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鬼武蔵 二

 兵の実際の配置は翌日に行われることに決まりました。

 当然のことです。

 日本武尊やまとたけるのみこと熊襲くまそ討伐の例を上げるまでもなく、奇襲きしゅうを掛ける相手には充分油断をしてもらわねばなりません。当の「()」が入ってきた直後に城内の異様さに気付いてしまっては元も子もあったものではないでしょう。

 ことに、彼の()は武勇の御方です。たくらみがばれてしまったなら、包囲網を易々と突き破って逃げられるか、あるいは城ごと落とされるということも無いとは言い切れません。

 運良く逃げられただけであっても、その後に本領で兵力を取り戻し、あるいは増強した「()」が、怒りのままに改めて攻め寄せてくることが考えられます。

 失敗は許されません。

 策は綿密に練られ、準備は万端に整えられました。

 明日「()」が到着したなら、歓迎の素振りで迎え入れ、饗応きょうおうしている間に精鋭の兵を配備し、油断に乗じて「退治」する。

 明日、総てを為す――。

 その夜は、流石さすがの木曾伊予守(いよのかみ)義昌殿も寝付けなかったと見えます。

 大事を明日に控えた夜に、大鼾おおいびきをかいて眠ることが出来る者はそうはおりますまい。私などは戦になるかならぬか判らぬ頃から、寝付きが悪くなります。

 深夜、義昌殿は灯明の消された真っ暗闇の中、独り広間に座しておられたといいます。

 私にはこの時の義昌殿のお心の内を推し量ることができません。されど、家名を守るためであれば、卑怯者ひきょうものそしりりを受けかねない策を講じ、実行せねばならない家長の、高揚したような口惜しいような、落ち着かない心持ちは、少しばかりは判るつもりです。

 只独り何事かを沈思黙考していたのであろう義昌殿は、その時不気味な音を聞かれた筈です。

 何かを叩く音です。いや、叩くという言い様は生温なまぬるい。何かが激しくぶつかり合うような、叩き壊されるような轟音ごうおんです。

 部屋が、いえ城そのものが鳴動めいどうしたことでしょう。

「何事だ!」

 大声を上げるのと殆ど同時に、小者こものが一人明かりも持たずに広間へ駆け込み、

「一大事にございます! 鬼……森様が只今ご到着でっ」

 小者の報告は、義昌殿には理解しかねるものでした。しかしながら、

「それはどういう意味だ?」

 というような、誰であっても当たり前に思い浮かべるであろう言葉を、義昌殿が口に出されるよりも先に、答えの方がご自分からやってこられたのです。

 悲鳴、怒声、床を踏みならす音、そして大きな笑い声をまとって、彼の方は現れました。

「伊予殿、久しいな!」

 暗闇を割って、美貌の若武者・たいらの敦盛あつもりかたどったという能面の「十六じゅうろくの面」が浮き出た……ように見えたやも知れません。

 手燭てしょくのか細い明かりがあごの下から白い顔を照らしました。炎が揺れ、影が揺れ、その方ご自身も肩を揺して、義昌殿に近寄られました。

「お……に……武蔵、どの……?」

 まごうことなく、森武蔵守長可その人です。

 義昌殿が驚き、ひるみ、そして震え上がるのは当然のことでありましょう。

「なに、この時節じせつ暑さが厳しく、兵も疲れ果てるであろうと考え、こちらへ着くのは明日あたりと踏んで、そのつもりでお伝えしたのだがね。ところが今日の日和と来たら、春先の如き涼しさであった。御蔭で道行きがはかどること、捗ること!」

 眉が太く髭の濃いところを除けば、まるで若党かおなご(・・・)のような優しげな顔に笑みを満たした森武蔵守長可殿は、武装そのもののような旅装を解かぬ侭に、義昌殿の真正面にドカリと腰を下ろされました。

「ところが着いてみれば何と門が閉まっている。致し方なく叩いた(・・・)という次第だ。しかし伊予殿、城主たる貴殿を前にいうのは申し訳ないが、この城はあまり堅固ではないな。木槌きづち二つで門扉が壊れるようではのう!」

