宗兵衛殿 二
お茶席は大層華やかな物でありました。
武田の家中でも茶をする者がなかったわけではありません。しかし茶道の中心においでの織田様の旗下の方々が催す茶会には比べようがありませんでした。
茶器は唐渡りの物が多く、事に茶碗は天目の見事な逸品でした。その茶碗で見事な御作法でお茶をお点てになったのが、目の覚めるような紅の利いた辻が花染の小袖を、厭味なく大柄な体に纏った、前田宗兵衛殿です。
さて、主賓たる一益様といえば、小心な私が恐々として参加したその茶席で、我が父の顔を見るなり、なんと、
「良く聞けよ、鉄兵衛殿。上様は、大層に狡い御方ぞ」
と言い放たれたのです。満座の者達の……いえ、一益様ご本人と、宗兵衛殿と、それから我が父を除いた方々の顔が強張りました。
一益様が仰ったのは、大体次のようなことでした。
かつて織田信長公は一益様に、
「良き武功あれば、かねがねそなたが欲していた茶入の『珠光小茄子』を遣ろう」
と仰せになったそうです。この茶入は信長公の蒐集品の中でも随一といわれる逸品であったので、一益様は大層お励みになりましたが、なかなかにこれを賜ることができませんでした。
そしてこの度、信長公から、武田家を滅ぼし、関東を平らげたその褒美を遣ろうとの仰せがあり、一益様は、
「此度こそは、漸く『珠光小茄子』が戴けるに違いない」
と、心浮かれ、踊るようにして御前に出れば、信長公は、
「上野一国と信濃二郡、関東管領の役を与える」
と仰せになりました。
「長の宿敵を破ったと言うのに、儂が本当に欲している物をくれぬのだぞ。儂はそのために、常に先陣を切り、また殿軍を守ってきたというのに……。のう鉄兵衛、その方も狡いと思うであろう?」
一益様は大まじめな顔で仰せになりました。
上野一国と信濃二郡はともかくとして、「関東管領」はおそらく名前だけで実を伴わないものでしょう。私の記憶に間違いがなければ、彼のお役を正当に拝領なさっていたのは、代々上杉家でありました。そして、先代謙信公が没されてからは、足利将軍家はその役務を誰にも下知してはいないのです。
とはいえ、信長公が将軍家を「保護」なさっておられるからには、将軍家からのご命令を信長公が代理に下されることもあるいは考えられることやもしれませぬ。
それでも、件の役職に関しては、上杉謙信公の頃にはもう有名無実な名誉職にに過ぎなかったはずです。裏を返せば、これ以上ない名誉の称号であると言うことです。
ですから、関東管領は《《ともかく》》としましょう。
上野一国と信濃二郡は、武田が失ったものの殆どです。
そして、大きな声では申せませんが、出来れば当家が手に入れたいと願ったものです。願ってももままならない大きな代物です。
我らが羨望し垂涎した「それ」が与えられた、そのことが口惜しいと言われては、私などは一体どのような顔をすればよいというのでしょう。
一益様は、
「狡い、狡い」
と、拗ねた子供のように、繰り返し繰り返し仰られました。耳順に近いご高齢の方が、です。
このとき我が父は、両の手に抱いていた天目の黒い茶碗を一益様の前に戻しつつ、
「上様におかれましては、彦右衛門殿には一層励まれよ、という事でありましょう」
にこりともせずに申しました。一益様が、
「この六十ジジイがまだ励まねばならぬと言うか? 鉄兵衛は冷たいな」
唇を尖らせたその横で宗兵衛殿が至極真面目な顔をして、
「そりゃぁ、伯父御が鉄兵衛殿と御命名の御方に御座いますれば、ひやりと冷たいのも道理でありましょう」
などと仰られたのです。
口ぶりは何とも軽妙なものでしたが、顔つきは大変に忠実やかでした。
茶席にあった一益様のご家中の方々は、これを軽口と取られたようです。
下を向き、あるいは奥歯を咬み、あるいは扇を広げて面を隠すなど、それぞれのなしようで、笑いを堪えておられました。
それでも宗兵衛殿は、律儀者そのもののような顔をしっかりと上げておいででした。
