始まり
それは梅雨間近の、雨上がりの晩。
俺……前原真一が気分転換によく来る、展望台でのことだった。
無音の中、恐怖で身体が動かないのに対し。
前にはフードを被った、爬虫類の様に瞳孔が縦に開いた目をした、怪しげな男がいる。
不意にドスッ、と鈍い衝撃が体に走った。
体の中に何かが入る感覚。
いや、感覚なんかじゃない。 実際に体の中に腕が一本入り込んでいる。
常識で考えられない状況だ。 フードの男の腕が俺の体を貫いている。
顔全体は分からないが、辛うじて見える口元が三日月に歪んでいるのが分かる。
そして、そのまま蛇のような男が俺の中にあるものを引き抜くと、それを見せびらかした。
「ん~……綺麗だ。 いつ見ても、取り出した直後の心臓を見るのは愉快でたまらない」
「あ……あ……」
返せ、と言葉を返そうとしても出ない。
自然と痛みはなかった。
何故そうなっているのか分からないが、体は異変に気付いているらしく、うまく動かせない。
取り返そうと、手を伸ばす。 だが、それも空を切る。
既に視界がぼやけてきた。
どうやら、頭に血が上ってないから、うまく働いてないらしい。
その様子を見た男はより一層、口を歪めた。
「ククッ……アハハハッ!! 滑稽だ!! そんなに手を伸ばしたとしても、これはもう私のものですよ」
そのまま、男は下がる。
俺の心臓が持ってかれる。 俺の体の一部が、生きるために必要なものが持っていかれる。
何故? 何でこうなった?
「あなたが悪いんですよぉ? 私が愛する者との出会いを邪魔したのですから」
そう言って、男は姿を消した。 俺の心臓を持って。
その瞬間、体中にとんでもない激痛が走る。
「があああ!! ああぐぅぅ!!」
あまりの激痛に、ちょん切れたトカゲの尻尾のようにのたうち回る。
それは俺が今まで体験したことのない痛みだった。
どうして、こんなに痛いのか?
それは分からない。 しかし、あの男は俺に細工を施して立ち去った、というのは理解できた。
あいつはただの人間なんかじゃない。
心臓を抉り出したときに痛みが無かったのも、急に痛みだしたのも、全てあいつが俺に何かしらの方法でそうした。
……恐らく、魔法だ。 魔法でそうしたに違いない。
常識ではそんなこと考えられない。
だが今日は、常識では説明できないことばかりが起きた。
――そう、例えば先程の出来事だ。 俺は信じられないものを見た。
竜だ。
俺は紅い竜を見た。
俺の心臓を抜き取った男と対峙しているのを俺は見てしまった。
どのような会話をしていたのか、何故、こんなところで会話していたかは分からない。
明らかに異様な光景だった。 だがそれと同時に、俺は見惚れていた。
所謂、一目惚れというのだろうか?
まるで、動く彫刻のようなそれは、全てが完璧だった。
翼、牙、鱗、手足。
聖者が天使に出会った様に、あの時俺はかなり興奮していた。
「が……」
もう声すら出ない。
視界は演劇の幕が閉じるように徐々に狭くなっていく。
案外、俺は冷静だった。
こう、自分の事を客観的に見るのが得意だったが、まさか死ぬ時まで冷静だとは。
……思い返せば、俺はつまらない人生だった。
努力しようにも、周りから否定され。
抗えば、押さえつけられ。
やっと、つまらない現実から希望を見出せたと思いきや、これだ。
……ああ、本当につまらない。
これにて、俺の人生という物語は終わる。
きっと。 俺の人生を神様が見ていたのならば、駄作だと投げ捨てるだろう。
「……」
不意に。
気配を感じた。
視界を動かそうにも、何も動かない。
だが、明らかに俺のそばに何かがいる。
それを確かめようにもどうすることはできない。
「……愚か者め」
それは女性の声だった。
低い、だが包容力のある声。
年齢でいえば初老の女性の声だ。
そういえば、この声聞いたことがある。
はて……どこだったか。
「少年。 生きたいか?」
声は問いかけてくるが、俺には答えられない。
……はは。
こりゃ、天使か? 天使が迎えに来たのか?
「ふむ、喋れんか。 ……まあいい。 喜べ、少年。 お主に機会を与えよう」
それは徐々に俺に近づいてきた。
なんとなくだが、どことなく温かい。
まるで太陽が近づいてきたかのような錯覚を受ける。
その温かさは、死に際で冷えた体には心地よく感じる。
「お前には拒否権はない。 これからお主は我のものだ」
それは、光、だった。
紅い光。 それが俺の中に入ってくる。
――――そして、俺の意識はそこで途切れた。