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真田源三郎の休日  作者: 神光寺かをり
家内安全
31/36

家内安全 三


 私の所為で一羽の鳥もいなくなった森の中は、木々のざわめきさえも消え去り、静まりかえりました。私に聞こえたのは、私自身の心の臓の音、幸直の抑え込んだ息づかいばかりでした。

 実際には、それほど時が過ぎたわけではありませんでしたが、あの場では長い時のように感じられたのです。

 あるいは日も月も止まってしまったのではないかとさえ思われました。

 私はすっと体を起こしました。

 その時の一同の顔を、私は忘れることが出来ません。

 目を見開いて驚愕する者がおりました。覚えず頭を抱えた者もおりました。皆一様に驚いていたのです。

 数名の体の動きは、しかし、私が目を配るとぴたりと止み、皆はまた背を低く伏せた形で岩のように固まりました。

 ただ一つ、無駄に高い上背の私の頭がのみが、灌木の茂みから突き出た格好となりました。

 相変わらずの濃霧の中に、私の目にもその形が認められるほどに近付いてきている一つの騎馬の影があります。

 それが霧に映り込んで大きく膨れた幻影でないとするならば、その馬は大層な肥馬であり、打ち跨る人もまた堂々たる恰幅の武者でありました。

 一見すると甲冑かっちゅうまとっていない様子でしたが、先ほど「耳効き」が、

「鎧武者三騎」

 と申しておったことを疑いなく信用した私には、着物の下に胴鎧どうよろい鎖帷子くさりかたびらを着込んでいるのだと思われました。

 時折チラチラと鋼が陽を弾く閃光が見えましたので、何か抜き身の武器を携えているに違いありません。

 しかしその光は鋭いとはいえ小さいものでした。さすれば太刀ではなく、槍の穂先でありましょう。

 太刀であれ槍であれ、抜き身を持っているとあらば、あちらの方は当方と闘う意思をお持ちだということになります。……無論、こちらを「敵」と判断なさったその時には、でありますが。

 こちらには目利き耳効きがいてくれた御蔭であちらの人数がはっきりと知れましたが、あちらの方にこちらの伏勢ふくぜいの数がはっきりと判っているとは到底思えません。

 潜んでいるモノがナニであるのか――鼻の効く武将であれば、火縄の臭いをさせていない我々から銃撃される可能性が無いことは判っているでしょうが――正体が殆ど掴めていないものと思われました。

 正体不明のモノが、正体不明の大声を立てている。そこに乗り込んでこようという彼の騎馬武者の胸には、一騎当千の自信が満ちているに相違ありません。

 そんな方が、一戦交えてでも守ろうとしているからには、駕籠の中の者は、すこぶる大切な方であるのでしょう。

 私は一震えすると、懐に手を差し入れました。

 途端、私の回りの気配が、一層に張り詰めたものとなりました。

 禰津幸直が、太刀の柄に手を添えて身を低く屈めたまま、私の顔を見上げました。唇を噛んでいます。

 私の眼の端の方に、不安とも不審とも呆然とも驚嘆とも安堵とも、何様とも取れ、何様とも取れぬ、一寸言葉に表せぬ、幸直の唇を噛んだ顔がありました。

 恐らく私が、

「行け」

 と言えば、躊躇ちゅうちょ無くその太刀をすっぱ抜き(・・・・・)、土手を駆け下り、馬上の人物に斬り掛かることでしょう。

 それが私には真実を見るように想像できます。

 その人の槍の穂先が、幸直の背中から突き出て、ぎらりと赤みを帯びて輝いている、その様子も、です。

 私は何も言いませんでした。息を吐くことさえ忘れていたような気もいたします。

 私は懐に忍ばせていた物を掴み、近付く影を見つめておりました。

 馬上の影の、それが馬に乗っているとは思えぬほど揺れることもなくすぅっと進み来るさまと申せば、さながら仏師が精魂込めた騎象きぞう帝釈天たいしゃくてんの像を、道に丸木を敷き並べた上に滑らせて運んでいるかのようでした。

 私は懐の中の細い棒きれ(・・・)を素早く引き出しました。

 伏せていた幾人かの腰が浮きました。声を上げる者はおりませんでしたが、皆眼差しを私の手元に突きたてました。

 皆の眼には、一尺強の竹の黒い棒切れが写ったことでしょう。

 一同、ぽかりと口を開けました。

 それが何であるか見極められなかった者は、私が何をしようとしているのかも思い当たらず、ただ唖然あぜんとしておりました。

 武器ではないらしい、程度のことに気付いた者は、武器も持たずに敵……らしき者の前に出る気ではないかと思ったものでありましょう。そして「青二才めがとうとうおかしくなったか」と、大いに動揺したのです。

