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火急 二

 私は笑う気にはなりませんでした。何やらどす黒いおりのような物が、腹の奥に淀み溜まっている、そんな心持ちになってきたからです。

「父上、つまりはどういうことでありましょうか?」

 何も判らぬような口ぶりで、尋ねてみました。

 父は答えてくれませんでした。それが答えでした。

 父が無言でいるということは、私が「惟任日向様と羽柴筑前様が、何か『良くない事(・・・・・)』を起こそうとしている」と考えたそのことと同じ、あるいはそれ以上に大きな何かがおきるだろうと、父も考えているに違いありません。

 しばしの沈黙の後、父は天井を見上げて、

「出来るだけ幸せになれる方に嫁がせたいからな」

 ぼそりと言ったものでした。

 私も大叔父も、暫くは口が利けませんでした。

 織田様ご家中で実力者である惟任様と羽柴様が何か事を起こせば、例えその事自体は小さいものであったとしても、ご家中に大波として波及するに違いありません。

 あるいはその事が大事であったなら、波の大きさがどれ程になるのか。

 我らはその波を如何に堪え、如何に乗り越えるべきか。

 考えるだけで恐ろしくなります。

 ええ、そうです。その時の我ら三名にとって、その波に押し流され、家名が潰えてしまう可能性などは慮外りょがいでした。

 この中の誰か、あるいは、この場にいない一族の誰かが死ぬことは有り得ても、真田の家が消えて無くなるとは考えなかったものです。

 もっとも、私は死ぬのが怖くてならない臆病者です。脳漿のうしょうの奥の奥では、自分はどうやって生き延びてくれようかと、少しばかりは考えておりました。

 ともかくも、男三人、しばし膝突き付けあって黙り込んおりました。ですがそれほど長い時間ではありません。

 何分にも、我が一族は性急な者ばかりです。

 暫くすると、三名の中で特に一番の急っ勝ち(・・・・)が、とうとう堪えきれなくなって、

「それで、主は何故我らを呼びつけた?」

 と唸るように言いました。

 父が僅かに――父のことを良く知らぬ者ならそうと気付かぬほどの小さな――苦笑を口端に浮かべて、発言の主、すなわち矢沢頼綱を見やって、

「滝川方の様子を良く見聞していただきたい。どうやら叔父御も源三げんざも、滝川様御一族、殊更ことさら、義太夫殿親子に気に入られているようであるから」

 大叔父が砥石まで出向くことを、沼田城代の滝川義太夫益氏(ますうじ)様がお許しになったということは、益氏様が大叔父を信頼していると言うことの証でありましょう。

 そして、私のことを「友」と呼んでくださった前田慶次郎殿の実の父親は、益氏殿でした。

 ――益氏殿のお歳を考えますと、慶次郎殿は益氏殿が随分とお若い時分に生まれたお子と見えます。

「気に入られている点では、主が一番であろうがな」

 大叔父殿はそう言って笑いました。

 滝川一益様に気に入られ信頼されているからこそ、父は本領安堵された上に砥石に住むことが許されているのです。

「あの仁は、実に面白い。実に珍しい生き物だ」

 父も笑っていました。

 これを聞いた大叔父は、

「向こうもお主をそう思うておろうよ」

 大笑しました。

 一頻りお笑いになると、大叔父はは急にお顔の色を険しくなさいました。

「儂は人の胸の内を探ったり内密に調べたりなどというのは苦手だ。故に、義太夫殿と当たり前に付き合うことにする。当たり前に付き合うて、当たり前に知れることを知る。面白きことがあれば、主に知らせる。それで良いな?」

「構いませぬ」

 父はにこやかに答えました。

 これを聞いて大叔父は肯き、立ち上がり、そのまま出て行こうとなさりました。……が、二・三歩歩んだところでふと立ち止まり、父に背を向けたまま問いました。

於菊が事(・・・・)は、如何にする?」

 父の笑顔は途端に消えました。

「厄介ごとを思い出させてくれますな」

「忘れたで済む事でははない。主は正式な返答を後日送れば良かろうが、儂は帰れば直ぐに義太夫殿に復命せねばならぬ」

 振り返りもしない大叔父の背を睨み、父は口をとがらせて言いました。

「今、於菊が三九郎殿に嫁せば、降将が命惜しさのために娘をにえにしたように見る者もおるだろうから、今暫くはお待ちいただきたい、と」

「ふん。で、石田の方へは?」

「この度の事により未だ家中が落ち着かぬ故、輿入こしいれの義はお待ちいただきたい、とでも文を出す」

「して天秤の傾きを見極める、か。比興ひきょうなり、比興なり」

 大叔父はカラカラと笑い、歩幅大きく出て行かれました。

 その時私には、苦笑いして大叔父を送り出す父の目が、少しばかり曇っているように見えました。

 不安であるとか、心配であるとか、そう言った心持ちのために生じた曇りではない。何かを隠しておいでるのではないか。何か重要な事柄を、大叔父にも私にも言わずにおられるのではないか――私はそう思うて父の顔を見ておりました。

 父の目を見ることで、何かを読み取れるかも知れない、と思ってのことです。

 私の浅はかな考えなど、直ぐに父に知られてしまいました。

 父は瞼を閉じてしまったのです。

「源三」

 地を這うような低い声音が私を呼びました。身が縮む思いがしましたが、しかしどうやら平静を保ち、

「はい」

 返答いたしますと、父は小さな声で言いました。

「織田様の使い……いや、織田様の身辺からの正規の使いが重要な知らせを持って滝川様の元へ走り込むのと、ノノウや『がそれを持ってここへ走り込んでくるのと……お主、どちらが速いと思う?」

