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火急 一

 沼田の矢沢頼綱(よりつな)大叔父が岩櫃いわびつに来たのは、皐月さつきも末のことだったと記憶しています。

 その日私は、運良く……いやむしろ運悪しく(・・・・)といった方が良いよう気もするのですが……出城の天狗丸てんぐまるにおりました。天狗丸は岩櫃の本丸の北東にあり、普段は兵や「()」達が詰めている場所です。出城の南側の山下には街道が通っております。

 その道を、三騎の騎馬が疾駆してこちらへ向かって来るのが見えました。

 見事な騎乗でありましたから、遠目にも、さぞ名のある者達であろうとは思われましたが、流石さすがに山の上からでは、旗指物はたさしものも無しに疾駆する者達の顔かたちまでは判別できません。

 すると、街道の見張番をしていた目の良い者(・・・・・)が、少々困ったような顔をして申すことには、

「沼田の矢沢様です」

 並の「急使」であれば、使い番に文を持たせればよいだけのことです。事が重要であったとしても、もっと身軽な、年若くて目端めはしの利く者を選んで使者に立てればよいでしょう。

 大叔父の下には私の乳兄弟めのとご禰津ねづ幸直ゆきなおがおりましたから、その辺りを走らせれば十分だったはずです。

 それにもかかわらず、大叔父本人がわざわざ出向いてくるとは、余程のことに違いありません。

 一番に天狗丸にたどり着いた先頭の馬には、大層不機嫌な顔をした矢沢頼綱がおりました。残りの二騎は、どうやら山中で引き離されてしまった様子です。

 大叔父は私の姿を見付けると、飛び降りるように下馬しながら、

「丁度良い。砥石といしだ。急ぐ。換え馬」

 必要最低限の言葉だけを発しました。

 沼田から駆けに駆けて来たと見えて、さしもの大叔父も肩を大きく揺すって荒い息を吐いておりました。差し出された水をと飲み干すと、大叔父は私の首根を掴んで、

「大事だ」

 引かれてきた馬の一頭に、私をほとんど無理矢理に、さながら荷物を載せるように、乗せました。

 私は大いに慌てました。大叔父が、私がまだ鞍に尻を乗せきらぬうちに、私の乗った馬の尻に向けて鞭を振り上げたのが見えたのです。

 危ういところで私の馬が切り立った山道で奔走ほんそうせずに済んだのは、大叔父の前に馬が引かれてきたためでした。大叔父が私を蹴り出すよりもご自分が馬に乗ることを優先した御蔭で、私は危うく寿命が縮むような想いをせずに済んだのです。

 無言で馬に跨る大叔父に、

「いったい何のご用件ですか?」

 と問うてみました。

 返事は簡潔なものでした。

「火急だ」

 それだけ言うと、馬は猛烈な勢いで駆け出ました。そのまま、後ろを振り返ることもなく、砥石目指して真っ直ぐに駆けていったのです。

 大叔父の姿が見えなくなってしまった頃、沼田から引き連れられてきた家臣達がようやく天狗丸へたどり着き、滑り落ちるように下馬しました。余程に苛烈かれつな強行軍であったのでしょう。この者達は地面にへたり込んでしまい、換え馬が用意されても乗り換えることが困難でした。

