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真田源三郎の休日  作者: 神光寺かをり
うまやのはし
14/36

うまやのはし 二

「良い馬だ。実によい馬だ。しかも馬銜はみの跡も鞍の跡もない。これほどの馬を野に放っておいて、あれほどの騎馬軍を養っていたと云うから、全く甲斐いい上野といい、武田は恐ろしい土地を領していたものだ」

 慶次郎殿は満面に笑みを湛えて、黒鹿毛の首を抱いて頬をすり寄せました。

 馬の方はというと、何とも面倒くさそうに鼻をブルッと鳴らしはしましたが、されるがままにしておりました。

 私には馬の心持ちなどは判りませんが、どうやらベタベタとまとわりつかれるのに辟易へきえきとし、しかし拒絶するのを諦めている……そのように見えました。

 一頻ひとしきり馬自慢をなさった後、慶次郎殿は敷きわらを高く積んだ物を床几しょうぎ代わりに座られました。そして大きなふくべと朱塗りの大盃おおさかづきを取り出されたのです。並の素焼杯かわらけの五倍はありそうな大杯でした。

 これを私に示した後、慶次郎殿は傍らの敷き藁の山をあごで指さし、私の胸元に盃を突き付けたのです。

 座らぬ訳には行かず、受け取らない訳にも参りません。

 私は厩で酒宴を張ったのはこの時が初めてでした。無論、この後にも一度とてありません。

「樽や銚子から呑むも良いが、やはり冷や酒は瓢で呑むに限る。よく冷えて、味が締まる」

 そう仰って、慶次郎殿が手ずから私の盃へ瓢の酒をお注ぎになりました。

 なみなみと注がれた酒の量といったら、徳利一つ分もありそうに見えました。

 私は盃を両手に戴き、大きく息を吐き出しますと、一息に酒を胃の腑へ流し込みました。

 腹の奥から湧き上がった酒精の臭気が、鼻を突き抜けて、脳天を揺さぶりました。

「私などには、まだ酒の味の違いは良く判りませんので」

 何とか空にした盃を、慶次郎殿に差し出しました。

 慶次郎殿がそれを片手で受け取られたので、今度は私が瓢を取って、酒を注ぎました。

 不調法に酌をする私の手元を見て、慶次郎殿が、

「お主があまりに面白い男であるからすっかり大人だと思いこんでおったが、そういえばまだ子供のような年であったな」

 と仰ったのを聞いて、私は無性に己が恥ずかしく、口惜しく、悲しくなりました。

 その上、私が両手でようやっと捧げていた大盃を慶次郎殿は片手であおりり、あっと言う間に干されてしまわれたとなっては、益々自分が情けなく思えてなりませんでした。

 慶次郎殿は今一度私に空の盃を差し出されました。私が受ければ、また酒をなみなみと注ぎます。注がれれば呑まねばなりません。

 今度は一息に、とは参りませんでした。何度か息を吐きながら、少しずつ胃の腑に酒を落とし込みました。

 その必死の最中に、慶次郎殿が、

「お主も、お主の親父殿も、大変だな」

 ぽつりと呟くように仰いました。

 あと一口の酒が、傾げた盃に残っておりました。私は盃の縁を噛んで、

「この世に大変でない人間などおりましょうか?」

 言いながら息を出し尽くし、その勢いで最後の一滴をすすり込んだのです。

 その直後、私の目の前から空の杯が消えました。顔を上げますと、慶次郎殿がそれを持っておられました。私が慌てて瓢を取ろうとしますと、慶次郎殿は首を横にして、

「ああ、そうだな」

 と微笑なさりながら、ご自身で酒を注がれたのです。

 慶次郎殿はあっと言う間に盃を白されました。そして今一杯、手酌で酒を注ごうとなさいました。

 この時、私は何を思ったものか、そのお手から盃を奪い取りました。それから瓢も同様に、少しばかり強引に取りました。

 私は瓢を盃の上で逆さにしました。

 傾けたのではありません。まるきり逆さにしたのです。

 ああいう口の小さな入れ物は、逆さにしたからといって、勢いよく酒が出てくる物ではありません。斜に傾げた方が出がよいように出来ておるのです。

 逆立ちした瓢の口からは、情けなく酒の雫が垂れるばかりです。私は無気になって、瓢を上下に激しく振りました。そうしたところで出が良くなるわけではありません。

 酒は杯へ落ちるのではなく、益々細かいしずくとなって、あちらこちらへ飛び散ってしまいました。

 勿体もったいないことです。折角の銘酒めいしゅを、殆ど厩の土に呑ませてしまいました。ばかばかしいことこの上ありません。

 私はこの時、物の道理という物が判らなくなっておったのです。おそらく、始めて呑む良い酒に、強かに酔っていたのでありましょう。

