鬼武蔵 四
まるで見てきたように、と、お笑いになりますか?
ご不審はごもっともです。私自身がこの出来事を見たわけではありません。
伝聞です。見てきた者達から聞いた話です。
すなわち、我が弟・源二郎と従兄弟伯父・三十郎頼康、そして、
「出浦対馬守盛清にござる」
盛清は埴科郡坂城は出浦の庄の出で、武田家が北信濃まで勢力を伸ばしていた頃は、その家臣でありました。
その武田が滅び、織田様が北信濃を押さえて後は、森長可が旗下に組み込まれたのです。
盛清は大層小柄で、その上童顔でした。
丸顔の中にある目は垂れて、鼻は団子のようであり、その上、唇の端が上がってい、なんとも柔和そうに見えます。
少なくとも、鬼武蔵が証人達を戻す前に首と胴とに切り分たその様を、眉一つ動かさずに見ておられるような、非情で剛胆な男には見えません。
「あそこで鬼殿に逆らったなら、それがしの一族が同じ目に遭ったでしょうから」
垂れ目を細めつつ、額の当たりを撫でました。
元々笑っているような顔立ちの男です。笑っているようだからといって、本心笑っているとは限りません。
「ご苦労でありました」
そう言う他に、掛ける言葉が思い付きませんでした。
「まあ、あの大騒ぎに乗じて、源二郎様を木曽福島から易々と落とすことができたわけでありますれば……。案外、伊予守殿は未だに真田の証人がいなくなっていることに気付いておられないかも知れませんな」
「まさか、木曾殿はそこまで魯鈍な方ではありますまい」
「どうでございましょうかなぁ。あの乱痴気騒ぎの後にございますれば、暫くは消えた証人や逐電した家臣の行方を追うどころではありますまいて。ま、そろそろ岩松丸殿が無事に戻られる頃合いにござれば、正気に戻られたやもしれませんが」
盛清はしれっと重要なことを申しました。岩松丸殿……後に元服なさって、仙三郎義利と名乗られるようになったのですが……その安否のことです。
「出浦殿が手を打たれましたか?」
一応訊いてみました。
「それがし自身が何かしたのか、とお訊ねならば、『否』とお答えするより他ございませぬな。鬼殿とは木曾に辿り着くよりずっと以前、猿ヶ馬場峠でお別れ申しました故。鬼殿が信濃衆の証人が非道いことになった後、でございますが。ともかく、それがしが何かしらしたことがあるとするならば……お別れの直前、鬼殿に一言申し上げた、ぐらいでございますよ。
『証人の使い方には二種類ございます。相手の力を奪いたいなら、命を取っておしまいなさいませ。相手に手出しをさせたくないのであれば、生かしておくのがよろしいかと存知まする』
……とまあ、その程度のことでございますが。御蔭で大層褒められまして。形見にと脇差を頂戴いたしました」
と、ニッカリと笑った盛清は、その笑顔のまま、
「しかしまあ、あの鬼殿も、京の方の何とかいうお寺の『火事』で、ご舎弟三人を失ったばかりなワケでございますれば、幾分かは身内を失った者の痛みのようなものは知っておられるのではないかと存じますれば」
などと付け加えたものです。
何分顔つきが顔つきだけに、腹の底が謀りかねました。ある意味で、至極恐ろしい男といえるやも知れません。
第一、奇妙ではありませんか。
「信府に入る前に別れたわりには、顛末にお詳しい」
私は思うたことを思うたままに言ってみました。
さすれば盛清めは、やはりしれっと申したのです。
「それがし、忍者にございますれば」
さても、当家にはおかしな……いや人並み外れて不思議な者達が集まってくるものです。我ながら感心します。
判っております。お手前は、己自身がおかしな者である故だ、と仰りたいのでありましょう?
論駁出来ぬのが、何とも口惜しいことです。
しかしながら、人並み外れた所がどこかになければ、当世生きてゆくことは難しい……そうは思われませぬか?
