うまやのはし 四
このとき私は、織田弾正忠信長という為政者がこの方に前田の本家を継がせなかった理由の「小さな一つ」を見た気がしました。
大きな理由は言うまでもなくお父上である前田蔵人入道利久様の資質にあるのです。慶次郎殿の「文人振り」をみますれば、その育ての親である蔵人入道様が平和な小城一つを治めるに優秀な「領主」であることが良く知れます。
ですが織田様が能登に置きたかったのは、恐らく主君の命を良く聞く「配下」だったのでしょう。
それゆえ、子飼いで武勇のある又左衛門利家様に家督させたのです。女子供さえも含む、武士でない、浄土往生を願うのみの無垢な一揆衆の死兵達を相手にしても、ひるむことなく殲滅という主命を全うでき、平らげた地縁血縁のない土地を運営できる「槍の又三」を、です
慶次郎殿も確かに武勇に優れた方です。
但しそれは、ただ眼前の一点を目掛けて突き進む、征箭か弾丸のような武勇です。
矢が、弾が、撃ち出された後に射手の言うことを聞くでしょうか。
その場に留まれと言われて、止まることが出来ましょうか。
戦場に解き放たれた慶次郎殿は、先陣となって一騎で敵陣に突入し、当たる者総てを討ってゆきます。殿軍となって、寄せ手の一群を切り裂き、押し戻し、四散させます。
御義父上が「小さな一国を治めるに向いた方」と表せるのと同様、「局地的な一戦に勝利するのに最適」な――あるいは「便利」な――人材といえましょう。
「於菊坊は、お主と同腹か?」
慶次郎殿は両耳を押さえたまま、お訊ねになりました。
「いいえ」
私が「何故そのような事をお訊ねですか?」と聞き返すより速く、
「弁坊は?」
「弁丸……源二郎は同腹です。あと同腹は姉が一人おりますが」
「ふぅん……」
慶次郎殿が腕組みをして、口を閉じ、それをへの字に曲げ、思案顔をなさったので、やっと私は、
「何故そのような事をお訊ねですか?」
と問うことが出来ました。
「なぁに、お主と菊殿が同腹で、且つ、菊殿がお主同様に父親に似ておらぬのならば、三九郎は菊殿の美貌に目が眩んで我が侭を言うた気持ちがわかる、と思うたまでよ」
「は?」
「つまり、お主は父親に似ておらぬということさ」
「やはり似ておりませんか……」
私は自分の顔のあちらこちらを自分でなで回しました。
自覚はしておりました。
父は顎が張り、目鼻の小さい、小気味の良い顔立ちです。背丈はどちらかと言えば低い方でした。
私は顔も手足も背の丈も、上下にひょろ長く伸びております。それでいて額などは丸く突き出、頬はだらしなく下脹れに膨らんでいるのです。
「なに、男の子は母親に似た方が幸せというからな。……逆に娘は父親に似るが良いというが……」
慶次郎殿は首をひねり、
「儂はお主の妹御の顔は良く知らぬが、つまり、幸せになりそうな顔かね?」
於菊は厩橋城内の人質屋敷とも云うべき館に住み暮らしておりました。完全に拘束されているというのではありませんが、押し込められているに近い暮らしぶりです。屋敷の外へ出ることはほとんど無かったでしょう。
慶次郎殿も厩橋に御屋敷を与えられているわけですが、察するに本陣には顔を出す事もあまりなさそうなお暮らしぶりの様子ですから、於菊との接点は無いに等しかったようです。
「そういう意味では、不幸顔でしょう。菊はあれの母親によく似ております。兄の私が言えば、身びいきだと嗤われましょうが、丸顔で可愛らしい娘です」
「それで引く手数多では、お主の父も気が休まるまいよ」
大きな息が慶次郎殿の肺臓から湧き出しました。長い、長い吐息でありました。
息を出し尽くされると、慶次郎殿は拱んでいた腕をほどき、両の腿をぱんと叩いて、
「よし、決めた」
満面笑みを浮かべられました。
理由は知れませんが、私は何やら背筋に寒い物が走った気がしました。
「何を、お決めに?」
恐る恐る伺うと、慶次郎殿はすっくと立ち上がられ、