 ところが不思議となことに、前後不覚になった、と云う覚えがないのです。酔いつぶれて記憶が失せるようなこともありませんでした。

 その証拠に、今でも時折、不意にこの時のことが思い起こされます。その度に、耳の先まで熱く赤くなります。

 出来れば忘れてしまいたいというのに、何故かこの日の出来事は、何年、何十年経った後になりましても、鮮やかに思い起こされるのです。

 ともあれ、情けない私は、酒の雫の出なくなった瓢を放り出しました。莫迦莫迦しい手酌の仕方のために、盃の酒は雨後の水溜まりのように、浅く僅かに溜まったのみです。

 私が一息に飲み干せる程度の、僅かな水溜まりです。

 地べたがぐにゃりとひしゃげて見えました。板葺いたぶきの天井も、グルグルと回っています。

 放り投げた瓢を拾い上げようとしましたが、手近にあるように見えるのに、どうにも指が届かないのです。

 私が意地になって、何もない所で手を握ったり開いたりしておりますと、瓢がふわりと浮き上がりました。

「変わりを持たせよう」

 慶次郎殿は瓢の胴を叩きました。空の瓢が魚鼓ぎょくのような音を立てると、直ぐに控えの方があらわれ、酒の詰まった別の瓢が主人の手に渡されました。

「信濃の冬は、寒いかな?」

 何の挿し穂もなく慶次郎殿が仰いました。

 言うと同時に、私の手から盃を取り上げ、空いた手に瓢を持たせました。

 重い瓢でした。冷たい瓢でした。

 途端、私の目玉は回ることを止めました。

「寒いですよ」

 私は当たり前のことをするようにして、慶次郎殿が持つ盃に酒を注ぎ入れました。

 今度は先ほどのような無茶はいたしませんでした。

 良い酒が良い勢いで杯の中に流れ込みました。

 慶次郎殿も当たり前のことをするようにして、それを飲み干されました。

 すると今度は瓢を取り上げ、盃を押しつけます。

 私が盃を捧げ持ちますと、慶次郎殿はそこへちょろりと酒を注ぎ入れました。

「雪は多いか?」

「所によります」

 一口ばかりの酒を呑み干しますと、また盃が取り上げられ、瓢が渡されました。

「所による、か?」

「信濃は広うございます。北の方は雪深ゆきぶかですが、南の方は余り降りません。その代わり、底冷えがします」

「お前の父御のいる所……砥石といしといったか? あそこはどうだね?」

「たんとは降りませんが、降れば根雪ねゆきになります」

「長く暮らすには向かぬなぁ」

「住めば都でございますよ」

 瓢を持つ方が酒を注ぎ、注がれた方が飲み干すと、瓢を取り、盃を渡す。渡された方が飲み干せば、盃と瓢とを取り替え、注ぎ、注がれ、飲み干す。

 私の盃には一口の酒、慶次郎殿の盃には一杯の酒が注がれ、消えてゆく。

 一言交わすごとに、私たちはそれを繰り返しました。

「都、な」

本物(・・)の都(・・)は……少しばかり縁のある者がおりますので、話には聞きますが……まだこの目で見たことがありません」

「見てみたいか?」

「それは……生涯に一度ぐらいは」

「ならば儂と来るがいいさ。飽きるほど見せてやるよ」

「ですが、慶次郎殿は滝川様の御一門様ゆえ、この後は関東にお住みになるのでしょう?」

 関東から京は、言うまでもなく遠く離れております。

「織田のお屋形やかた様の腹積もり一つだな。あの方の都合で、ある日突然、能登のとの方へ行けと命じられるかもしれぬしな。これでも儂は、あっちに僅かな『田畑』を持っておるのだよ」

 慶次郎殿はニタリとお笑いになりました。能登は慶次郎殿の叔父君である前田又左衞門(またざえもん)利家としいえ様が治めておいでです。

 この頃の慶次郎殿は、この年若い叔父御とその年取った兄である御養父の蔵人くらんど利久としひさ様とが「不和になった」ので、「両親、妻子を連れて生家たるの滝川方に戻った」ことになっておいででした。ですが、どうやらこの時点では世間が言うほど険悪な訳ではなかったようです。

 あるいは何か別の訳があって、前田家を二手に分けておられたのかも知れません。

「しかし、西の方を羽柴様がお平らげになれば……」

「ああ、()は『苦戦している』と言ってきたが」

「苦戦?」

 私は危うく盃を落としそうになりました。

 父が仕入れた、羽柴秀吉殿が援軍を要請していると言う「話」は、慶次郎殿の口ぶりからして、どうやら本当らしいと知れたからです。

「滝川様が御助勢に向かわれるのですか?」

「まさか」

 慶次郎殿は手をひらひらと振りました。

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