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真田源三郎の休日  作者: 神光寺かをり
うまやのはし
15/36

うまやのはし 三

 関東は形の上では織田により「平定」されていますが、北条の動きは怪しげであり、また奥州のあたりはきな臭く、

「その上、越後に長尾弾正少弼うえすぎかげかつとかいう辛気臭しんきくさ若造(・・)がおる。儂等としてはが大きく動くわけには行かぬよ。なにしろあれは親の代から織田信長(・・・・)という(・・・)モノ(・・)を嫌っておるようだからな。……それに」

 不意に、慶次郎殿の眼差しが鋭くなりました。

「此度の猿殿(・・)の言い分は信用できぬな。何か魂胆こんたんがある。硝煙しょうえん臭い魂胆だ」

「硝煙……」

 私は空にした盃を、殆ど押しつけるようにして慶次郎殿に手渡しました。

 話を聞きたい。酒で口が軽く回ってくれないだろうか。

 切実に願いました。

 父の命令のため?

 いえ、確かに話を聞き出せと命じられてはおりましたが、あの時にはそのことなど忘れておりました。

 私よりももっとずっと広くこの世を知っている、この人の話を聞きたい。この先、私が見ることがないかも知れない、広い世の中の話を聞きたい。

 その一念でした。

 ですから私は、慌てて瓢を傾けたのです。

 細い口からは一滴の液体も出ませんでした。

 私は思わず――おそらくかなり情けなげな顔をして――慶次郎殿の顔を見上げました。

 慶次郎殿は顔を真っ正面に向け、厩の窓の外の空を睨み付けておいででした。

 黒い雲の塊が重そうにのたりのたりと流れておりました。

「『何事もなく』猿公(・・)が毛利を押さえたとしても、西には西のその先がある。我らが関東を巧い具合に治めたとしても、東には東のその先がある」

 四国、九州、あるいは琉球りゅうきゅう

 相模さがみ陸奥むつ、あるいは蝦夷えぞ

 私は固唾かたずを呑み、空の瓢を持ったまま身を震わせました。

 己が子供であることを思い知らされた気がしたのです。

 私が、その時までの十六年ほどの生涯で行ったことのある一番遠い場所と申せば、諏訪ということになりましょう。

 織田の殿様に目通りが適ったその時に参ったご本陣です。この厩の宴の、たった(・・・)数ヶ月前(・・・・)のことでした。

 信濃や甲州の外側のことは、文に読み、話しに聞いて、夢想はしておりましたが、正直、想像が付きませんでした。

 私にとって世間は、涙が出るほど狭い物だったのです。

「日の本の国は、広うございますね」

 羨望と無力感と酒精とが混ざった吐息が、私の肺臓の奥から溢れました。

「だがな、源三郎……そうとも言い切れぬぞ」

「はい?」

「安土の城で、大殿から面白い物を見せていただいたことがある」

 そう仰った慶次郎殿の目は、星が瞬くようにキラキラと光を放っておりました。

「面白い物、でございますか?」

globo(ぐろぼ) terrestre(てへすとれ)という代物だ。南蛮なんばん伴天連ばてれんが大殿に献じたもので、大きなまりの上に地図が描いてある」

「鞠に、地図?」

 私は阿呆のように申しました。それがどのような物なのか想像が付かず、また、何故わざわざ鞠に地図を描かねばならないのか、その道理が判らなかったのです。

「『ぐろぼ』は蘭語らんごで球、『てへすとれ』は地面のことだそうな。して、これを漢語にすると『地球儀』となる。つまり、この地べたの形を球で表している」

 慶次郎殿が地面を踏み付けるような所作しょさを二、三度なさると、地面は、トトン、と軽快な拍子の音を立てました。

「この平らな地面を鞠のような球で? 何故そんな面倒なことをするのでしょう。地図ならば平らな紙に書けばよいのに」

「伴天連共にいわせれば『それこそ正しい地面の形だから』だそうな」

「正しい、とは……つまり地面は丸いと?」

 私は頓狂とんきょうな声を上げました。慶次郎殿は小意地の悪いような、玩ぶような、子供じみた笑顔を作って、

「まあ、そんな些細ささいなことはどうでも良いわい。要は、そこに描かれていた地図よ」

 やおら右の手を私の前にお出しになりました。

「お前が広いと言った日の本の国はな、その地図ではホンのこれほどの大きさであったよ」

 慶次郎殿の親指が、小指の先を指し示しました。

「件の、辛気臭い(・・・・)上杉のおる越後やら、槍の又三たらいうケチ臭い(・・・・)のがおる能登やらの、その向こう側にある海は、あぜ道の水溜まりほどもない。対岸にはみんがドンと構え、南蛮はどこから何処までが南蛮なのか判らぬほど広い。それを取り巻く外海そとうみはさらに広い」