御蔭で私には、あれが軽口であったのかそれとも本気であったのか、さっぱりわからなくなってしまったのです。
その時宗兵衛殿が、涼しげな眼をだけをそっと動かして、なんとそれを私の方にお向けになったのです。
私は始め、宗兵衛殿は、私が茶席に、そして滝川様の「家臣」として相応しくない不謹慎な態度を取っていないかを確かめておられるのかと考えました。あるいは、そのような態度を取るなと諌めてくださっているのだとも思いました。
私は身構えて、何事も起きていない普通の茶席に畏まって座っている若造がするような、生真面目な顔をして、宗兵衛殿の眼を見つめ返しました。この場で笑って良いのか悪いのか判断しかねているという不安を、この方に悟られてはならないような気がしたからです。
すると宗兵衛殿は、口角の片側だけをほんの僅かに持ち上げられたかと思うと、片眼をパチリと瞑られたのです。
まるで私に「笑っても良い、むしろ笑え」と言っておられるようでした。少なくとも私にはそう思われました。
しかし笑えと言われたからとて、すぐに笑顔を作れるものではありません。作れないとなれば焦りが生じます。私は内心の焦りを人々に、特に宗兵衛殿に知られないようにと考え、視線を反らすために父の方へ顔を向けました。
父は笑っていませんでした。真面目くさった顔を一益様に向けて、
「そのために、我らが与力として付けられたので御座いましょう」
などと申し上げているのです。一益様は尖らせた口で
「それはつまり、御主も上様の家臣として今までよりも一層に励むという意味だな?」
と仰せになりました。
このお言葉は、先の宗兵衛殿の軽口とはまるで逆の様相でありました。
お顔や仕草は子供じみたものでしたのに、声は鋭く重いものだったのです。
ご一同の肩の揺れがぴたりと止まりました。
下を向き、あるいは奥歯を咬み、あるいは扇を広げて面を隠すなど、それぞれのなしようのままで、一斉に父の顔に鋭い眼差しを突き立てました。
私は息を呑みました。父の返答次第で、当家がこの世から消え失せかねないのだということを察したからです。
源二郎も同じことに気付いた様子でした。その顔を見ずとも、私にはそれと判りました。膝の上に置いていた汗ばんだ拳から、きつく握りしめた「音」が、はっきりと聞こえましたから。
誰も動かず、誰も物を言いません。
茶室は静まりかえりました。私に聞こえたのは、シュンシュンと湯の沸く音、私自身の心の臓の音、弟の抑え込んだ息づかいばかりでした。
実際には、それほど時が過ぎたわけではありませんでしたが、あの場では長い時のように感じられたのです。
あるいは日も月も止まってしまったのではないかとさえ思われました。
この静寂を良い意味で破るには、父が何か言う必要がありました。
一益様への返答です。
一番簡単なのは、一言「はい」ということでしょう。織田家のため、信長公のために働くという決意を、ご家中に示すことです。皆がそれを待っていました。
ところが、父は能面のような顔を一益様に向けたまま、何も言いません。
答えることを拒んでいるかのようでした。拒むことで、信長公を、ご家中の人々を、その力量を試そうとしている……私にはそう思えました。
田舎者の小豪族が仕掛けるには過ぎた「試験」です。こんな「物の試し」をしては、命も家名も幾つあっても足りません。このような真似はとても私には出来ないことです。真似しようとも思いません。
私は小心者です。こんな四面楚歌の畳の上などで死にたくはありません。
いえ、例えその場が戦場であって、目の前にいた方々が槍を構えた敵であったとしても、死にたくありません。
侍の子らしくないと思われるでしょう。それは仕方のないことです。しかし、私はいついかなる時でも、何とでもして生き延びたいと願っていますし、生き延びようと努めています。
ですから、この時も、生きて帰るためにはどうしたらよいのか、無い知恵を絞って考えました。
