歩き巫女 二
私と源二郎、頼綱大叔父は、着いた翌日にはそれぞれ、岩櫃、木曽、沼田へと向かうこととなっておりました。
於菊は、滝川様が厩橋の御屋敷を整える都合もあって、先方から迎えが来るまでは砥石に留まることになっています。
恐らくは、於菊を手放したくない父の「手回し」があったのでありましょう。
私が入った岩櫃城には、山城には似つかわしくないほどに立派な作りの館がありました。父がここに武田勝頼公をお迎えする腹積もりで築いたものです。結局、勝頼様は御自害あそばしましたので、真新しい居館は、暫くは主のない状態でした。
私が岩櫃に入って三日ほど経った頃のことです。
信濃巫であるとか、《《ノノウ》》などと呼ばれる「歩き巫女」の統帥である望月千代女殿と、その弟子の娘達二十人ほどが訪ねてきました。
巫女言っても、ノノウ達は特定の社寺に属しているのではありません。ノノウはご神体を携えて各地を遊歴して、その土地土地で雨乞いや豊作を願う祈祷をしたり、あるいは死者や神仏の口寄せをするなどして働くのです。
中には、田楽を舞い、傀儡を操るといった、旅芸人に近い者達もいます。あるいは神仏に仕えるのではなく、男衆に《《一夜限りで仕える》》ような事をする者達もおります。
千代女殿は四十歳を少し過ぎた、白髪の多い、ふくよかな、品の良いご婦人です。元は武田信玄公の外甥でもある望月盛時殿の奥方であられました。
その盛時殿は、永楽四年の「八幡原の戦い」とも呼ばれる、あの川中島の四度目の戦でお亡くなりなっておいでです。寡婦となられた千代女殿に、信玄公は「甲斐信濃二国巫女頭領」の任を与えられたのです。
以降、千代女殿は、信濃国小県禰津村でノノウの修練場を営んでおられます。
千代女殿の巫女道修練場には常時二~三百の女衆が居り、修練に励んでおります。その多くは、戦の続く世で親兄弟を失った若い娘御でした。百姓の娘も、商家の娘も、武家の娘も入り交じっているそうです。
私は本丸館の新しい床と新しい敷物の上に落ち尽きなく座って、女衆を迎えました。
まだ十にも満たない童女から、三十を過ぎた年増まで、様々年頃の女がいました。
女衆は、神社の巫女のような一重と袴といった出で立ちではなく、それぞれに様々な柄の、丈の短い小袖を着ております。
足首辺りがちらりと見えるその出で立ちが、妙に艶めかしく思え、何やらじっと座っていることが出来ない気分になりました。私はその照れを隠そうと、
「新しい館というのは、居心地の良くないものですね。とにかく尻の座りが悪い」
うわずった声で言いました。その様が無様であったのでしょう。若いノノウの幾人かが、口元も隠さずにクスクスと笑い出しました。
千代女殿が気恥ずかしげに
「修行の足りない者ばかりで」
と頭を下げると、流石に女衆は神妙な顔つきとなり、師匠に習って深く頭を下げたものです。
「いや、男の前で笑うて見せるのも、ノノウの役目で御座いましょう。若い娘の笑顔は、男の心を開かせる。心を開かせれば、こちらの聞きたい話を思うままに聞き出せるというものです。……今私も危うく余分なことを言いそうになった」
私が言いますと、千代女殿は誇らしげに頬笑みました。
甲賀望月氏は甲賀忍びの流れを組む家柄です。盛時殿はその甲賀望月氏の本流の当主でした。千代女殿がその妻となったのは、千代女殿自身の忍びの術が、すこぶる巧みであったためだと聞き及びます。
忍びの達人たる千代女殿の教えが、加持祈祷、呪術、薬石医術、神に捧げ人を惹き付ける歌舞音曲といった、巫女としての技術知識に留まる筈がありません。
己が身を守るための武術を学び、並の男共と渡り合っても生き残れるほどの腕前となった者もおります。
他の歩き巫女のように、夜に男の閨房に入る者もおりますが、その房中術と言えば、ただ男を喜ばせ、小銭やその夜の食事を手に入れるためだけのものではありません。彼女らのそれは、男共を籠絡し、操り、情報を引き出すための術です。
