うまやのはし 五
蒸し暑さを感じて目が覚めたのは、その翌日の、未の下刻を疾うに過ぎた頃でありました。※2
無論、目覚めたその時に時刻が判ったわけではありません。後から家人にそう知らされたのです。
そう。当家の家人からです。
目覚めた私の頭の下には、慣れた高さの枕があり、目の前の高みには見慣れた天井がありました。
岩櫃の自室であります。
合わない鉢金を無理矢理かぶせられている気分でした。喉の奥には鑢をあて損ねたかのような、気色の悪いざらざらとした感触があり、胸の辺りは焼け付くようでした。
私が上体を漸くのっそりと起こすと、
「まこと若様と来たら、肝心なところで無様でおいでで」
垂氷の嗤う声が聞こえました。
いいえ、確かに嗤っておりました。当人がどう思っていたのか知れませんが、私にはそう聞こえたのです。
怒鳴りつけてやりたくなりました。
実際そうしようとしたのです。
ところが、酷い宿酔の体はこれっぽちもいうことを聞きません。重たい瞼をどうにか細々と開いて、生意気な娘を睨むのが精一杯でした。
その精一杯の怒りを露わにしたはずの顔を見て、あの娘と来たら、
「まあ、酷いお顔」
うっすら笑うのです。こちらが苦しんでいるのを見て、
「ご酒が苦手でいらっしゃる?」
などという言葉の、その言い振りがまた、人を小馬鹿に……しているように聞こえたのです、私には。
「お前は一斗の酒を開けても真っ当にしておられるのか」
厭味とも愚痴とも取れぬ、言い訳じみた物を言ってみましたところ、
「さて。呑んだことがございませんので、判りかねます」
そう言って垂氷は、茶碗を寄越しました。
「ですが、二日酔いにはこれが良う効くというのは、存じておりますよ」
茶碗の中身は、何やら甘い臭いのする茶色のモノでした。
「何だ?」
「『玄の実』を煎じたものです」
「玄の実?」
「医者に言わせれば、キグシとかいう、私などには良く判らない名前の薬と言うことになりますが」
「キグ……? ああ、計無保乃梨か。妙な形をした実のなるあれだな。実は小さいが、喰うと中々に美味い」
「まだ今年の実はなっておりませんよ。そろそろ花の咲くころかと」
垂氷が突出し窓を開けますと、良い風がふわりと流れ込みました。
しかしこの時の私の体は、清涼な風ぐらいでは癒されぬほどに消耗しきっておりました。ことさら、焼けるが如き喉の渇きは酷いとしか言いようのないものでありました。
正直なところを言えば、水けのものであるならば、薬湯でも煮え湯でも何でも構わぬから、とにかく一息に飲み干したい心持ちであったのです。
しかしどうやら自制の心は残って負ったようです。薬湯を呷るように飲むのは大層品のない事のように思われ、少しずつ、舐めるようにして喉の奥へ流し込んだのです。
後から思えば、いかにも小心者といった風の、情けない有り様でした。その様を見つつ、垂氷は、
「若様は、物知りなのですねぇ」
などと言いながら、口元を袖で隠してニンマリとまた嗤うのです。
ええ、まあ、確かに口元は見えませんでしたが、目が、嗤っておりました。
「厭味か?」
「いえ、いえ。本心、感心しております。前田様も大層お褒めでしたよ」
途端、私の口から薬湯が噴出しました。
温泉場の源泉の口から湯が噴きこぼれるように、勢いよく、盛大に、です。
「それは慶次郎殿のことか?」
言い終わる前に、私の両の鼻の穴から薬湯の鼻水が噴出しました。
その薬臭い鼻水をすすったものですから、私は今度は咳き込み、息も出来ずに布団の上で悶え転げ回ったのです。
私のうろたえ振りに、こんどは垂氷のほうが驚いて大慌てとなりました。
何やら悲鳴じみた言葉を発しつつ、あたふたと慌てふためき、手拭らしき物を私の手元へ投げ寄越し、自分は直ぐさま私が部屋中にまき散らかした薬湯を拭いて回りました。
そうして、私の咳がどうやら治まったと見ると、
「若様を背負っておいでになった、背の高いお武家様は、前田宗兵衛利卓、とお名乗りでした」
喉の奥から、
「うあぁ」
呻くとも叫ぶとも付かない奇妙な声が湧いて出ました。
