碓氷峠 二
「厩橋に証人がいる」
垂氷が何か言いかけましたが、その前に盛清が、
「つまり、手薄な城に忍び込むか急襲するかして、厩橋に閉じ込められている於菊様をお助けしろ、ということでありますな。承知承知」
ひょいひょいと歩むと、開き掛けの襖を大きく開け放ちました。
「さ、参りましょうかね」
垂氷は盛清の柔和顔を見上げ、固唾を飲み込むと、頭を振ったのです。
「嫌でございます」
これを聞いて盛清は私の顔色を窺い見つつ、
「……と、申されておりますが?」
丸い狸面は、呆れたというでもなく、困ったというでもなく、おかしくてならないといった具合の色をしておりました。
私は何も言いませんでした。言わぬまま、垂氷めの目の玉のあたりに視線を投げました。
すると垂氷はブルリと身震いしたかと思うと、急に居住まいを正して、
「わたしは砥石の殿様から、若様の武運長久の祈祷をする役目を仰せつかったのです。お側に居らねば祈祷が出来ません」
真面目な顔をして申したものです。私は少々可笑しく思ったのですが、笑うことは堪えました。
「使いに出ろと命じた時には、走るのが好きだと申して、喜々として私から離れて何処までも行くではないか」
そこまで言うと、一呼吸置いて、
「それとも、慶次郎殿が居らぬ厩橋には興味がないか?」
意地悪く言い足しました。
垂氷は激しく頭を振りました。
「それは違います。断じて違います」
「では、何故だ?」
「わたしが若様のお使いに出るのは、行って帰って来いというご命令だからです。『行け』と言うだけのご命令ならば、キッパリ御免にございます」
垂氷は吻を尖らせました。おかめがひょっとこの面を真似しているようでした。これを出浦盛清がしみじみと眺め見て、
「仲のお宜しいことは何よりなんですがねぇ」
などという事を申しますと、拗ねてそっぽを向いた垂氷の奥襟を矢場に掴んだのです。
「さて、参りますよ」
盛清は掴んだモノを引き摺って歩き出しました。その様は、田舎の禅寺に幾年幾十年も掛けっぱなしにされてたっぷりと抹香に燻された軸から抜け出てきた釈契此の様に見えました。
ただ、狸面の布袋尊が引き摺っているのは頭陀袋などではなく、生きた人間です。それも垂氷です。温和しく引き摺られてゆくはずがありましょうや。
暴れました。
裳裾が乱れはだけるのも意に介せず、手足と言わず体中をバタバタと振り揺すり、城内隅々まで聞こえるほどの大声でぎゃぁぎゃぁと喚いたものです。駄々《だだ》を捏ねる童のそのものでした。
喚き声の主は廊下へ出、出口の側へ曲がり、柱やら壁やらの陰に隠れて、私からは姿が見えなくなりました。その後に及んでもまだ声も床を叩き蹴飛ばす音も聞こえます。
私は、次第に遠くへ去って小さくなって行くその音に、声を掛けたのです。
「頼んだぞ」
思わぬ大声でありした。自分でも驚くほどの声量でした。
途端、音がぴたりと止みました。
静寂が続き、息が詰まるかと思ったころ、
「承知いたしました」
泣き腫らした童めが、掠れた声を張り上げて答えてくれたのです。
山中で余りに多くの兵を引き連れてては、かえって身動きが取れなくなりかねません。私は雀の涙ほどの兵を選びました。
その中に、沼田から偶然岩櫃に来ていた矢沢頼綱配下の禰津幸直を、無理矢理組み入れました。
これの母親が私の乳母でありましたから、幼い頃は実の弟達よりもなお親しくしておりました。
気心の知れた者を側に置きたい心持ちだったということは、この時の私は相当に気弱になっていたのでありましょう。
ああ、幸直は本当に偶然岩櫃にいたのか、と?
そうに違いありません。私が幸直に、
「久しぶりに顔を見たい」
というような文を送ったのは、父が私に碓氷峠へ行くように命じるよりもずっと前のことですから。
つまりは、私はずっと心細かったということです。
さても、私が選んだ者達は、精鋭ともいえる者達でありました。さりとて、幾ら歴戦の強者そろいであっても、その時私が選び出した人数で、戦が出来るはずもありません。
精鋭達は口にこそ出さぬものの、その顔に浮かぶ不安を隠しませんでした。
しかも私はその少数の兵達に、武装ではなく、山がつのさながらの身軽な装いをさせたのです。率いる私も、無論も同様の出で立ちです。
身支度した私達の姿は、遠目には猟師か農夫のように見えたことでしょう。
これには動きやすさと偽装の両方の意味がありました。
鎧や刀の類も、できるだけそうと知れぬように偽装させています。立派な鎧櫃などではなく、使い古しの行李に入れるか藁茣蓙の様な物に包み、槍をもっこ棒として、あるいは天秤棒として運ぶのです。
それではいざと言うときにすぐに戦えぬ、と、お思いでしょう。兵達もそのように申しました。
「いざ、は、ない」
私は断言しました。
「もし、山中で誰ぞにであったとして、戦にはならぬ」
この頃の戦線は信濃国境より離れたところにありました。
戦をするつもりの侍が戦場でも戦場への道筋でもない山の中に、武装したまま入ることは有り得ません。
戦をするつもりのない侍ならば……つまり戦場から逃げ出したただ一個の人間であるならば、鉢合わせしたところで畏れる必要はありません。
武装して「見せる」必要があるのは、峠に着いてから出会う人々です。
「それでは変装する必要も無いのではありますまいか?」
ぬけぬけと申したのは幸直です。他の者達は口を開きませんでしたが、その顔色を見れば、我が精鋭達が私という将を信用していないことが知れるというものです。
仕方のないことです。
私は小倅です。しかも小心者です。
そのことを隠すつもりはありませんでした。
「私は腰抜けだ」
むしろ胸張って申しました。
皆、憮然たる面持ちで私を見ました。
「さりとてそのことで誹りを受けるのは口惜しい。誰からも『己が身の保身のために、大仰に兵を動かした』と思われたくないのだ。滝川様の側にも、北条殿の側にも。それから、行けと命じた父上にも」
「一番最後が、一番肝心にございますね」
幸直が笑んでくれた御蔭で、私も、他の兵達も、幾分か心が落ち着いたものでした。
準備が総て整い、いざ出立というその前に、さらにそれらしく見えるよう顔に泥や煤を塗ることを提案した者がおりましたが、私はその案を退けました。
「そのようなことをせずとも、そのうちに汗みどろになって汚れ、疲れ果てて人相が変わる」
私はつい三月ほど前の事を思い起こしておりました。




