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真田源三郎の休日  作者: 神光寺かをり
歩き巫女
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歩き巫女 四

 私がじっとしておられましたのは、僅かな時であったと思います。なにやら腹の奥の方で何者かがうごめいている気がして、長くじっとしていることが出来なかったのです。

 私は徐ろに、あの切封の文に手を伸ばしました。

 文を開きながら、そっと、何気なく、垂氷の顔を覗き見ますと、何を期待しているのやら知れませんが、黒目がちな瞳に好奇の輝きがありました。

 私は開いた文に目を落としました。

 筆跡は見ようによっては女手にも思えるほど細いものでした。垂氷が女性からの文と思いこんだのも仕方のないことです。

 これを、前田利卓(としたか)という身の丈六尺豊かな偉丈夫が書いたとは、あの方をまるで知らない者や、知っていても語り合った事のない者であれば、到底信じられないでしょう。それほどに柔らかで繊細な筆運びでした。

 私がもし、宋兵衛……いえ、慶次郎殿に一面識も無ければ、遭ったこともない女性からの文かと思って浮かれ舞っていたかも知れません。

 遭って、語って、一勝負したからこそ、私にはあの方の繊細さが知れたのです。

 細いながらも骨太な筆運びの墨跡ぼくせきからは、腐れ止めに使われている龍脳りゅうのうの香りがしました。

 本当に質の良い骨董品の墨はにかわがこなれており、文字がにじむむと筆を運んだ軌跡きせきの芯が美しく強く浮かび上がってきます。

 無論、美しい文字を書くためには、書き手にもそれだけの素養が必要ではあります。

「よい古墨こぼくを使っておられる」

 これも誰かに聞いて欲しくて言った言葉ではありません。感心が胸の内から口へとあふれて出たのです。

 さて、肝心の文面ではありますが、表向きは他愛のないものでした。



 厩橋の紙座で、置く品はすこぶる良いが、店主が頑固に過ぎる萬屋というのを見付けた。

 萬屋の面構えを見ていたら、まるで似ていないのに貴公を思い出した。

 たわむれに「お主は信濃者だろう?」と尋ねてみたなら、果たしてその通りであった。

 聞けば、貴公と萬屋は古馴染みであると言うではないか。これを奇遇と言わずして何と言うのだ。

 今、萬屋の座敷を借りて、この手紙をしたためている。

 特に何か知らせてやろうとか、何か聞きだそうとか言うのではない。大体友へ文を出すのに用事がいる必要はないだろう。

 時に、滝川左近将監(さこんのしょうかん)はこのところようや珠光小茄子しゅこうなすの事を口にしなくなったが、今度は儂の顔を見る度に、

「なぜあの時に鉄兵衛にここへ残るようにと口添えしてくれなかったのか」

 と嫌みたらしく言ってくるようになった。

 しぶとい年寄りの面倒を見るのは大層疲れる。さても貴公の父親も大変な男に見込まれたものだ。可哀相でならない。

 そんなわけで、伯父貴があまりに五月蠅うるさいので、儂は顔を合わせまいと思うて、この頃は出来るだけ外出をすることにしている。

 先の戦で馬を乗り潰したので、その代わりを得たいというのを言い訳にして、馬狩りを口実に出歩いている。

 この辺りの山野では良い野生馬が群れなしているのを見受ける。さすがに武田騎馬軍を育んだ土地柄である。

 鞍や馬銜はみの痕が見えるものもいるが、飼われていたものが逃げ出したのか、あるいは攻め手に奪われぬように態と逃がしたのか。

 儂の胸には、悪賢い馬丁がこの土地から去る時に、自ら馬囲いを壊した、という景色が思い浮かんでくる。

 その、我が夢想の中の馬丁の顔立ちが、貴公や貴公の父親の面構えに似て見えるのが可笑しくてならない。

 先日、ある野生馬の群れに、それは見事な青毛あおを見た。気性が激しく、中々捕まえることが出来ないが、手に入れるための苦労も、手に入れられるものが良ければ良い程、また楽しいものだ。