情けなく、惨たらしく、恥ずかしく、面目なく、申し訳なく、勿体なく、私は布団に突っ伏しました。
「もしかしてあの方が、お手紙の主の『慶』様で?」
後ろ頭の上から、垂氷の声が降って参りました。
私は突っ伏したまま頷きました。顔を上げることなど出来ましょうか。
「もしかして、もしかしますると、あの御方はとてもお偉い方だったりするのですか?」
幾分か不安の色が混じる声でした。
私は伏したまま、どうにか顔を横に向けて、チラと垂氷の顔を盗み見て、小さく頷いて見せました。
「滝川左近将監様の甥御に当たる。ついでに申せば、能登七尾城主の前田又左衛門様の甥御でもある」
本来ならば、身を正してきちんと説明すべき事柄なのですが、私は体を起こす力が湧いて来なかったのです。
「つまり、偉い方、と言うことですか?」
垂氷が目玉を剥いて尋ねます。
「つまり、偉い方、と言うことだ」
私が答えますと、垂氷は小首を傾げ、眉根を寄せました。
「それで、あんなご立派な馬に乗られて、良いお召し物をお召しであられたのですね」
「お前は外見で人を量るのか?」
私は少々呆れて申しました。垂氷は激しく頭を振って、
「あの方がご自身で『厩よりの使いにござる』と仰せになったのですよ。ですからてっきり、厩橋に御屋敷のある、偉いお家の馬丁殿かと思ったのです。下人に至るまで絢爛な装束をまとえるほどに立派なご家中の……」
「馬糞を片付けるのに、わざわざ錦をまとう莫迦は、どんな高貴なご身分の方の家にもおらぬ」
私は呆れ果てつつ申しました。
しかし言う内に、果たして本当にそうであろうか、と不安になったのです。
何しろ厩の宴の最中に、世の中とは誠に広く、己とは誠に小さい物である、ということを、強かに思い知らされたばかりです。美しき衣を纏って飼葉を運ぶ者が、あるいはこの世のどこかに居るやも知れません。
ですから私は言い終わった後で、小さく、力なく、
「……恐らくは……」
と付け加えました。
それが聞こえたのか聞こえなかったのか知れませぬが、垂氷は拳を握り天を仰いで、
「この垂氷めとしたことが、一生の不覚で御座います。あの方が若様の大切な『慶』様であると気付きもせぬとは。そうであると知っておりましたなら、もっと良くお持てなしをしましたものを。それなのに面を良く見ることもなしに!」
言い終えると同時にガクリと肩を落として項垂れました。
それは、あからさまというか、白々しいというか、大仰というか、鼻に付くというか、ともかく下手な地回りの傀儡使いの数倍も下手な演技と見えました。
こちらが面白がるか、あるいは、気付かずに呆けるのを待っているのが透けて見えるたのです。
私は不機嫌でした。
自分が情けなくてなりませんでした。
慶次郎殿にお掛けした迷惑が申し訳なく、それを詫びに行こうとか取り繕おうとかするために身を起こす心持ちになれないことが不甲斐なく、どす黒い吐き気と頭痛とを取り払うことも出来ず、怠惰に悶々と布団の中に居る己に、不機嫌を募らせていました。
ですから、素直に笑ってやることも、素直に無視してやることも出来なかったのです。
「お持てなしと面なしを掛詞にしたか。面白い、面白い。笑うた、笑うた」
私は野茨の棘の如くささくれ立った言葉を垂氷に投げつけると、掻巻を頭まで被りました。
薄い真綿の向こうで、垂氷は笑っておりました。
「面白うございましたか? 頂上、頂上」
悪念も邪心も感じられない、穏やかで、心底楽しげな声でした。
私は己の惨めさに打ちのめされたものでした。
お恥ずかしい話ではありますが、この後数日の間、私は長々と「不機嫌」で居続けました。
何事も起きなければ、もっと長く不機嫌の侭であったやも知れません。
手水を使う以外には布団から出ず、食事も粥の類を布団の中ですすり、書も読まず、文も書かず、ただただ「不快」を言い訳にゴロゴロするだけの日々を、数日どころか一月も二月も過ごしていたに違いありません。
そうです。何事もなければ。
※脚注
※2「未の下刻」
▲ 午後三時三十分ごろ