「情けない話だが、まだ関東は収まりきっておらぬ。北条はうろちょろするわ、奥州にも気を遣わねばならぬわ、煩いことこの上ない。この忙しさの中で、お主の美しい妹が三九郎殿を惑わせば、滝川の士気が下がる」
突然、我が妹を侮蔑するような事を仰せになりました。
流石に私も腹に据えかね、
「於菊が三九郎様を惑わすような、ふしだらな娘だと仰られますか!?」
勢いよくすっくと立ち上がった……つもりなのですが、酒精に足腰を抑え付られて、ふらふらとよろけながら漸う立ち上がりました。
足元はおぼつきませんでしたが、それでも上背だけであれば、私には慶次郎殿と殆ど違わぬ高さがありました。
その独活の大木がつま先立って、覆い被さるようにする物ですから、慶次郎殿は相当に驚かれた様子で、
「言葉の綾だ。済まぬ」
頭をお下げになられました。
ところが私は落ち着こうとも座ろうともしません。理由は思い出せぬのですが、いずれは、酒のために気が大きくなっていたのでありしょう。
怒って赤くなったり、悪酔いで青くなったりと落ち着きのない顔が太い鼻先に突き付けたものですから、慶次郎殿は益々慌てられました。
「つまり儂が言いたいのは、だな……。お主の父御には信濃衆への押さえという重い役がある。そのために、当家と婚姻で縁を結ぶのは、確かに良い手段ではあるが、それによって喜兵衛殿のお心を乱してしまっては、こちらも申し訳ない。然らば菊姫のことは、儂が伯父貴や三九郎殿を説き伏せてやろうと、こう言いたいのだよ」
先ほどまで「お菊坊」などと気安くお呼びだったのに、急に「菊姫」などと大げさな呼び方をなされた所を見ると、この時の私めは、どうやら常ならぬ恐ろしげな風貌に変わり果てておったようです。
「どのように?」
私は単純にその手法を知りたかっただけです。しかし、酔い果てて目の座った顔をした泥酔者の回らぬ言い様は、慶次郎殿には家族を思うての上の激しい立腹に思えたのかも知れません。慌てた口ぶりで、
「一度菊姫を御家に戻そう。それが良い」
そう仰って、大きくうなずかれました。
「それでは証人がいなくなります」
「別の証人を出してもらうより他に手立てがあろうか?」
当然の疑問には当然の答えがかえってくるものです。そして当然の反問への答えは当然「否」です。
「出せる者がおりませんから、於菊をお出ししたのです」
「だから、お主が来ればよい」
「は?」
流石に私は驚いて目玉を剥きました。
……目を剥いたつもりでした。
強か呑んで、強かに酔った私の瞼は、重く眼球の前に垂れ下がっておりました。
視界は平生の半分よりも更に狭くなっております。目の前は暗く、ゆらゆら揺れて、グルグル回っています。
「丁度良い。丁度良い」
慶次郎殿が明るく笑う声が聞こえた途端、私は己の体がふわりと浮いた気がしたのです。
実際、私の足の裏は地面には付いておりませんでした。
持ち上げられていました。
慶次郎殿が私の帯を掴み、片の肱だけで私の体を吊り上げて、まるで小行李でも持ち歩いているかの如き気軽さで、私を運んでいたのです。
私は拒否するとか暴れるとか、そういった動きを取るべきでしたのに、することが出来ませんでした。
そうしようにも、手足の先どころか髷の先端まで酒精の行き渡った体が、頭の言うことを聞かないのです。
しかも、その頭ですら、自分自身で何を考えているのかさっぱり判らないという有様でした。
だらりと垂れた手足の指先が、掃き清められていた厩の地べたに擦れておるのを酔った眼で見て、
『ああ、これでは慶次郎殿が運び辛いであろうに。私はなんて無駄に体が大きいのだろう』
などと考えるような為体です。
ゆさゆさと揺れながら、ずるずると手足を引き摺って、私は運搬されておりました。
そして、その揺れに妙な心地よさを感じた物でありましょうか、運ばれながら堕ちるように眠ってしまったのであります。