父は、あえて何もしないことを選んだのです。私などには考えの及ばないところですが、父はこれが一番の妙案と思い……いいえ、この場合は企みと言い表した方が良いかも知れませんし、悪巧みと言っても良いかも知れません……なににせよ、故あって無言を通しているのでしょう。
思い付いた当人は妙案と信じているから良いのでありましょうが、私は父ほど剛胆ではありませんから、無言のまま針のむしろの上に座り続けることなど、とても出来ませんでした。
私が生き延びるためには、私自身が何かしら行動する必要がある――。
私が生き延びられれば、ここにいる父も源二郎も、それから仮住まいの姉妹や幼い弟達、一門、一族、郎党を生き延びさせることもできるはずです。私はそう信じました。
ですからこの場に充ち満ちている張り詰めた、刺々しい、苦しい気を取り除く方法を、それこそ必死で考えました。
脳漿の中で巻く考えの渦の中に、私自身が呑み込まれ、おぼれかけていたその時でありました。
湯気の音の中から、キチリという音がしました。
金具が動く音に間違いがありません。
咄嗟に『鉄砲』を思い浮かべました。
滝川一益様は鉄砲の名手です。ご自身ばかりでなく、ご一族やご家中にも名人が多いことでしょう。
茶室にいるお歴々が銃を構えて居られないからと言って安心できるはずがないでしょう。襖一枚、障子一枚の向こうに、名人がいるやもしれません。
しかし私はすぐに自分の考えを取り消しました。火薬の匂いには人一倍敏感な私の臆病な鼻が、火縄の気配を感じ取らなかったからです。
キチリ。
再びあの音がします。
宗兵衛殿の腰が僅かに浮くのが見えました。懐に手を差し入れておられます。頬に薄い笑みが浮かんでいました。
宗兵衛殿が何故腰を上げたのか、懐に何をお持ちなのか、その時はまるで知れませんでした。
私は覚悟を決めました。銃以外の別の武器に対する不安はまだありましたが、迷っている暇はないと確信しました。
ただ、万一宗兵衛殿を相手に一対一で戦ったなら、間違いなく勝てないという、妙な自信があったものですから、少なくとも宗兵衛殿よりは早く動かねばならないと考えました。
私も懐に手を差し入れました。
途端、場の気配が、一層に張り詰めました。
数名の方の体が僅かに動いたように思われましたが、それに構っている暇はありません。
私は懐に忍ばせていた物を掴みました。
同時に、宗兵衛殿の手が懐から引き出されました。
無骨なお手に握られていたのは、僅かに開かれた一面の扇でした。
私は安心しませんでした。
これが武器ではないと、誰が断言できましょうや。
鉄扇ならば武器に他なりません。あるいは檜扇であっても蝙蝠扇であっても、天下無双の武辺者が手にすれば、短い棍棒のごとき物と変わりありません。
私は私のするべきことを、早急になさねばならなくなりました。
宗兵衛殿が扇を懐に戻すか、どうあっても手放さずにはいられないようにするか、あるいは絶対に武器として用いることが出来ない状況に持って行かねばならないのです。
私は懐の中の細い棒きれを素早く引き出しました。
幾人かの腰が浮きました。眼差しが幾筋も私の手元に突き刺さりました。
方々の眼には、一尺強の竹の黒い棒切れが写ったことでしょう。
私が宗兵衛殿の扇を武器と疑ったように、私が持っている物を武器と思った方がいてもおかしくありません。
私はその用心深い方々が、私を抑え付け、締め上げ、斬殺するより前に、素早くそれを、口元に宛がいました。
裏返された女竹の横笛が、甲高い叫び声を上げました。
その時のご一同の顔を、私は忘れることが出来ません。
目を見開いて驚愕する方がおられました。覚えず両の耳を手で覆い塞いだ方もおられました。皆様一様に驚いておいででした。あるいは呆気にとられ、あるいは感心しておいでるようにも思われました。
私は満足していました。
