドで手続きをするのは
ラシャナから請け負った依頼の依頼人死亡による不履行手続きと
父さんから斡旋された依頼の終了手続きの二つ。
単なる不履行の場合前金で貰っていたお金の半分を返却し
更に慰謝料として依頼料の何%か収める義務が冒険者には課せられる。
前金の返却分は依頼主にそのまま納められ
慰謝料は依頼主の希望%にギルドが上乗せして請求してくる。
今回はラシャナが依頼してきた
『アハマド商会の運ぶ赤い積荷の破壊』
こそ達成したが積荷の全てを破壊した現場は砂漠のど真ん中だし。
依頼人が死亡している為依頼完了の証拠が一つも提示できない。
なので簡単な経緯を説明して請負人の過失度合を考慮して貰い
いくら収めるのかを算出して貰わなければならない。
……はずだったのだが。
「こちらの依頼は既に達成されていると依頼人の方から報告が入っております。
前金で半額支払い済みとの事なので
残金である英金貨一枚の支払いになります。
レイシス様の口座に入金させて頂いて宜しいでしょうか?」
は?
ちょ、ちょっと待って。
依頼完了の報告っていつしたの、あの人!?
ってか依頼料って提示されたお金は金貨百枚が満額だし
依頼を受けた時に股座から取り出してた金貨で全て貰っている。
完遂する事を大前提とした依頼だったからだ。
なのに支払残金があるってどういうことだ??
口頭での依頼受託だったために正式な依頼書には目を通していない。
だってどうせ断れないんだし。
前金で全額貰っているんだしこっちに不利な事はないだろう。
そう思っていたのだ。
ギルドの受付嬢が依頼完遂の署名を貰うべく差し出してきた依頼書を見る。
ラシャナの名前に依頼の受付番号……
ここら辺は読み飛ばして良い。
──依頼内容──
アハマド商会の馬車がメネスへ輸送中の積荷の一部破壊
破壊対象は赤い木箱に入った魔薬成分を含有するポーション
手段は問わず
………
……
…
依頼達成で金貨200枚相当
前金は半額金貨100枚相当
10割破壊で残りの金貨100枚
8割破壊で金貨50枚
5割破壊で金貨30枚を支払う
………
……
…
辜潜月一巡 依頼完了 Rashena
依頼完了で提示されていた金額の倍額貰えると言うとんでも事実の他は
依頼内容の詳細や達成頻度による支払金額の取り決めが書かれている。
注目すべきは今月の初旬に依頼完了の手続きがされていると言うこと。
初週と言うと……それこそ積荷の全部を破壊した時で間違いない。
大狼の魔獣を倒した頃だろう。
ジューダスに襲われた時だな。
あそこから怒涛の日々を過ごしていたし
ラシャナがおれ達と離れて行動した日なんてない。
なのに、一体どうやって……?
日付の後に書かれている、るぇすぃ……あぁ、これはラシャナの署名か。
彼女の筆跡なんて判らないから本人が書いた物かはおれでは判断できない。
「これって、依頼人本人が書いたの?」
「コチラのサインは依頼人当人の物で間違いありません。」
「それじゃあ、この依頼終了書届けたのは?」
「……別の方です。
しかし、どなたが御持参して下さったのかはお答えできません。」
あ、先回りされた。
ラシャナがいつ、どこでこの依頼完了書を書いて
誰にギルドに届けるようにお願いしたのかは分からないか。
別の、例えば真っ黒に染まった金さえ払えば口が途端に軽くなる
アゼルバイカンのガラルのギルド長が相手だったら聞けたかもしれないのに。
しかし目の前の女性はああいう手合いとは雰囲気が違う。
仕事に誇りを持っている。
聞き出すのは無理だろう。
ラシャナのある意味遺産だ。
受け取った後イシャンに渡せば良い。
聖金貨だとおれがイシャンから受け取ったものと混同しそうなので
重くはなるが普通の金貨で支払って貰った。
