家内安全 四
親兄弟子孫知友よりもなお長々生き残り、畳の上で親族家臣に看取られて逝く幸福は元より良し。されど、戦場で素晴らしい敵将と堂々渡り合って、槍に貫かれて逝く幸福も、武人であれば願って当然とは思われませんか。
ともかく、この時の私は、
『前田慶次郎になら殺されて当然、寧ろそれで構わない』
と思っていたのです。それどころか、
『あの長槍に貫かれて死にたい』
とさえ考えていたのです。
ところがそれと同時に、頭の後の方では、
『それはあり得ない』
とも感じておりました。
理由はありません。ただそのように思えたのです。
そのように思えただけのことで、私は武器ではなく笛を持ち、息を潜めるのではなく大きく音を立て、睨み付けるのではなく笑って迎えたのです。
慶次郎殿は渋柿を召し上がったかのような顔をしておいででした。
光の加減の為でありましょうか、どうやらこちらの顔がよく見えない様子でありました。
しかしながら程なく、
「やはり源三郎だ。あの胸に響く笛の音を、この儂が聞き違えるはずがない」
弾けるように大笑なさったのです。
前田慶次郎殿は、掻い込んでいた槍を物も言わずに無造作に後方に投げました。それを郎党らしき者が当然のことであるかのように見事に受け止め、すかさず穂先を鞘に収めました。
なんとも武辺者らしい振る舞いでした。
私がほれぼれとした面持ちで見ている前で、慶次郎殿が件の青鹿毛の馬腹を軽く蹴られました。ご自慢の駿馬は六尺も跳ね上がり、堀割道の底から灌木の茂みすら飛び越えて、なんと私のやや後方に着地したのです。
蹄の三寸ほど脇で、禰津幸直が腰を抜かしておりました。
その幸直の体を器用に避けて下馬した慶次郎殿は、私の顔をしげしげと見て、
「しかし、お主の父親も非道い父親だが、妹も大概だな」
「妹……?」
一瞬、何の事やら判らずに小首を傾げますと、慶次郎殿はあきれ顔をなさって、
「於菊姫だよ。あの可愛らしい、お主の妹の」
「於菊に、お会いになられた?」
我ながらおかしな事を言ったものです。慶次郎殿は馬狩りから戻られて以降は厩橋においでだったのです。城内の人質屋敷にいる我が妹の顔を見ても不思議ではありません。
しかも、慶次郎殿にとっては主君の嫡孫である上にいとこ違いの間柄である滝川三九郎一積様との縁談「らしきもの」が持ち上がった相手でもあります。顔つきの一つや二つをお確かめになって然るべきとも言えましょう。
「会うも何もないわい」
慶次郎殿は少々呆れ気味に道の側を顎で指し示しました。
あの頃にままだ珍しかった女駕籠の引き戸が開いて、中から見知った、今にも泣きそうな幼顔が現れました。
頭は桂巻で覆い、身には継ぎの当たった一重を着ております。化粧気のない顔は煤にまみれていました。
遠目から、着ている物だけを見ますれば、お世辞にも貴人とは言い難い装束です。
その貴人らしからぬ身なりの者が、あのころにはまだそれそのものが珍奇な乗り物であった駕籠の、たいそうに立派な扉から出て参ったのです。
本当ならば、不釣り合いなはずです。
ところがちっともそうは見えませんでした
なにしろ、出てきた娘の頭を覆っている布はこれっぽっちも汗じみたところが無く、晒したように白いのです。
着物のに継がれた端切れには、使い古した布地の風情がまるで見えなません。
おまけに、顔の煤の汚れはまるきり手で塗りつけたようでありました。
すべて取って付けたようで、ことごとくあからさまで、万事嘘くさいときています。
この扮装そのものが、「私は農婦ではありません」と白状しております。
私は苦笑しました。
私たち自身がもここへ来るときにずいぶんと下手な「百姓の振り」をしたわけでありますが、なんの、あの下手な変装と見比べれば、千両役者のごとき化けっぷりであったといえましょう。
百姓のフリをして他人の目を誤魔化そうというのが、於菊の考えか、あるいは周りの入れ知恵かは定かでありませんが、
「やれやれ、兄妹そろって似たようなことを」
私は笑いながら、涙をこらえておりました。
妹は無事でありました。少なくとも、命はあります。
それにどうやら、ここへ来るまでの間にまたぞろ杉の葉を喰うような思いはせずに済んだ様子です。
そして件の偽百姓娘の方はといえば、切り通し道の崖の上に私の姿を認めた途端、こらえることもせずにわっと泣き出したのものです。
そのまま物も言わず、崖下に駆け寄ったものの、さすがに女の足でよじ登ることが苦労であると見るや、その場にくずおれるようにして座り込んでしまいました。
あとは顔を覆って泣くばかりです。
私は灌木を乗り越え、崖を転がるようにして滑り降りました。足が着いたのはなんとも良い案配に、ちょうど泣き虫娘の真ん前でした。
私がしゃがみつつ、妹の肩を抱いてやろうとしたそのとき、私の耳はおかしな音を聞きました。
鍔鳴りです。
そのすぐ後、頭の上で、鉄がぶつかり合う音がしました。
私は右の腕に「重さ」を感じておりました。
重さだけです。痛みのたぐいはありません。
私の右腕めが、勝手に脇差しの鎧通しを引き抜いて、頭上に掲げ持っておりました。
その太く短い刃に垂直に交わるようにして、長い刀が打ち下ろされていました。
臆病者の私の身体には、なんとも妙な「癖」が染みついております。刀を打ち込まれたら防ぐという動作を、頭で考えるより先に身体の方がしてくれます。
いや、便利なようですが、かえって不便なこともありのですよ。
相手がこちらを襲う気などさらさらないというときでも、こちらが勝手に逃げることが多々あるのですから。
それはともかくも。
私の右手が押さえてくれた長い刃の根本には、当然ながらそれを握る籠手がありました。
籠手の先に黒糸威しの大袖があります。
その向こうには黒い顔が見えました。
立派な口髭と頬髭を生やしています。大きく開いた口元には、尖った白い歯が居並んでいます。
恐ろしい怒形でした。
一瞬、ぎくりとしましたが、すぐに私は安堵しました。
怒り狂った猛将の口元の上に、怯え、潤んだ、黒目がちな眼があったからです。
怒形の面頬を被っているのは『子供』に相違ありません。
確かに一見、立派な鎧を着た大柄な武将ですが、その中身は、おそらく私よりも年下で、ともすれば未だ初陣に至らぬ|若造》》あろうと見て取りました。
第一、打ち込んできたその刀に、刀以上の重さを感じません。すなわち、私を……一人の人間を斬り殺すために必要な力を、まだ身につけていない、未熟な小僧に相違ないのです。
自分も子供でありましたから、そして自分も小心者でありますから、同類はすぐに判ります。
私は相手の刀をはじき返すことをしませんでした。
そうするより前に、私の頭の上と目の前から、それぞれ声がしたからです。
「三九郎殿、たとえ御身のなさることでも許しませぬぞ」
同じ言葉でした。しかし声の色はだいぶん違います。
頭の上から振ってきたのは、破鐘のような声です。
目の前からあがったのは、鈴のような声です。
しかしどちらも大きく、そして大変怒っていました。
二つの声から「三九郎殿」と呼ばれたその若武者は、忙しく首を上下に振って、二つの声の主の顔を見比べました。




