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碓氷峠 三

 甲斐かい新府しんぷの城が、その主たる武田四郎勝頼様の御命令により焼き払われた時のことです。

 私と弟の源二郎、姉妹とまだ小さい弟達、母や叔母、親戚の女子供は、城を出ることを許されました。

 木曽昌義様が逸早いちはやく織田様に寝返ったがために、その縁者の方々が首をねられたのは、その更に一月ひとつきほど前の事でした。

 我々が命を拾ったのは、父が最後まで武田から離反しなかったためです。厳密に申すならば、離反を宣言(・・・・・)しなかった(・・・・・)ため、かもしれません。

 ともあれ私は、親族と、僅かばかりの女中郎党を率いて新府を出、私達だけの力で砥石といしへ向かわねばなりませんでした。

 真田の猛者達は、殆ど父に率いられて砥石にこももっておりました。女子供を助けるがために、少しの兵力をも分けることは、とても出来ぬ相談です。

 甲斐の武田の兵士は勝頼様に従って敵地へ、あるいは、武田を見限って各々故郷へ出払っています。

 護衛など望むべくもありません。

 私達は深い山の中を彷徨いました。食料などを持ち出す暇はありませんでしたから、すぐに空腹に苛まれることになりました。何か採ろうにも地面は雪と枯葉に覆われ、わらび一本出て居おりません。

 致し方なく、唯一枯れていない物を採って食べました。

 杉の葉です。

 いや、ごもっとも。杉の葉などは線香や狼煙のろしの材料であって、まったく人の食べる物ではありませぬ。

 人ばかりか、獣であってもあのような物に口を付けるものですか。

 鹿や猿めらが冬の最中の木の実も草もない時に致し方なく杉を喰うなどというときでも、葉ではなく木の皮を剥いで、その内側の柔らかい所を食べるのだといいます。

 しかし我らは食べました。

 食べるより他になかった。

 一応、人間らしいことはしたのですよ。火をおこして、煮てみたのです。食べやすくなるかと思いましたが……。

 青臭く、油っぽく、渋く、苦く、固い。

 いや、思い出しただけでも口が曲がります。

 その時も私は曲がった口で私の精鋭達に申しました。

「いざとなったら、アレを喰えばいい。一息に十か二十は歳を取ったような渋い顔に変わる。だから、わざわざ出がけに何か細工をする必要はなかろう」

 皆苦笑いしました。

 武田滅亡の折には、そのろくんでいた者達の大半が、大なり小なり苦労をしたのです。

 あるいは私よりも余程辛い目を見たやもしれません。

 皆、そんな思いは二度としたくないと願い、同時に、またあの苦しみを味わうことになるやも知れぬと畏れました。

 この時に誰ぞがぽつりと零した声が、未だ耳に残っております。

「そんなものでも、喰えば腹は膨れる……」

 誰が申したのか、思い出せません。幸直か、あるいは別の者か――。

 存外、私自身が言ったのやもし知れません。


 我らが隊の先頭には、禰津幸直が付くこととなりました。

 幸直のみは、農夫の着物の上に古びた腹当鎧はらあてよろいを着込んでおりました。腰にはこしらええの悪そうな刀が下がっております。

 戦場から落後して彷徨さまよったその果てに、僅かなあわの粥を口にするのと引き替えに農夫の用心棒なったかのような、哀れな侍崩れのような格好です。

 好んでそのような格好をしたのではありません。私がそのなりをさせたのです。

 その哀れな格好を幸直にさせておいて、私自身はどうしていたかといえば、隊の半ばに隠れるようにしておりました。

 お笑いくだされませ。

 袖丈そでたけの合わない継ぎだらけの野良着のらぎを羽織り、がさを目深に被って顔を隠し、身を縮こまらせていた、情けない私を。

「まるきり、用心深い百姓がどこぞへ何やらを運ぶ風情そのもの、ではありますが」

 幸直は不平を露わに口を尖らせました。

 戦続きの時世でありました。物持ものもちな百姓の中には財産を別所へ避難させる者もおりました。

 ある日突然侍共がやって来て、徴集(・・)だなどと言い、米も野菜も家財も、時には人さえも奪って行くからです。

 避難の途中で奪われては困ります。ですから物持ちは、村の力自慢の者が……大抵の男は農夫であると同時に地侍でありますから……戦に出ていなければその者に、そうでなければ、どこかの軍勢から逃げて……いや落ちてきた「侍だった者」を雇うのです。