流石に全て金貨で支払うのは無理ということで銀貨も混ざったが問題ない。
後でイシャンの持ち運んできた荷物の中に放り投げて置こう。
こういうものは隠そうとすればする程なぜか発見されやすいものだからな。
なおざりに扱った方がばれにくい。
メネスから各長を護送する依頼はすんなりと完了手続きが終わった。
ギルド職員がまず護衛対象全員の無事を確認し
道中問題がなかったか請負人に不備不平不満がないかを
おれが居ない別室で質問する。
冒険者によっては評価を高く報告するように護衛対象を脅すことがある。
それを防ぐためだ。
だから冒険者の評価が一般的に見た時良くないんだよね。
便利だけど粗野で粗忽者。
実際ある程度実力があって早々にお金貯められた冒険者って
市民権買って自分の気に入った土地に定住することが多いし。
余計にだよね。
風来坊のような風と気の向くままに何にも囚われず旅を好む変わった人や
高額の市民権を買えるだけのお金が貯められない人
実力も金もあるけどとてもじゃないが市民権を与える事ができないような
後ろ暗い経歴を持っている人
が主に冒険者として残って行く。
いや、勿論全員が全員そうではない。
しかし一般的な冒険者に抱く抽象的な想像はこの三種に分かれる。
なので冒険者ギルドのように冒険者を管理する人たちが
利用者が虐げられないように仲立ちするのだよ。
長寿の種族がいるからおれみたいな見た目の人間でも
実際御年百歳越えなんて場合もあるから
一切の例外を許さず決められた手順を踏んで依頼達成の手続きがされる。
うん、まぁ。
おれも意識としては15歳程度だけれども
実際の肉体年齢は何百歳って歳を重ねているらしいし?
長生きしていれば処世術として狡猾にならざるを得ない場合もある。
当然と言えば当然のことだ。
長い待ち時間に暇を持て余したとしてもそれは致し方の無い事なのだ。
そう、仕方ない……
………ひま。
忙殺されるよりは暇な方が良いではないか!
イシャン達が戻ってきたら即区切りが付けられる何かをしよう。
≪しりとりとか~?≫
『それは何が楽しいんだ??』
稜地の提案はすげなく却下し覚書を懐から取り出す。
時間が見つけられなくてここ最近の気付きや気になった事を
書き留めておくことが出来なかったからな。
神威をすることによって大晶霊たちから教えて貰った詠唱を元に
通常時使える術の幅や威力が増やせるかもしれない。
ゴンドワナの浄化作用復活まで葵帷さんとは別行動になってしまうが
定期的に連絡は取り合った方が良い。
先のジューダスとの戦いの時のように手を貸して貰う事もあるだろうし。
……ジューダス、か。
思いつくままにひたすら走らせていた筆を止める。
考えてみればジューダスと言う呼び名も
過去あいつが名乗っていた名前の候補から選んだだけで本名ではない。
おれがあいつの事で知っている情報なんてたかが知れている。
しかもその情報ですら不確かなものだ。
滅茶苦茶強いという事。
強いと言ってもどれだけの実力があるのか確かな事は分からない。
おれの何十倍も強いってだけだ。
三英雄の一人らしい事。
状況的なものから間違いないだろうけど
本人は肯定も否定もしていないから事実であるという言質は取れていない。
光の大晶霊である白亜とも契約をしている訳ではないそうだし
浄化の術──広範囲に影響を及ぼすあの歌なんて
今伝わっている精霊術のどれにも当てはまらない。
忘れろと命令しただけで相手の記憶から自分の存在を抹消させる術もそうだ。
一般的な知識から外れた場所にいる存在。
おれも大概だとは言われるがおれなんて比べ物にならない。
超越存在とでも言えば良いのかな。
稀有な存在。
『大晶霊の面々とは面識があるんだよね?