会心の「《《ヒシギ》》」だったからです。
私が吹き鳴らしたのは、京に住まう母方の祖父から戴いた、由緒ある能管でした。
それまでは何度息を吹き込んでも湿った情けない音しか出せませんでした。私は日ごろから、己の技量の無さを恨めしく思っておりました。
それがこの時、初めて抜けるような美しい高音の「《《ヒシギ》》」を出せたのです。
この音を、実際に音を鳴らさずに伝えるには、一体どのようにしたのならよいでしょう。
ヒヤウともヒヨウともキイともヒイとも言い表せません。文字にも声にも置き換えられようのない音です。
これはこの世とあの世を繋ぎ、この世のものならぬものを呼び出す音色だといいます。
確かに能舞台の上でのことです。為手方が演じる神仏や鬼神、神獣や亡霊が現れるときに「《《ヒシギ》》」は鳴らされます。
しかし私には、現れた演者が人でない事を観る人々に教える合図でも、人手ある演者を舞台上に呼ぶための合図でもない、と、私は考えています。
耳障りな高音でありながら、心が穏やかになる不思議な音です。本当に人ならぬモノが降りてくる。……私にはそう感じられてなりません。
私が、己の腹を源にして出されたとは到底思えない妙音に我ながら心を奪われたその時、テン、と膝を叩く音が横から聞こえました。
音の出た方へ目玉を動かしますと、青白い顔をした源二郎が、掌で腿を叩いているのが見えました。
小さな音は、確かに拍子になっていました。
私がこれから奏でようとしていた調べに必要な鼓の音と、そっくり同じ拍子です。紛れもなく、が求めていた音です。
私と弟とが奏で始めたのは、能楽の「石橋」でした。
本当ならば、笛と大鼓小鼓、それに太鼓の四つの楽器が必要な冒頭の「乱序」という曲ですが、私たちは能管と鼓代わりの膝頭二つで、どうにかそれらしく奏じました。
腰を上げかけた人々の半分は、腰を上げたまま私たちの方をじっとご覧になっていました。残りの半分の方は、浮いていた腰をすとんと落とされました。
前田宗兵衛殿は前者でした。立ったまま、扇を懐に戻されました。
我々の拙い演奏を「聞いて」下さるお気持ちになったのは、間違いありません。
私の心配はひとまず消えましたが、同時に別の不安が頭をもたげました。
私たち兄弟の音の足らない囃子を、宗兵衛殿が「聞く」以上に受け入れて下さるかどうか、です。
それが杞憂であったことはすぐに知れました。
「考えていたのとは違うが……まあ、良かろうよ」
宗兵衛殿はニッと笑われると、両腕を各々小袖の袖に引き入れ、袖口を内側から掴んで、そのまま横に引き開きました。
上背を直立させた宗兵衛殿の長身は、すぅっと前へ滑り出しました。
腰から上が微動だにしないその立ち振る舞いと来たら、さながら仏師が精魂込めた仁王の像を、床の上に滑らせて運んでいるかのようでした。
私と弟は各々の楽器を奏でるのを止めました。
途端に、音はなくなりました。
息の詰まるような静寂の中、ただ衣擦れの音だけが、宗兵衛殿を座の中心まで運ぶのです。
部屋の殆ど中央で宗兵衛殿がぴたりと立ち止まるのを合図に、私と弟は再び精魂を込めて己の「楽器」を奏で始めました。
激しい音が鳴り響くと、宗兵衛殿は……いえ、宗兵衛殿の姿をした一頭の唐獅子は、床を大きく踏み鳴らし、旋回し、跳ね上がり、声無くして吠え、縦横に狂い舞ました。
豪快で大振りで、そしてしなやかな動きでしたが、私には獅子の舞に見とれている余裕がありませんでした。
私の心は演奏に九分入り込んでいます。そして残りの内五厘を我が父に、もう五厘を滝川一益様に注いでいました。
一益様の拗ねた小僧のような表情の顔は、音楽が鳴り、舞が舞われる以前から変わらずに、我らの父に向けられたままでした。
しかし目だけは違いました。ぎょろりと剥かれた目玉が、宗兵衛殿の激しく美しい動きを追いかけいたのです。
私は目を父の方へ向けました。