 慶次郎殿は両の手を大きく広げて、海の、私の知らぬ世間の、途方もない広さを示されました。

 私には慶次郎殿の大きな体躯たいくが広い世の中そのもののように思えてなりませんでした。言葉もなく、憮然呆然ぶぜんぼうぜんとして、慶次郎殿のお顔を眺めるより、私に出来ることはありませんでした。

 すると慶次郎殿は、突然盃を放り捨てました。

 開いた両手は直後に私の両肩にドンと落ちてきました。

「それを思えば、厩橋も沼田も岩櫃いわびつも砥石も真田の郷も、川中島、信府、諏訪、木曽、それに安土、あるいは京の都といったところでさえ、目と鼻の先の近さよ」

 にんまりと笑っておいででした。

 つまり、

「お主が岩櫃から出て、儂等と一緒に働いたとして、薄紙一枚の厚さほども動いたことにはならぬのだよ」

 このことを仰りたかっただけなのです。

 私はぐらぐらと揺れておりました。

 いいえ、心持ちが、ではありません。

 私の体がぐらぐらと揺すられておったのです。

 慶次郎殿が私の肩を掴み、前後に揺さぶられたからです。

「父が、何と、申しますか」

 私は揺れながら答えました。

「お前の妹を帰して、変わりにお前をここに残す。一つ足して一つ引くだけのことよ。何の問題もあるものか」

 慶次郎殿は更に私を揺するので、私の胃の腑中では酒精が渦を巻き、つられて脳漿もグルグルと回り出しておりました。

「左近将さまが、何と、仰せになりますか」

 どうにか絞り出した直後、私の体がぴたと止まりました。

「伯父貴が、何を言うと?」

 慶次郎殿の太い眉根の間に、浅い皺が刻まれました。

 私の上半身は慶次郎殿に押さえつけられた格好で真っ直ぐに立たされていたのですが、胃の中と脳漿と目の玉とは中々止まってくれませんでした。

 ゆらゆらと揺れた面持ちで、漸く、

「三九郎様のことです」

 と申し上げますと、慶次郎殿の眉間の皺が少し深さを増しました。

「三九郎殿が、どうした?」

 滝川一益様の従兄弟である義太夫ぎだゆう益重ますしげ様のお子である慶次郎殿と、一益様のお孫様である三九郎一積(かずずみ)様とは、いとこ違い(・・・・)の間柄ということになります。歳は大分に慶次郎殿の方が上ですが、三九郎様は一益様御嫡男の御嫡男であられましたので、慶次郎殿よりもお立場は上と言うことになるのでしょう。

 それにしてもご一門の慶次郎殿が、

「三九郎様が、於菊おきくを、嫁にご所望だと」

 いうことを、ご承知でないというのは、不可解なことでありました。

 しかし慶次郎殿が、

「そんな話があるか。証人ひとじちに預かった娘を、相手の弱みに付け込んで、無理矢理にめとろうなどとは」

 と、大層なご立腹をなされた――ただし、縁談を自分に内緒で進めたということにではなく、強引なやり方であるということにお怒りになられて――その辺りからして、於菊と三九郎様とのことを本当にご存じなかったのでありましょう。

 慶次郎殿が本心お怒りのようでしたので、私は慌てて、

「無理にというのでは御座いません。先日我が大叔父、矢沢頼綱を通して、父のところへお申し出が……」

「つまり、儂が父を経由して、ということか?」

 大叔父のいる沼田の城代は慶次郎殿の実のお父上である滝川益重様です。

「そういうことになりましょうや」

「先日というのは、何時だ?」

 慶次郎殿はようやく私の肩を解放してくださいました。支えを失った私の体は、胃の腑と脳漿の揺れのそのままにゆらゆら揺れました。

「つい二、三日前にて」

 慶次郎殿ははたと膝を打ち、黒鹿毛の名馬を指さして、

「では、儂がこれを追っておる間か……。どおりで沼田からも厩橋からも『戻れ』『帰れ』と催促が来ておった」

 苦笑いを頬に浮かべられました。

 私が覚えず、

「御身も美馬に目をくらまされ、ままをなさっておいでだったのすから」

 などと口を滑らせますと、慶次郎殿は、

「流石に片腹痛い源三郎め。痛いところを突きおるな」

 ケラケラとお笑いになり、

六韜りくとうに曰く、『国不可従外治くにはそとよりおさむべからず軍不可従中禦ぐんはなかよりぎょすべからず』だ。名馬の捕獲は戦そのもの(・・・・・)だろう? ならば後ろからの声などは聞こえぬ、聞こえぬ」

 両の手で両の耳をおおって見せました。


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