「何か、不満か?」

 私は幸直のふくれ面に尋ねました。

「誰であれ侍ならば、落人おちうど牢人ろうにんの姿など、嘘でもしたくありませんよ」

 幸直が言うのは当然のことです。誰しも敗残兵などにはなりたくありません。

 大体、この時の我らと申せば、そうなりたくないが為に、必死を持って碓氷峠へ向かおうとしているのです。

「私も願い下げだよ」

 だからこそ小狡こずるい私は農夫のフリをしているのです。幸直は四角い顎を突き出して、

「ご自身がなさりたくないことを、それがしにはさせるのですな」

「ああ、させる。済まぬな」

「謝られても困りまする。と申しますか、若はいつでも誰にでも頭を下げればよいとお思いのようですが、それで大将が務まりましょうか」

「さあて、どうであろうな」

 私が自信なく言うと、幸直は大きく頭を振り、息を吐きました。

「しかし、まあ……。若が侍でない格好をなさっても、まるで似合わぬことで」

「そうかな?」

「百姓の気骨きこつが感じられませぬ」

「うむ。私は弱虫だからなぁ」

「全く、若は昔から物知らずで臆病で泣き虫の狡虫であられるから」

「そうと知っているなら、文句を言うなよ」

「それがしは若に輪をかけた臆病者。若に向かって文句など、口が裂けても言えません。これは独り言です」

「よう聞こえる独り言だな」

「若が耳聡みみさといだけです」

「そうか。しかし、お前も私の独り言が聞こえたらしいから、私以上に耳がよいのだろう」

「あれは独り言ですか?」

「ああ、独り言だ」

「左様で」

 言うだけ言うと、幸直は突き出していた顎を引きました。

 農夫の形をした侍達が、肩を揺らして笑いを堪えておりましたが、

「では、参りましょうぞ」

 先導の幸直が号するのと同時に、皆笑うのを止め、静かに荷を担って歩き始めました。


 先導は信濃を指して行きました。上州の側には滝川様方の方々も武田遺臣の者もいるのです。そういった顔見知りの方々に、ばったりと出会ってしまわぬ為の用心です。

 戦に怯えるこの百姓(・・)が実は私であると云うことがすぐに知れてしまっては、私が困りますから。

 だからといって道なりに進んで信濃に入ってしまっては、我々の顔をもっと良く知っている者達――例えば真田昌幸であるとか――そういう方々に出会ってしまいます。

 ですから信濃の方向の、山の中に分け入ったのです。

 そうして我らは山の中を進みました。

 本筋の道ではありませんから、歩きづらいことはこの上ありません。もしも鎧など着込んでおったなら、すぐに息が上がってしまっていたことでありましょう。

 私達は……というか、私という一人の小心者は、ちいさな物影が動くにも木の葉が擦れる些細な音にもおどおどと怖じ気づきながら、歩みました。

 ところが、道行きには火縄の臭いも、血の臭いも、死人の臭いもないのです。

 これから戦へ向かおうという軍も、戦場から逃げ帰ってきた人々も、()山賊(さんぞく)の類にちた者共にも、出会うことはありませんでした。

 私は安堵しましたが、殆ど同じくらい拍子抜けも感じたものです。

 わざわざ装いを変えた用心は――山道が殊の外歩きやすく、道行きが思ったよりも随分とはかどった以外は――ほとんど無駄と云ってよいものでした。


 こうして、運良く、あるいは運悪しく、私達は何事もなく碓氷峠へとたどり着きました。


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