真田昌幸という男もまた、音曲演舞の始まる以前のままに、真面目くさった顔を一益様に向けていました。
そして一益様と同じように、目玉だけをお相手の顔から反らし、声なく猛り吠える獅子の動きを追っておりました。
『二人の顔を宗兵衛殿に向けさせねばならない』
彼の二人と、場にいる人々総てが私たちの演奏に心を奪われ、耳を向けてくださったなら、ご一同の目はこの楽に乗って舞われている宗兵衛殿に向けられる筈です。
そうなれば、我らの「勝ち」です。
勝てばこの場の不穏な空気は消え、負ければ我らの命が消える。
私は完全な勝利のための努力を始めました。
演奏に全力を尽くすことです。
いささかも邪念があっては、人の心を動かす音色は出せません。
殊更、見事に舞い踊っておられる宗兵衛殿に私の心の揺れを感じ取られてはなりませんでした。
そのようなことがあったなら、宗兵衛殿は途端に舞いをお止めになるに違いないと、私は確信しておりました。
私は瞼を閉じました。薄闇の中に身を置いて、ひたすらに良い音を出すことだけを心がけました。
曲は終盤に近付きました。
獅子の「狂ヒ」と呼ばれる激しい舞は、やがて終わりを迎えます。
私の能管、弟の鼓、宗兵衛殿の舞、そこに別の音が加わりました。
「獅子団乱旋の舞楽の砌……」
(「獅子」や「団乱旋」などの舞の音楽が鳴り響くとき)
この「石橋」という舞の最後を飾る謡です。
謡は、二つの声が重なり合っていました。
一つは大層《《下手クソ》》で、一つは大層上手な声です。
下手な方は私のよく知った声でした。
父です。
真田昌幸は能楽が少々……というか、大変に苦手です。
若き頃、武田信玄公の元で証人暮らしをしていた父は、幸運にも様々な一流の師匠の元で武士が嗜むべきものを学ぶことができました。
それはやはり証人暮らしをしていた私も同様ですが……。
書を読み、詩歌を詠み、棋道を楽しみ、歌舞音曲に親しむ。それが武士の常識です。武芸に励むだけでは、真っ当な武士とは言えません。
ですから父には謡の知識がありました《《詞を間違えることなく謡う》》ことが出来ます。
ただし、節回しの出来は別です。
父の外れ調子を聞いた私は、心の中で『一つ、勝ち』と叫んでおりました。無言を通していた父の口を開かせることが出来たのですから。
そうなると問題はもう一つの声の方です。
「獅子団乱旋の舞楽の砌、牡丹の花房、匂ひ満ち満ち、大筋力の、獅子頭、打てや囃せや」
(こうして「獅子」や「団乱旋」などの舞楽の演じられるこの時は、牡丹の華の匂いが満ち満ちている。力強い獅子頭よ、打ちならし、囃し立てよ)
幾分粗野なところはありましたが、決して野卑ではありません。艶のある声、しかし年齢を感じるお声でした。
私は片方の瞼だけを薄く開けました。
「牡丹芳々、牡丹芳々、黄金の蘂、あらはれて」
(牡丹の芳い香りが漂い、雄蕊雌蕊は黄金の様に見える)
先ほどまで老顔を拗ねた小僧の様にゆがめていた老将の面から、子供じみた色が消えていました。
「花に戯れ、枝に臥し転び、げにも上なき、獅子王の勢ひ、靡かぬ草木もなき時なれや」
(こうして花に戯れ、枝に臥し転ぶ、獅子王のこの上ない勢いに、靡かない草木などないであろう)
滝川彦右衛門一益様は、晴れやかで楽しげな、さながら好敵手を前にした猛将のそのものの、若々しい笑みを面に満たしておいででした。
下手クソな父の謡と、お上手な一益様の謡とが、何故かぴたりと調子を合わせておりました。二つの声は、神仏の降臨を悦ぶ神々しい声となって響いていました。
力強く、心地よい謡が、座に満ち満ち、中心で舞う逞しい獅子の全身を覆い尽くしました。
「千秋万歳と舞ひ納めて、千秋万歳と、舞ひ納め、獅子の座にこそ、直りけれ」
(千度の秋、万の年月、何時までも栄えよと、舞を納めて、獅子は神仏の座の前に居住まいを正すのだ)
謡が終わり、曲が終わり、舞が終わりました。
辺りは再び、シュンシュンと湯の沸く音ばかりが聞こえる、無音の世界となりました。