森武蔵守殿にしてもそうです。人並み外れた非道の力があったからこそ、あの方はあの時生き残ることができたのです。
それが先の長湫の戦でお命を落とされたというのは、あの方を上回る人並み外れた者に真正面からぶつかったがためです。
上回る「人並み外れた事柄」は何も武力とは限りません。
知恵、胆力、忍耐、あるいは時節、機運。
人知を越えたところにあるからこそ、「人並み外れた」力、なのではありますまいか。
さておき。
あの時私は、出浦盛清から木曽の方で起きた大変な騒ぎ――というか森武蔵という奇禍――の話を聞きつつ、別の人並み外れて不思議な御仁を思い起こしておりました。
前田慶次郎利卓という仁です。
件の厩の宴から日を数えますと半月ばかりの時が流れておりました。
たった半月です。その半月の間に色々なことが起き過ぎました。
「慶次郎殿に詫び状の一つも書いておらなんだ」
何の接ぎ穂もなく突然に零しましたが、盛清は平然として答えました。
「慶次郎様と申されるは、滝川様ご家中の前田宗兵衛様のことでありますな」
「ご存知置きか?」
「お噂はかねがね。武勇の点では、件の鬼殿に引けを取らないと」
「雷名轟く、か。さて今頃どうして居られるものか?」
私はあくまでも何気なく呟いたつもりでした。すると盛清はにこやかに見える顔で、恐ろしげなことを申したのです。
「さて、早ければもう北條勢と対峙しておられる頃合いやもしれませぬな。何分あちら様も、『京の変事』を小耳に挟んで以来、五、六万ばかりのお供を引き連れて、上野国へ『遊山』に行くご予定を立てておいでだということですから」
「五、六万か」
圧倒的絶望的な兵数でありました。しかしそれを聞いた私の口からは、
「北条殿は大した地力のあることですなぁ」
などという、どこか他人事であるかのような言葉が漏れたものでした。
他人事であったのは、間近に迫っているであろうその戦に、「参じよ」、という命令が下っていないためでありました。
この時なお、我ら信濃衆にはあくまでも「織田上総介様御生害」を秘匿なさっている滝川様でなのです。味方である筈の北條方が攻め入ってくる理由を明かさないのであれば、我らの兵力を動員するのも憚れる、ということだったのでしょうか。
理由はどうであれ、信濃衆は動きません。信濃領内に居られる滝川勢も動けません。例えば、小諸に居られる道家彦八郎正栄様、この方は滝川一益様が甥御様であられますが、この方に何かしら動きがあったという報告が、草やノノウから上がってくることはありませんでした。
沼田にいる矢沢の大叔父からも正規非正規問わず繋ぎがないところをからすると、信濃に近い場所にいる滝川勢も動かない様子です。
いえ、むしろ、動くに動けないとというのが正しいところやも知れません。
と、申しますのも、実のところ信濃側にはまだまだ織田勢に反発する者が、僅かながらではありますが、いないでもなかったのです。動き出しそうな者達を睨み付けておく必要がありました。
あるいは動き出したところを背後を突かれるようなことがあるやもしれません。
沼田の滝川儀太夫殿は軽々に動くことが出来ないのです。
ともかく、我らが出ぬのであれば、すぐに動かせるのは近場においでのお手勢と、実際に北條に攻め込まれた上野にいる者、即ち、有無もなく直ぐさま戦わざるを得ない者達のみとなります。
その兵数は、
「多く見積もって、上州武州勢が間違いなく従って二万弱。少なければ、お手勢だけの五千余、といったところでしょうか」
私は息を吐きました。やはり他人事のような口ぶりになっておりました。それに答える盛清の口ぶりもまた、他人事のようでありました。
「分が悪うございますな。数も数ですが、それよりも、勢いのこともありますから」
絶対的な君主が逆賊に弑られたなどという大変事が起きたのです。忠臣達の動揺はいかほどでありましょう。そして敵対する者共はどれだけ士気を高めている事でしょう。
「お手勢の殆どを動かしておられるならば、今頃ご支配下の城々、ことさら上州の城々などはさぞ手薄になっておりましょう」
先の二つは無意識に他人事のように申したのですが、この度の言葉は意識して他人事のように言いました。
「厩橋には確か左近将監様がご猶子の彦次郎忠征様とやらがおいでるはずですが、証人を逃がさぬようにするのが手一杯といった所ではありますまいか。万一夜陰に乗じて討ち掛けられたならば、あるいは相手が無勢であっても一溜まりもなく……などということもないとはいえぬかと存じますよ。やれ、くわばらくわばら」
盛清も相変わらず他人事のように重要な機密に当たるであろう事を答えてみせました。
いや、他人事どころか、まるで人をけしかけるかのような口ぶりであるようにさえ聞こえたものです。
「厩橋、ですか……」
「はい、厩橋にございます」
出浦盛清との話しは、そこで終いになりました。
私がその場から……つまり、岩櫃城から離れなければならなかった為です。