 そしてその「棒切れ」が何であるか気付いた者は、私が「そんな物」を戦場に持って来ており、それも、敵らしき輩が迫っているこの時に持ち出すという非常識をやらかすのを見て、不安にかられたのです。

 故に一同は、目玉が溢れそうなほどに目を剥いて、顎が外れ落ちそうなほどに口を開いて、私を睨んだのです。

 ただ一人、幸直を除いては。

 そうです。禰津幸直だけは、上顎と下顎とをきっちりととじ合わせておりました。

 私は、幸直以外の者達が、私に飛びかかり、押し倒し、地面に押さえつけるより前に、素早くその棒きれを、口元に宛がいました。

 裏返された女竹の横笛が、甲高い叫び声を上げました。

 耳効きの者が、覚えず、頭を地面のその下まで潜り込ませようかという勢いで伏せ、両の耳を手で覆い塞ぎました。

 他の者……幸直を除いた殆どの者達も、耳効きほどの慌てようではないにしても、あるいは頬肉をヒクつかせ、あるいは鼻の頭に皺を寄せ、あるいは瞼をぐっととじ合わせて、耳の穴に指を突っ込み、頭を抱え込みました。

 私は満足していました。

 会心のひしぎ(・・・)だったからです。

 ヒヤウ(・・・)ともヒヨウ(・・・)ともキイ(・・)ともヒイ(・・)とも言い表せぬ、己の体から何かが飛びだして行くような音が、朝靄で濡れた森の中を抜けて行きました。

 ええ、左様です。

 私が吹き鳴らしたのは、京に住まう母方の祖父から戴いた、由緒あるあの能管のうかんであります。

 彼方から山鳥の啼く声が、かすかに聞こえます。

 その向こうへ、あの音が遠く霞んで消えて行くと、それに連れるようにして、霧もまた薄れてれてゆきました。

 木々の枝の隙から、黄色みを帯びた日の光が幾本もの帯のように差し込み、薄暗かった森と道筋とを明るく照らしました。

 霧の中の大きな人馬の影も、次第にその真実の姿へと変じてゆきました。


 前田慶次郎利卓殿と四尺九寸の黒鹿毛くろかげです。

 

 慶次郎殿は抜き身の槍を掻い込んで、太い眉の根を寄せ、小高い道脇の茂みを……つまりそこから突き出た私の顔を、鋭い眼差しでじっと見ておられました。

 私の足元で、

「ぐうっ」

 苦しげないびきのように息を飲み込む音がしました。

 私は幸直の顔を見るようなことをしませんでしたが、恐らくは真っ白な顔で、唇を振るわせていたのでありましょう。

 普段の幸直は矢沢の頼綱大叔父の下におります。つまりは、昨今は沼田にいるのが常でありました。城代は滝川儀太夫益氏様です。即ち、慶次郎殿の実の父上様です。

 確かに慶次郎殿は滝川家から前田家へ養子に出された方です。その上、日ごろ「実家」には寄りつかずに、お屋敷のある厩橋うまやばしあたりにおいでになるご様子でした。

 それでも滝川陣営でも随一だという槍使いの、苛烈かれつ極まりない武者振りを、幸直が全く知らぬというわけはありますまい。

 知っているからこそ、恐怖したのでありましょう。

『あの方が、敵であったなら』

 幸直を小心と嘲るつもりは毛頭ありません。私は、出来るだけ平気そうな素振りで、顔などは努めて嬉しげな笑顔を作っておりましたが、その実、心底震え上がっていたのですから。

『あの方が、敵であったなら』

 私は畏れ戦きながら、しかし、

『それも、また良し』

 とも思っておりました。

 不思議なことでありましょうか。

 人間いずれは死ぬのです。

 死ぬのは怖い。死にたくはない。

 幾度も申し上げたとおり、私は小心者です。常日頃より、出来る限り生き残りたいと願ってやみません。

 生き残れるというのなら、杉の葉の煮込みを食すぐらいのことは何でもありません。石を噛み泥をすすってでも、どれ程情けなく藻掻もがいてでも、どうあっても生き抜きたい。

 ですが、どう足掻いても絶対に死ぬというのなら、出来るだけ良い(・・)死にっぷり(・・・・・)でありたいのです。

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