「石橋」の獅子の舞は、曲も所作も、総てがすこぶる激しい舞です。
舞い踊る仕手は元より、曲を奏で、謡を謡う者も、それがどんな名人であったとて、最後には息が上がるものです。
源二郎は口を大きく開け、小さな体を揺らし、喘ぐように息をしておりました。
その姿が少々情けないもののように思えましたので、私は息づかいの聞き苦しい音をご一同に聞かせまいと努めることにしました。
唇をきつく綴じました。そのために鼻で呼吸をする羽目になり、むしろ鼻息で激しい音をたててしまいました。
私は己の顔が真っ赤に染まってゆくのを感じておりました。紅潮の原因と申しませば、気恥ずかしさ七分の息苦しさ三分、と言ったところでありましょうか。
眼をそっと動かして、父と一益様の様子を窺いますと、両人は流石に我々のような小童とは違って、苦しむ姿をさらすようなことはありませんでした。それでも、肩は大きく上下に波打ち、額にはうっすらと汗が滲んでおりました。
そして座の中央、一番激しく動いていた前田宗兵衛殿はと言えば、確かに厚い胸板を大きく膨らませたり萎ませたりなさっておいででしたが、顔つきは涼しげで、汗一つかいておられません。
「全く、人の都合を考えもせずに……」
宗兵衛殿は私の情けない顔を見てニタリと笑われました。
「勝手な振る舞いを、お許しください」
私はようやくそれだけを口に出して、その場に倒れるようにして頭を下げました。
「お主の笛が儂に獅子を取り憑かせた。手足が勝手に動き出したぞ。御蔭で最初に何をしようと思って立ち上がったのか、すっかり忘れてしもうた。面白い戯れ歌を思い付いたまでは覚えておるが、さてそれが如何様な歌だったか、どんな振り付けをするつもりだったか、思い出せん。残念なことだ。後世に残る名曲であったかも知れぬのにな」
畳の上に額をすりつけた私の、後ろ頭の上に、からからとした笑い声が振ってきました。
初めは宗兵衛殿の声だけでしたが、そのうちに笑いの声の輪がその座にいた人々の間で広がり、やがて部屋中に満ち、柱や床を揺らし、建物の外にまで溢れるほどの大きな笑声へとなりました。
私は藺草の青い匂いを鼻先に感じながら、心の内で「勝った」と叫んでおりました。
座が和んだ、人の心の棘が取れた。余所者である当家に対する疑念の眼差しは無くなった。
私は私の家を守ったのだ。
そう思っておりました。その時の顔と言ったら、きっと増長したにやけ顔になっていたことでしょう。
残念ながら、その時の私は疲れ果て、起き上がる力を失っておりましたので、その醜く弛んだ顔を他人様に見せることが出来ませんでした。
その顔の真後ろ、つまり後ろ頭に、何かがこつこつと当たりました。
「ところでお主、儂が獅子を舞えなんだら、どうするつもりだった?」
宗兵衛殿の声でした。突っ伏していた私には宗兵衛殿の顔が見えません。そして何を持って私を叩いておられるのかも、さっぱり判りませんでした。
私の頭に当たっている物、つまり、私の首根のすぐ側にある硬い物は、一体何なのか。
先ほど懐にしまわれた扇か? いや、もっと別の物かも知れない。
武器?
私の背に冷たい物が走り、尻の穴がギュッと縮みました。
どんな武器であろうか。懐剣か? もしかして、噂に聞く短筒という物であろうか?
おかしな話です。刃物ならばまだしも、鉄砲の類であれば火縄が匂うはずです。大体、つい先ほど、自分の鼻がその匂いの感じ取らなかったことに安堵したではないですか。
所がその時の私は、そういった真っ当な考えを持てませんでした。
私はこの場で死ぬかも知れない。
心底恐怖しました。
途端、冷や汗が全身からどぅっと噴き出しました。手足の指先がジリジリと痺れ、鼻の穴の奥がぎりぎりと引き連てゆきました。喉と目玉がバリバリと乾いてゆくのを感じました。
ああ、死ぬな。
私はその場にうずくまったまま、情けなくも気を失ったのです。