稜地や紅耀はジューダスの事覚えてる??忘れてない???』
≪忘れる訳ないじゃん。
あれは主君がイメージした通り一種の催眠術だし。
僕らには効かないよ≫
≪主に効かなかったのは誤算だろうね~
俺たちの影響かな?≫
≪ただ単に忘れて欲しくないって願望が出たんじゃないの?≫
≪違いない≫
≪相変わらず詰めが甘いよね≫
久しぶりの兄弟水入らずを邪魔したくはないので続く会話に
茶々を入れるのは辞めて置こう。
紅耀は比較的言っちゃいけないようなことを漏らす傾向にあるようだけど
今回の事は稜地も別に隠していないし言って良い情報だったって事かな。
催眠術って聞くといんちきで胡散臭く聞こえるけど
目の当たりにしてしまうとその効果を実感させられるな。
……ジューダスにどこか懐かしさを感じたのは過去に実は逢っていて
でも催眠術で忘れさせられたからって事なのかな。
今度逢ったら問いただしてやろう。
きっと驚くに違いない。
間抜け面を拝めるかもしれない千載一遇の好機を逃さない為に
これも覚書にしたためておこう。
報酬を受け取り長達からの心付けも貰い別れた後。
イシャンは今後どうするのか
おれは何処を目指すのか。
宿に停泊するのは決めてあったのでそこの一室で話し合いの場を設けた。
って言ってもイシャンは話し合いが終わったら
アハマド商会の人達と合流してアハマドが死んだことを報告し
頭をイシャンに挿げ替え商会を継続させるか
別の人を頭に置き紹介を継続させるか
もしくはいっそのこと商会自体を解体するのか決め
今後の方針を定めなければいけないので長く拘束は出来ない。
それを決めてからじゃなければおれの旅を支えるって宣言も
実行できないんじゃないのか?
と思ったのだがそれに関しては旅の道中で話し合っていたように
イシャンが直接管理している施設や店があるから
どう転んでもおれの旅のばっくあっぷ?はする所存だそうだよ。
ありがたいねぇ。
「それで?
レイシスはこの後どこに向かう予定なんだ?」
坤輿全図──世界地図を広げてイシャンが問うてくる。
イシャン手持ちの物なので所々文字や印の書き込みがされている。
色別に何を意味するのか違うようで
ゴンドワナ大陸に印が多い傾向にあるが世界各所にその印は点在している。
「一番近い大晶霊の気配は真北。
カハマーニュあたり、かな。
次に近いのは真逆の南……全図見ると海だな」
「地図には書いていないけどラウレンティウスって名前の島があるよ。
一般的な地図には載ってないんだ。
かなり強い固有種が多くて興味本位で上陸した人たちが
もれなく行方不明になっていて危ないからって消されたんだよ。」
え、なにそれこあい。
それ考えると南は避けるべきか。
旅の途中で志半ばで倒れるのは御免蒙りたいからな。
他にも契約しなければならない大晶霊がいるのだし
安全圏から回って確実に事を成せる方が良い。
大晶霊と契約する事によってどういう絡繰りなのかおれ自身も強くなっているし
まずは北を目指すべきだろう。
来た道戻る感じになるのがいやんだけど。
広大なルーレシア大陸ならまだしも
ゴンドワナ大陸に大晶霊が二人もいるって言うのが驚きだが
暗い閉ざされた空間に居る感覚が伝わってきた。
何の属性かまでは分からないが行ってみる価値は十分にある。
それにしても、商人が持つ地図に冒険者に売られる地図
父さんが持たせてくれた地図。
全て細部が違うって言うのが面白い。
父さんが持たせてくれたものは、まぁ、今出回ってる地図と違っても
古いものだし仕方ないが
実は一番細かく描かれているのはこれになる。
ラウレンティウス以外にも描かれておらず
一般的に知られていない島はまだまだありそうだ。
因みにおれが買った真新しい地図は高い上に金の冒険者専用のものなので
ラウレンティウスは記載されている。
「カハマーニュは徒歩で二月かかるかかからないか、馬車でひと月はかかる
って所だがこれから冬だろ?
砂漠を徒歩で移動し続けるなんて命知らず過ぎるし
かと言って冬は馬車が出せない。
火の大晶霊様とお前が契約してどんな風に気候が変わるかわからんが
通常は雨期に入って雨が降りやすくなるからな。
普段ない所に川が流れたり地下水が溜まって天然の落とし穴が出来たり
移動するにはしんどい時期だ。」
「って言ったってここで足止め喰らっても出来る事ないし。
移動手段なら稜地もいるしなんとかなるだろ」
「冬越すまでここで大人しく過ごせって意味だったんだが。
ん〜……地の大晶霊様がついているなら確かに問題ない、か?」
≪も~まんたいだよ~≫
”もうまんたい”と言うのが何を差す言葉かは分からないが
こののんびりとした口調ならとりあえず問題はなさそうだな。
砂漠地帯を一人ぶらり旅するのは大変そうだが、まぁ、なんとかなるさ。
現状でおれが感じ取った大晶霊の大体の位置
イシャンが持っている各国の精霊に関する逸話
イシャン直属の店の屋号
定期的な連絡を取る手段
諸々つめた後、イシャンはアハマド商会へと向かい
おれは明日のために早めに就寝する事にした。
セリエルは街の入口で行方知れずになった後再会できていない。
まぁ、ジューダスと同様おれだけでは力不足だから
避難した人々と長達を合流させるまで一緒に行動していただけだし。
ジューダスの記憶が抜け落ちた可能性を考えると
無事にそれが達成した時点で別れるのはある意味当然か。
……ここ最近、ずっと誰かと一緒の空間で寝る事が多かったから
一人の空間と言うのが嫌に寂しく感じる。
こんなにさびしんぼうだったっけ?おれって??