「《《武藤》》の若様……いえ、今は《《真田》》の若様でありましたな」
千代女殿は丸い顔を綻ばせました。
私が……というか、父が武藤姓を名乗っていたのは、天正乙亥の長篠の戦の後までです。もう七年も前から真田姓に戻っているのですが、千代女殿にとっては私は何時までも《《武藤喜兵衛の所の坊や》》なのでしょう。
「真田の若様の本心を聞き出す機会を逸したとあれば、残念なことでありまする。若様も殿様も、真田の皆様は皆、中々に腹の奥底を見せてくださいませぬ故」
千代女殿は元々細い眼を針のように細くなさいました。
私は苦笑いして、
「父は元より、私も不誠実ですか?」
「さても……。腹の扉の開閉を己の一存で決め、誠実と不誠実の両方を使いこなすのが、今の世では良い侍ということでありましょう。若様はお父上に似て、良い侍であると言うことで御座いまするよ」
「それが信濃巫女の頭領が降されたご神託とあれば、有難く受けましょう」
私は土地神の社殿に詣でる以上に深く頭を下げました。
「『神託』はまだ他にも御座いまする」
「それは父も聞いた『お告げ』ですか?」
私が訪ねますと、千代女殿はこくりと頷かれました。
「真田の殿様は、武田の大殿様亡き後、身の置き所に不自由しておりました我らノノウを庇護してくださるとの事で御座います由に。殿様の求めがありますれば、我らは何時でも神懸かり、言葉をお告げいたしまする」
遠回しな物言いでした。
千代女殿とその配下のノノウ達が、我が父の命を受けて、「草働き」つまり忍者の役目をしてくれている――ということをそのまま言うのは、例え真田の城の中であっても、まだ憚られるのです。それほど真田の立場は不安定でした。
先ほどの私の問も、真意は『父も』ではなく『父から』であり、『お告げ』ではなく『指図・命令』を意味しています。
千代女殿は笑顔を崩さずに、
「禰津村から優れた者を選んで連れて参りました。後は各地に散っております特に腕の良い者達にも繋ぎを付けております。合わせれば百に少し足りない程の人数になりましょうか。……とまれ、連れてきた内の十ほどは、砥石の殿様のご要請にて、砥石のあたりを中心にして歩き働く事になっております」
「では残りの衆は何処へ向かわれましょう?」
「さて、近いところで善光寺、甲府、沼田、小田原のあたりですね。私は草津のお湯にでも浸かろと思っておりますよ」
「遠いところでは?」
「諏訪のお社に『御札』を取りに参った者もおりますし、脚を伸ばして木曽の御岳様、岐阜の伊奈波神社。伊勢の神宮へ『祈願』に向かった者もおります。何分にも、あのあたりの『御札』は『法力』が強うございますから……。出来ますれば、北野の天満さまや厳島の本宮、讃岐の琴平、宇佐の八幡さま辺りまで行きたいものです」
即ち、ノノウ達はすでに、関東から信濃、そして岐阜美濃に進入し、京の都や芸州、四国、九州あたりにまでその「網」を広げようとしている、ということを意味します。
父は砥石の山頂に座したまま、上杉殿の情勢、北条氏の情勢、関東に残られている滝川様の動き、南信濃の国人の動向、そして織田様の事を知ることが出来るのです。さらには山陰山陽、南海四国、西海九州まで見て通そうとしています。
あの時、「砥石の城は京に遠い」と言っただけの私のことを強欲者と笑った父ですが、なんの、私などよりもずっと欲深なことでありましょうか。
私は貪婪な父が無性に羨ましくなりました。父が得る事柄を私も知りたいと、猛烈に感じました。
そこで、
「この辺りにも《《信心深い者》》が居るので、幾人かこちらを回って貰いたいのですが」
千代女殿に遠回しに私にも情報網の一角を握らせて欲しいと頼んでみました。
「もちろん、元より幾人かこの郷を回らせるつもりでございますれば。それから一人は若様の武運長久を祈祷をする役目に、このお屋形に留めおけという『神託』が、高いところから降りました故」
千代女殿は手を捧げ挙げ、天を仰ぎました。