 私は暫し考えました。

 父のことですから、本当にどちらが速いかを尋ねているのでは無いでしょう。そのようなことなど、私に聞くまでもなく、父の方が良く知っているはずです。

 ではなぜそのようなことを聞くのか。

 父の意向が図りかねました。

 となれば、正直に答えるより他に術がありましょうか。

「どちらとも申し上げかねます」

小狡こずるい答えだな」

「そう仰せになられましても、私には『場合によると』しか返答できませぬ」

「場合、とは?」

「まずは、使者・・そのものの(・・・・・)力量(・・)です」

「ほう?」

「岩櫃におります垂氷つららと申しますノノウの足の速さには大変驚かされました。ノノウ達がみなあれほどに足早で、しかもその網が強く強固であるのなら……当たり前の連絡であれば、ノノウ達の方が恐らく速いかと。されど……」

「されど?」

繋ぐべき(・・・・)事の(・・)大きさ(・・・)が、思いもしない程に大きければ、正規の御使者が死に物狂いで馬を走らせることでしょう。ですから、場合による、と」

「事の、大きさ、か」

 父は言葉の一つ一つを、それぞれ絞り出すようにして言い、瞑目めいもくしたまま天を仰ぎました。

 このような勿体もったい振った有様を見せつけられますれば、幾ら鈍い私でも、父の所に来た連絡の内容が、実は相当な大事であったのだろうと察することが出来ます。

 己が頼みとする叔父に総てを開かすことができず、不肖ふしょうせがれにもそのまま告げることが出来ないような一大事です。

「速く届いた知らせが、必ずしも正しい知らせとは限らないのではありますまいか?」

 そのようなことなど父は重々承知でしょう。それでも私は言わずにおれませんでした。

「正しくなければよいが、な」

 父は大きく息を吐き、眼を見開いて、天井を睨みました。

 私は不安に駆られました。そして何故か、このまま父を沈黙させてはならない、そんな気がしたのです。

「正しいとご判断なさるに足る知らせで御座いますか?」

「むしろ、有り得ぬ知らせだな」

「ならばそれほど御懸念ごけねんなさらずとも宜しいのでは?」

ここ(・・)が、な……」

 つい先ほど、顎の辺りを撫でた右手の、骨太な親指が、胸板の真ん中当たりを突き刺すようにして指し示しました。

 父の唇の端がくっと持ち上がりました。笑っています。

 しかし、目は、眼は、暗い色をしておりました。

 いいえ、決して落ち沈んでいたのではありません。

 遠い暗雲の中の雷光のような、暗い、恐ろしい光を放っていたのです。

 心の大半では、大事が起きるのを楽しみに待っている。そして残った僅かなところで、平穏無事を願っている。

 人の心という物は、なんとも複雑な代物です。

 私は父の前に膝行しっこうし、その暗く光る眼を見つめ、思い切って尋ねました。

「どのような知らせで?」

「儂がこの『面白き事(・・・・)』を、人に開かすと思うか?」

 父は弾けるように笑いました。

独り占め(・・・・)になさりまするか?」

 私が拗ねた声で尋ねますと、父は笑声をぴたりと止め、

()の嫁ぎ先を決めたなら、真っ先にお前に教える」

 渋皮を貼ったような顔で言ったものです。


 私が岩櫃に戻りますと、垂氷(つらら)が出迎えてくれました。

 その時の私といえば、情けなくも、できれば直ぐにでも寝てしまいたいと弱気になるほどに疲れ切っておりました。ところが、垂氷は私の都合など知らぬ顔で、

矢沢の(・・・)お年寄り(・・・・・)は、血の氷った鬼のような方ですね」

 口を尖らせました。

「大叔父殿が、なにかなされたか?」

 垂氷の顔には、そう尋ねろ、と、書かれておりました。

「戻ってお見えになるなり、『沼田だ。急ぐ。換え馬』 で御座いますよ。それで、沼田からお連れになって、ここで御休息なされていたご家来衆の襟首を掴んで、まるで荷物のように無理矢理馬に乗せて……」

「先刻私にそうされたように、か?」

「はい、先刻若様にそうなされたように、です」

 私の疲れ切った脳漿でも、大叔父のなさりようが、ありありと想像できました。

「それは……可哀相に」

 呟いたその直ぐ後を追って、大きな欠伸が腹の底から湧き出て参りました。

「本当にお可哀相でしたよ。丁度お茶を点じて差し上げた所でしたのに。まだ口も付けない内に、首根を掴まれて引きずって行かれて。本当に酷いお年寄りです」

 垂氷のむくれた声が、なにやら遠くにから聞こえるような気がしました。

 私は首を横にして、

「違う、あの者達ではなく、大叔父殿だ。父上から厄介ごとを頼まれて、その頼まれごとに急かされている大叔父殿が可哀相だと言ったのだ……」

 と言いました。

 いえ、正しくは「言ったつもり」でありました。

 情けないことに、首を横に振ったその途端に、耐え難い眠気に襲われて、途端、バタリとうつ伏し、そのまま夜が明けるまで、前後不覚に眠ってしまったのです。

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