 あの馬ならば、岩櫃の崖でも苦もなく登るだろう。

 奴を手に入れたなら、遠駆けついでにそちらへ行く事に決めた。良い酒か、うまい茶の飲める碗、それから良い飼葉をたんと用意して頂きたい。

 云々――。



 私は文を眺めながら、思わず肩を揺らして、しかし声に出すことはどうやら堪えて、笑っておりました。

 私の頭の奥には、初めて訪れた萬屋の座敷で、自分の家におられるかのようにくつろいで、文を書いている前田慶次郎殿の姿が浮かんでおりました。

 その傍で萬屋の主が、初めてあった大柄な侍を、十年前からの同居人のようにあしらっている姿も、です。

 慶次郎殿ならば初対面の相手でも気に入れば刎頸ふんけいの友のように接するに違いなく、萬屋のほうも初めての客であっても「これ」と見込んだ相手なら心を開くに相違ないのです。

 それから、野山に出て何もしないことを楽しんでおられるような慶次郎殿、欲しいものを見付けて子供のように夢中で眺めている慶次郎殿の姿も、まるで現のように想像できます。

 そして、巨大な黒い馬に打ち跨った慶次郎殿が、今にも庭先にひょっこりと現れる、その光景も、ありありと見える気がしました。

 私は今すぐに筆を取り

『いつ何時でもお越し下さい。門は開け放ち、戸も鍵を開けてお待ちしております』

 と書きたい気分でした。

 その文が先方に届けば、おそらく慶次郎殿は本当に夜半の山道に馬を走らせて、この山城を訪れてくれることでしょう。

 私はその様子を想像し、楽しさのあまり身震いしました。

 その楽しさを押さえ込むのには大層苦労しました。

 そこへ垂氷は

「御返書は? お望みでしたら、今日の内に先方へお届けいたしますよ。わたしは歩くのが得意ですから」

 自信ありげに微笑してみせたのです。途端に、私は泣きたい気分になりました。

「その日書いた文の返書がその日の内に届いたら、どうなると……お主は思う?」

 こう尋ねると、垂氷は瞬きをしながら小首を傾げました。

 自慢の健脚が己自身にとって当たり前に過ぎるので、その速さが尋常ではなく、ともすれば怪しまれるやも知れぬ代物であることに、思い至らぬのでありましょう。

「最初の手紙を持って出た者も、返書を携えて戻ってきた者も、普通の人ではないと思われるぞ」

 私がそう言っても、まだ理解が出来ない様子でした。

「萬屋には普通でない者が出入りしているとか、その萬屋が真田贔屓(ひいき)だとか、萬屋の主人は店に出入りしているノノウや商人や百姓の格好をした者たちが『草』であることを承知しているだとか、承知しながらそれを滝川様に報告していないとか、そういうことが滝川様のご一門に知れても良いか?」

「そうなるとどうなりますか?」

「こうなる」

 私は自分の首に手刀を当てました。

 垂氷の顔が、僅かに強張った様に見えました。私は薄く笑い、言葉を続けました。

「なにしろ私たちは織田様の家臣になったばかりだ。良い家臣でなければならない。上役に隠し事をすることなどないような、ちゃんとした家来でないとな。でないと、私たちだけでなく、お前達ノノウも、それから萬屋も、萬屋に出入りしている者達も全部コレだ」

 私が再び手刀を首元に打ち付けて見せますと、垂氷は首を横に振りました。

「それは困ります。若様はともかくも、千代女様の首が飛んでは、困ります」

 これを真面目な顔で言うのですから参ったものです。

「お前、私を主とも雇い主とも思うておらぬな」

 私は苦笑いするより他にありませんでした。

 結局、私が返書をしたためたのは翌日の昼過ぎで、それを垂氷ではない、他の繋ぎ役のノノウに託して、萬屋へ届けさせました。

 そして萬屋の者がその又翌日に慶次郎殿の元へ届けてくれるように、と言づてました。

 一瞬、直接前田邸へ届ようとも考えもしました。間に何人もの人手を挟むのは、もどかしくてなりません。

 しかし、私の小さい肝がそれを押しとどめさせました。


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