父さんと久しぶりに再会したり
親密ではないとは言え姉とも会話をしたり
数か月に及び共に行動していた一行と別れたり
色々重なり過ぎたんだろうな。
三年間ずっと一人で旅をして来たし
これからも稜地達のような大晶霊以外と共に旅をするとは思っていないし
早くこの状況に慣れなきゃな。
布団を身体に巻き付け自分の身体を抱くようにして眠りに落ちた。
「マジで一泊しかしないで出発するんだな。」
荷物をまとめ朝食代も含めた精算も終え
店主とおれ以外誰もいない宿の一階部分にある食堂で
簡素な食事をしている最中にイシャンが乱入してきた。
目の下の隈の出来具合からして寝てないな、こいつ。
しんみりするのも嫌だし昨日のうちにある程度別れも済ませたから
さっさと街を発とうと思っていたのに…
見つかってしまった。
セリエルのように軽率に舌打ちしたくなるね。
「いつのまにか荷物に紛れ込んでた金貨の山は、まぁ良いよ。
厚意として受け取っとく。
アハマド商会は俺がトップで継続するって事で話もまとまったし
これから暫く赤字覚悟でやってかなきゃいけないと思っていたし
正直助かる。
ありがとう。
お前がさっさと別れも告げず礼も受け取らないまま出発しそうだ
ってことも分かってたし、それは別にいいよ。
……それはいいんだけど、お前、これ何か分かるか?」
一方的に自分の今後の身の振り方の報告と礼と文句を一頻り述べた後
懐中から取り出したのはジューダスがイシャンに放り投げた聖金貨だ。
この存在忘れてたな。
ジューダスの事がすっぽり頭から抜け落ちているせいで
なんで自分の手元にこれがあるのか分からないのか。
「ラシャナの棺に入れた金貨でしょ。
お前にってジュ……三英雄の一人が渡したんだけど、覚えてない?」
改めてジューダスの存在を覚えていないか駄目元で聞いてみる。
腕を組み首を傾げ捻り呻るがやはり思い出せないらしく
分からないとだけ一言呟いた。
「霊力込めろって言ってたけど、イシャンって今霊力使えんの?」
「まぁ、魔力みたいに全部消え失せた訳じゃないし、少しなら。」
右掌に乗せた輝石で包まれた聖金貨に
目を閉じ意識を集中させ微量の霊力を流し込む。
輝石はイシャンの霊力に反応するように薄い琥珀色に染まりその様相を変える。
輝石が膨らみ蔦のように霊力の光を周囲に伸ばす。
その蔦はイシャンが注ぐ霊力では足りないと言わんばかりに先端をおれに延ばし
触れた途端霊力を根こそぎ奪っていく。
妙な脱力感を覚え顔をしかめると同時に
花開く前の蕾のように輝石が膨らみ、爆ぜた。
光と霊力の激流に思わず閉じた目を開く。
文字通り爆発的な力の暴力によって食堂の椅子も机も放射状に吹き飛んでいた。
その中心地に、膝を抱えた精霊が、居た。
眠るように長い睫毛を伏せた女性型の精霊が。
大晶霊のような全容を掴み切れない程の力は持っていないが
かなり強い力を内包している──上位の精霊だろう。
髪色と身に着けている装飾品の色から属性は地。
いや、そんなことはどうでもよろしい。
この精霊……
「ら、ラシャナ……?」
そう。
目の前の精霊の姿形。
生前のラシャナそのまま……と言う訳では決してない。
髪の色も肌の色も全然違う。
目を開け抱えた膝を離し全身を見ない事には断言できない。
しかしその身に纏う雰囲気や
ぱっと見の印象は正しく死んだラシャナそのものだった。
≪らしゃな……
あるじよ、それがわたしのなまえですか?≫
イシャンの呼びかけに応えるように薄く開いた橙の瞳に彼を映し
他人とは思えない姿形で残酷な質問をしてくる精霊。
≪基本的に魂は肉体が死んだらすぐに輪廻に還って
知識や性格のような次の生に支障をきたす澱を濾されるんだ。