 膝を叩き、さも楽しげに声を上げて笑われたそうです。

 この時義昌殿は、鬼武蔵殿の哄笑こうしょうと、得体の知れぬ「音」が混じった物を聞いたに違いありません。

 庭と知れず、屋内と知れず、不寝番ふしんばんの者共も、眠っていた者共も、恐慌きょうこうを起こして走り回っていました。ありとあらゆる場所で、味方、あるいは「客」と鉢合わせが起きていたのです。叫び声、わめき声、泣き声、物がぶつかる音、壊れる音、壊される音が、城内到る処で立ち、到る処から響いていたはずです。

 あるいはしかし、耳にしても聞こえてこなかったのやもしれません。

 義昌殿とすれば、周到に計画し、万全の容易をして、相手の不意を突くつもりが、逆に先方から奇襲を掛けられた格好なのです。

 大いなる決心の上の策略が瓦解してゆく、その恐ろしさが、義昌殿の脳漿のうしょうの働きを止めてしまったとしても、不思議ではありません。

何が何やら(・・・・・)判らない(・・・・)

 義昌殿は、ただ眼を明けて、息をしているだけの人形のようになっておいででした。

 慌てふためいた幾人もの家臣が主君へ事態を報告をし、指示を仰ごうと、その元へ駆け付けました。

 しかし彼の者達の主君は、返答も下知もできぬ有様です。

 そんな主君の様子を見て不審に思った彼等は、主君が何も語らぬ理由を探し、辺りを見回したことでしょう。そしてこの時漸く、主君の眼前に広がる暗がりの中に「()」を――完爾かんじとして笑う森長可を見出すこととなるのです。

 ある者は息を呑み込み、あるいは悲鳴を上げ、あるいは怯み、あるいは腰を抜かして尻餅を突きました。

 武士が、です。それも元は勇猛果敢な、向かう所敵無しと称された武田武士(・・・・)であった者共(・・・・・・)が、です。

「なんだ、木曽福島には人が居らぬらしいな。なるほど、人のいない城では、門ももろいが道理というものか」

 森長可殿が呵々大笑かかたいしょうなさいました。

 反論できる者がいないと言うこともまた、嘆かわしいことでした。

 しかし、その場にただ一人、声を上げる者がおりました。

「なんということだ。《《もののふ》》とあろうものが、なさけないぞ」

 見事な大喝だいかつであったそうです。しかし幼く、舌足らずな声音であったことでしょう。

 腑抜ふぬけ達が振り返ると、そこには童子が立っておりました。

 年の頃は五、六歳ばかりの男の子でありました。

 幼いながらに眉の凛々《りり》しい、勘の強そうなお顔立ちで、小さな体の上に着崩れた寝間着を羽織り、その帯に立派なこしらえの小太刀を手挟たばさんで立っていたそうです。

 木曾義昌殿の顔が土色に変わりました。

 餌を求める鯉のように口をぱくぱくと動かされたといいます。

 ご本人は恐らく、

岩松丸いわまつまる、来るでない」

 というようなことを叫んだおつもりでしょう。しかし回りの者共には聞こえなかったやも知れません。

 森長可殿が、

「なんだ、この城にも人がいるではないか。なんとまあ天晴あっぱれな武者であろうか! さあ、近う寄られよ!」

 と、仰る大層たいそう大きな声に、かき消されてしまったに違いないからです。

 その小童こわらわは耳に届いた方の声に招かれるまま、すぅっと、長可殿に歩み寄られました。

 童子は長可殿の前に大将のように胡座あぐらを組み、座りました。胸を張って、

「きそいよのかみがちゃくなん(・・・・・)、いわまつまるにござる」

 堂々と名乗られました。ご立派な振る舞いにさしもの鬼武蔵も瞠目したと見えます。居住まいを正して、慇懃いんぎんに名乗りを返されたのです。

「承った。それがしは森武蔵守長可にござる」

 その名を聞いて、流石に岩松丸殿も驚いたことでありましょうが、森殿が続けて、

「この騒がしき中、なんと堂々たるお振る舞い。この武蔵、感服仕った。先ほど木曽に人無しなど申したが、なんと我が目の暗いことよ! ここにこうして岩松丸殿が居られるではないか。岩松丸殿こそ木曾家随一の武者であられる。見事なり、あっぱれなり」

 などと持ち上げたものですから、悪い気はしなかったのでありましょう。

「ごこうめいなおにむさし(・・・・・)どのにおほめいただき、いわまつまるはかほうものにございまする」

 などと回らぬ舌で……少々正直すぎるきらいはありましたが……返答なさいました。

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