家内安全 六
何か言いたいのに、言葉にならぬ。それがもどかしく、苦しくて堪らぬのでありましょう。
喘ぐように、
「宗兵衛……貴様……」
と声を漏らすのが精一杯といったところでありました。おそらく続くのであろう、
「よもや裏切るつもりではあるまいな?」
という、憤りと不安と否定を願う懇願の言葉が出てきません。
「世の中、何が起こるかわかりませぬ故」
前田慶次郎殿の瞼が、大きく開きました。眼は澄み渡っており、邪心のようなものは針の先ほどもありません。
「三九郎殿の祖父殿が儂を必要となさる限り、儂は付き従いますよ。ただ、儂をいらぬ者とおおせなら、儂は喜んで出てゆく。ま、結局某がどう動くかは、彦右衛門の伯父御がどう動くかによって決まるということですよ」
「爺様が宗兵衛を手放すはずがないではないか」
三九郎殿が吐く安堵の息の音は誰の耳にもはっきりと聞き取れました。慶次郎殿の眼の色が、わずかに曇りました。
確かに、滝川一益が戦を続ける限り、天下一の槍使い前田利卓を手放すことはありえません。
しかし、戦うことをやめてしまったならどうでありましょうか。
例えば、偉大な主人・織田信長を失ったことによって、己が戦う意義をなくしてしまったなら――。
滝川一益という武将が、六十という歳相応に老けこんで、どこぞの山中の静かな場所に引きこもったなら。
その時、この槍使いは……前田慶次郎という武人は、人も通わぬ静かな隠れ家に留まり続けることができるでしょうか。
戦いが絶え滅びてしまった世であるならば、問題はありません。わざわざ自分で火種を起こし、焚き付け、煽るような人ではありません。――むしろ、それ故に「一国の主」には向かないともいえますが――。
ともかく、世が太平であるならば、この教養溢るる方は、歌を謡い、舞を舞い、茶を点て、書を読み、詩作に耽る暮らしを不満なく送られるに違いはありません。
しかし、太平の世など、夢の夢の絵空事でありました。
誰かが誰かと槍を合わせている。
馬が走り、鉄砲が火を吹いている。
幾万の命が燃え、そして消えてゆく。
その中で、この仁がじっと座っていることなど、果たしてできましょうか。
外には戦がある。
硝煙が臭い、鬨の声が聞こえたなら、この男は嬉々として槍を掻い込み、あの黒鹿毛の胴を蹴り、背後を一瞥することさえなく、矢のように飛び出してゆくことでしょう。
前田利卓は戦ができる場所に居続けることを願っている。
戦がしたいと願っている。
私は何やら背中に嘘寒いものを感じました。
「それでは、上州に戻られるのですね」
その時、そこに戦があったのです。慶次郎殿はニカリ、と笑われました。さながら、隣家に遊びに出かける子供のような笑顔でした。
「滝川一益には信濃で戦をするつもりが無いからな。……これは儂が請け負うぞ」
黒鹿毛がゆっくりと歩み始めました。私の横を通り過ぎ、三九郎殿の眼前で止まりました。
「馬上より失礼。さて若様、おうちに帰りましょうかね」
慶次郎殿の大きな手が、滝川三九郎一積殿の襟首に伸びたかと思うと、その決して小さくはない体が宙に浮きました。
「嫌だぞ宗兵衛! 俺は菊殿をお父上の処まで送る!」
三九郎殿は駄々子の如く手足を打ち振るいましたが、その程度のことで慶次郎殿が手を離すことなく、また馬も歩みを止めることがありません。
「どのお父上ですか?」
からかうような口ぶりでありました。襟首から吊り下げられた三九郎殿が口をへの字に曲げて、
「菊殿のお父上だ。真田安房殿は、つまりは俺のお父上でもある」
すこぶる真面目に答えを返すのを聞くと、慶次郎殿は馬上からチラリとこちらへ顔をお向けになりました。
申し訳なさ気な苦笑いをしておいででした。私も苦笑いで返しました。
傍らの於菊は、両の袖で顔を覆うようにして、
「妾は、存じ上げません!」
などと申しましたが、夕日よりも赤く変じた耳の先までは隠しきれぬものでありました。
慶次郎殿はカラカラと乾いた声でお笑いになりました。
「先方からは半ばお断りのごときお返事を頂戴して、そのうえお相手の姫君からはあのように呆れられておるというのに、うちの若君のしつこいことといったら! まったく祖父殿によく似ておいでだ」
三九郎殿のお体は、馬の鼻先を上州に向けた馬の背に載せられています。
「しつこくて何が悪かろうか! しつこいからこそ、爺様は、亡き御屋形様よりお預かりしたこの関東を守り通そうというのだ! そのために、於菊殿には暫時戦火の及ばぬ場所へ退いてもらうという事であろうが」
こちらへ振り返った三九朗殿の顔には、決死の覚悟が浮いておりました。
泣き出しそうな赤い目を一度固く閉じ、また、握り締める音が聞こえてきそうなほど、手綱を強く握りしめました。
馬腹を軽く蹴ると、馬は小さく足を前へ出しました。
上州へ、上州へ。
「暫時だ、暫時! 誠に僅かな間のことだ」
強情な若武者はこちらへ背を向けたまま、叫びながら峠を下ってゆきました。
於菊の、顔を覆う両の袖の下から、
「殿方は皆、嘘吐きです」
小さくつぶやく声がしました。
私は何も言ってやれませんでした。見るのも辛くて堪りません。
弱虫の私は顔を上げて、歩き出さずにいるもう一人の強情そうな武者を見ました。
前田利卓という老練な武将は、
「うちの左近将監は、上州の中だけで抑えこむ算段でいるようだが、そう簡単には行かないだろうな」
他人事のように仰り、ふわっと微笑まれました。
「わが父には、どのように伝えればよろしいですか?」
私の問いに対して、
「御屋形様後生害のことかね?」
慶次郎殿は少々意地悪そうな眼差しをされました。私は思い切って、申しました。
「いえ、北条殿との戦のことです」
つまり、織田信長の死のことなど、我らは疾うに知っている、と暗に打ち明けたのです。