「二人ほど参れ。馬の巧い者なら誰でも良い」

 私は怒鳴るように命じて、馬を走らせようとしました。老将・矢沢頼綱に後れを取ってはなりますまい。

 そこへ垂氷つららが飛び出してきました。結び文を頭上に掲げております。

「若様、砥石のお殿様より文が……」

 私は文を受け取るのがもどかしく思えました。大叔父が遙か先を駆けています。

「読め」

 私の口調は強いものでした。垂氷は一瞬、身を堅くしましたが、直ぐに薄紙を広げ、そこにある文字を読み上げました。

火急・・

「全く、我が一族は性急せっかちな者ばかりだ」

 しかし、私もその一族の端くれです。垂氷が何か言おうとしているのに構わずに、馬腹を蹴りました。


 砥石に着くと、父はいつもの渋皮顔で我らを迎えました。ただ、私と大叔父一緒に来たことには多少驚いたようです。

「叔父御は……儂が呼んだから来た、と言うのではなさそうだな」

「お主の出した使者なら、岩櫃ですれ違うたわい」

 矢沢の大叔父はドカリと座ると、長大息して、

滝川・・彦右衛門(・・・・)から厄介ごとを頼まれてな」

 父がきな臭気な顔をしました。

 滝川彦右衛門、即ち滝川一益様は、我らから見れば上官です。必要であれば命令を下す筈です。ところが

「滝川殿が、頼む(・・)、とな?」

 父も私も不可解に感じ、二人して大叔父の顔を見つめたのです。

「それがあの男の面白いところぞ。それに相当に面倒なところでもある。こういったことは、むしろ命令であった方が、ずっと気が楽なのだがな」

 大叔父は何やら歯切れ悪く言いました。しかも、歯切れの悪い上に肝心なことは一言も言いません。

 父は珍しくいらついた様子で、眉根を寄せて、

「で?」

 と催促をました。

 大叔父はもう一度息を吐いてから、

「菊を、嫁に、欲しい、と」

「何と?!」

 父と私は、異口同音に声を上げました。

「誰を誰の嫁に、だと?」

 父は脇息きょうそくを跳ね飛ばし、身を乗り出しました。大叔父はきわめて冷静な口ぶりで、

「お主の娘の於菊・・を、滝川殿のご嫡男一時(かずとき)殿の長子の三九郎さんくろう一積(かずあつ)殿の嫁にしたい、と」

 私はこの時、生まれて初めて、そしてこの後の生涯に二度と見ないものを見たのです。

 目を見開いて、口をぽかりと開けたまま、しかし声も出せずに、へたり込むように座って、ただ肩を振るわせるばかりの、真田昌幸です。

 しかし、その阿呆面を我々にさらしていたのは、どれ程の間もありませんでした。

源五郎・・・にも驚くことがあると見ゆるわ」

 大叔父に幼名で呼ばれた上、部屋どころか城中が揺れるのではないかと思えるほどの勢いで破笑はしょうされると、父は途端に、だらしなく落ちた下顎したあご上顎うわあごにぴたりとめ込みました。目は針のように細くなり、いつも通りの渋皮面に戻っております。

 そして、私ならきっとするであろう、己の瞬時の痴態ちたいを取り繕ったりするようなこともせず、

「さて、考え物よな」

 何事も起きなかったかのように、腕を拱いて我らの顔を見回しました。

 大叔父はいぶかしげに父をにらみ返して、一言、

「考えるまでもない」

 その後に何の言葉も継ぎませんでしたが、父にも私にも『喜んで承れ』の意であることが判りました。

 この頃の矢沢頼綱はすっかりと滝川様贔屓(ひいき)でした。

 大叔父殿自身が武勇に優れた方であったというのが、一番の理由です。「先陣も殿軍しんがりも滝川」と称される戦上手の滝川一益様に、ある種の親近感を覚え、大層好ましく思ったのでありましょう。

 於菊おきくが三九郎殿と妻夫めおととなったなら、当家は滝川様の御嫡男筋と血縁を結ぶことになります。織田の大殿様の覚えも目出度い、仮にも関東管領かんとうかんりょうの、滝川家と、です。

 私も大叔父同様に滝川様を好ましく思っておりました。滝川の一族の皆様は、どうにも不思議に人好きのする方々です。確証は持てませんが、恐らく父も同様でしょう。

 ですが父は見るからにこの縁談に前向きではありません。

 それは、男親としての歪んだ情のために、可愛い於菊を嫁がせたくないだけ、が理由ではないようでした。

「石田方に断りを入れおらぬ」

 確かに、武田滅亡からこちら、直接石田様並びに義弟の宇多頼次様とは連絡を取っておりません。いえ、取れていない、と言い表した方がよいでしょう。

 そのころ、石田様御一党は主である羽柴はしば筑前ちくぜん様と共に、遠く備中国びっちゅうのくににおられました。

 滝川左近将監一益様に「武田征伐」を命じた織田の大殿様は、殆ど同時期に、羽柴筑前守秀吉(ひでよし)様に「毛利討伐」をお命じになっていました。石田様宇多様はこの遠征に付き従って行かれたのです。

「主は滝川殿と小猿・・の尻の下の小童こわっぱとを天秤にかけて、釣り合うと思うておるのかや?」

 大叔父の言葉には憤りと疑念が多分に含まれております。

 滝川様は織田家の直臣じきしん。羽柴様御配下である宇多様は陪臣ばいしんというお立場になります。当たり前に考えれば、天秤棒は滝川様の方に傾くこととなりましょう。

「まあ、釣り合うまいな」

「ならば答えは一つであろう」

 大叔父が膝を進めると、父は腕組みのまま、右の一の腕だけを持ち上げで、顎の辺りをぞろりと撫でました。

「さて、釣り合いはせぬのは確かだが……」

 父が薄く笑いました。

 大叔父は……そして私も……怪訝けげん顔で真田昌幸を見ました。次の言葉を待つその僅かな時が、随分と長く思えたものです。

 やがて大叔父殿が焦れて、

「主は何を考えておる?」

 少々強めに問いました。途端、父の面から薄笑いが消えました。

「傾く側が決まり切っているとは、限らない様子でな」

「何のことだ?」

惟任これとう日向守ひゅうがのかみのことよ」

「惟任?」

 眉間の皺を深くしした大叔父は、疑問の色濃い視線を、私の側へ向けました。父に尋ねたところで、答えないであろうと踏んだのでしょう。

 私は記憶の糸をどうにかたぐり寄せて、

「織田様ご家中の明智あけち十兵衛じゅうべえ光秀みつひで様ことです。随分以前に惟任の姓と日向守の御官職と御官位を……たしか従五位の下だったかを、賜られたとか」

「そんな奴は知らん」

 大叔父は不機嫌そうに言い捨て、直ぐに視線を父に戻しました。

「それで、そのキンカン頭(・・・・・)がどうしたと?」

 私は「惟任様の仇名まで知っているではないか」と言いたいのをどうにか堪えて、大叔父殿同様に父の顔を見つめました。

「中国討伐の後詰ごづめを口実に、兵を集めている」

「口実? 中国討伐は大殿のご命令であろうに」

「羽柴の猿殿・・・・・が三万の兵を率いて行ったそうだが、苦戦しているという話は聞こえてこぬ。幾ら相手が戦上手の毛利とは言え、猿殿・・が援軍を本心欲しがっているとは思えぬな。まあ、今からでも叔父御が槍をひっさげて毛利に荷担なさると言うならば、倍の援軍を貰っても足らぬだろうが」

「面白くもない冗談だ」

 そう言いながらも、大叔父殿はニンマリと笑っておいででした。

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