「なるほど『神様』は何でもお見通し、と言う訳ですか」
真田昌幸という「神様」には到底敵わない――願いが通じたというのに、私は少々口惜しく思ったものです。
岩櫃の城に残ることになったノノウは、年の頃十三、四ほどの娘でした。
旅から旅の歩き巫女の割りには色が白く、目玉のくりくりとした、子供のような顔の娘です。
千代女殿と他のノノウ達がそれぞれに出掛けた後、娘は、
「わたしは千代女様の秘蔵っ子、垂氷、と申します。若様にはよろしくお見知りおき下さいませ」。
などと臆面無く申しました。
このように、少々勝ち気な所のある娘ではありますが、確かに『千代女殿配下の巫女』としての技量は優れておりました。
祈祷であるとか医術薬草に関わる事柄についての知識や技量があるのは、ノノウとして当然のことです。
それがなければ、人に「只のノノウではない」と見透かされ、怪しまれてしまいます。それでは「草」としての働きは到底できません。
もっとも、もっぱら男衆の相手をすることに専念するノノウもおり、そう言う「役目」の者であれば、本来の巫女としての技量を持たない事も有り得ましょう。ただ私が見る限り、垂氷には其方の「役目」は与えられていない様子でした。
これは、色町の女衆のような白粉臭さや酒臭さが感じられないといった程度の、私から見たらそうではなさそうだ、という感覚でしかありません。
確かめようにも、年若い娘子に
「お前は巫娼か?」
と聞くわけにはゆきますまい。聞いたとして、そして答えが返ってきたとして、気恥ずかしくなるのは多分私の方です。
何れにせよ、巫女の仕事の為に必要な事柄のことで優れている事には、感心はしますが驚く必要はないとおもわれます。当たり前のことなのですから。
私が驚いたことの第一は、垂氷が読み書きが達者なことでした。仮名文字は言うに及ばず、漢文が読み書き出来るのです。
武家や公家の娘であれば、仮名文を読み書きすることは出来ましょう。それでも、女衆で、それも歳若い娘で、乎己止点のない白文を読み下せる者は、武家の中にもそうはいないものです。
私がそのことに感心しますと、垂氷はけろりとした顔で、
「漢字が読み書きできませんと、『御札』を『頂戴』したときに、その『有難味』が判りませんし、『祝詞の中身』を諳んじることも、それから新しく『御札』作ることを出来ませんでしょう?」
と申しました。
つまり「密書や他人の書簡を覗き見て覚え、その内容を主人に伝えたり、時として贋手紙を作るような工作をする為に必要なことだ」と言っているのです。
「源氏の君の物語を書いた紫式部でさえ、漢文に達者であることを隠していたそうで。読めないフリ、書けないフリをするのが、また骨の折れることなのでございますよ」
垂氷は己の肩を叩く真似をして、戯けて見せました。小さき山城だとは言えど、一応は岩櫃城代である私の前で、実にけろりんかんとこういった振る舞いをしてみせる辺りは、剛胆と言うより他ありません。
「利口者が莫迦者のふりをするのは大変だろうな」
私がからかい気味に、しかし本心感嘆しますと、垂氷は、
「わたしより若様の方が余程お疲れで御座いましょう」
などと言って、にこりと笑ったものです。
しかし黒目がちな目の奥には探るような光がありました。
いえ、あるような気がしたに過ぎないのかもしれませんが……。
そのために、私には、垂氷が私が仕えるに値する男なのかを見極めようとしているのではないか、と思えたものです。
品定めされるというのは、あまり気分の良いものではありません。かといって、そういった小心な不機嫌を察されるのもまた面白くありません。
「ああ、疲れる、疲れる。莫迦が利口のふりをしようと努めると、頭が凝って仕方がない」
私は阿呆のようにケラケラと笑いました。
垂氷は不可解そうな顔つきで、私を眺めていました。むしろ嗤ってくれた方が幾分か気楽だったのですが、この娘は妙なところで真面目なところがありました。