芽吹いたばかりの精霊の頭の中は赤子と同じ。
見た目は彼女に近い物かもしれないけど
内包している霊力は彼女とその子供のものを核としているし
……ソレは、厳密に言うと彼女ではないよ≫
稜地の説明にイシャンは沈痛な面持ちでその言葉を受け止める。
愛しい人と似た見た目でも中身は伴っていない。
イシャンが愛したラシャナと言う女性は死んだ。
確かに、間違いなく死んだ。
その現実を改めて突き付けられた気分にさせられる。
……ジューダスも、残酷な事をする。
精霊の種となり得る赤ん坊とラシャナの魂が合体してしまったが故
こういう形で新たな精霊が産まれたのだろう。
それ自体は喜ばしい事だ。
精霊が増えることの重要性は聞いたばかりだから。
でも、わざわざイシャンにその種を渡す必要はないじゃないか。
傷口に塩を塗り込むような悪辣さだ。
呪詛を吐きたくなる衝動を握り拳に力を入れぐっと堪える。
イシャンは沈痛な面持ちで
どう精霊と接して良いのか思い倦ねいているようだ。
泣きそうな顔で。
でも泣きたくないようで。
視線を彷徨わせ精霊を見れないでいる。
そこへ
≪……いしゃん?
泣かないで≫
優しく頬に伸ばされた手。
愛しさを込め呼ばれた名。
幼子に言い聞かせるような願い。
そして
≪待っててくれて、ありがとう≫
生前、ラシャナがイシャンに向けていた眼差しを向ける。
果たされなかった約束を想起させる言葉を聞き
イシャンの涙腺が、決壊した。
妻の死後決して涙を流さなかった男の頬をいくつもの雫が伝い床を濡らす。
滂沱と頬を伝わる涙を隠すように顔を覆い隠すイシャンの頭を
優しく胸に抱きその髪を優しく、優しく撫でる精霊。
彼はその精霊をかき抱き堪えきれない嗚咽を漏らした。
≪……基本的には、記憶は全部消されるんだけどね~
ま、主に嫌われるようなことあの人がする訳ないって言うね〜≫
≪時間がなかったって言うのもあるだろうけどね。
魂に刻まれるレベルの強い感情まで消せなかったんでしょ≫
中で兄弟がそろって目の前の光景に至った予想を並べる。
ラシャナ達の魂を回収したのが父さんに命令されたセリエルなのか
他の精霊の種を回収することを役目としているジューダスなのかは判らないが
どちらもおれの好悪の感情には興味なさそうだし
その大元を担っている親馬鹿な父さんを差した言葉だろう。
輪廻と言うのは世界の理だ。
人間がその働きを制限できるとは思えないのだが。
父さん達が元々回収した種をイシャンに渡す予定だったのなら
慌ただしく退散した父さんに時間が無くて
記憶を失くす処理が上手く出来なかったと言う理由に納得できる。
本来あっちゃいけないんだろうけど。
たまに前世の記憶を持って生まれてきた人
と巷でちょっとした有名人扱いされている人が居るけど
それが法螺なのか事実なのか本人にしか判らない。
しかし普通の規格から外れているのは確かだ。
大抵の人は前世の記憶なんて持っていない。
ラシャナは余程、イシャンの事を愛していたのだろうね。
愛が奇跡を生む何て絵空事の類かと思っていたし
寒い嫌悪感を覚える偽善的な話だと思ってたけど……
こうして目の当たりにすると
悪くないなって、そう思う。
むせび泣いて周囲から意識を隔絶したイシャンを放って置く訳にもいかないし
空気を壊す訳にもいかないので
怒られる前に設置し直そうと音をたてないように気を配りながら
吹き飛ばされた椅子と机を持ち上げ一人ごちた。
外を見ると
二人を祝福するように虹の橋が空にかかっていた。
これにて火の章終了です。
長いお話に付き合って頂きありがとうございました。
次章更新までお待ち下さい。