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真田源三郎の休日  作者: 神光寺かをり
歩き巫女
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歩き巫女 五

 私が垂氷つららに言ったことは、全部私の本心です。

 武田家がノノウを庇護し、彼女らが「信心」を理由に自由に諸国を巡ることが許されていることを利用して「草」として利用していたことを、織田様や滝川様、そしてその将である前田慶次郎殿が全く知らぬとは考えられません。

 ノノウの統帥たる千代女殿の婚家「甲賀望月氏」は、甲賀忍びの流れを引いています。

 そして滝川様ご一門は甲賀発祥だと云います。

 同じ源流を持つ者として、武田の庇護を失った千代女殿達の動向を探っていても、不思議でありますまい。

 彼女たちの「網」は有益なモノです。手に入れたいと思うのが当然でしょう。

 そうであれば――あるいはそうでなかったとしても――父がノノウ達のことを秘匿していることが知れたなら、真田の家にどのような御仕置きがなされるか、考えただけでも小便が漏れそうなほど強烈な震えが来ます。

 ですから、出来るだけ「普通の文のやりとり」に近い速さで事を進めたかったのです。

 私は、友との手紙のやり取りを心の侭にすることが許せない程の小心者の己自身が、情けなくてなりませんでした。

 ため息を吐いている所へ、垂氷が興味津津きょうみしんしんといった顔つきで、

「それで、その『慶』様には、どのような文を送られたのですか?」

「なんだ、覗き見たのではないのか?」

 封印をしたわけではない、しかも私信でありましたが、垂氷のような「優秀な草」であれば、たとえ自分が携わったやり取りでなくても、主人……この「優秀な娘」が私のことをそう思っていてくれるかどうかは別として……と誰がしかが交わした文の内容を確認するのが当然なのではないか――と、私は考えていました。

 ですから垂氷が首を横に振ったことは意外でした。

「見なかったと言うことは、見る必要を感じなかったということだろう? それでいて、内容をお前に言う必要があるというなら、理由を申せ」

 垂氷は笑って、

「文を見なかったのは、火急の用件ではなかったからです。急ぐことであるならば、わたしも文の内容を直ぐに知っているべきで御座いましょうが、そうでないなら後から聞いても間に合いましょう」

「では、もしアレを早馬ででも出していたなら、当然封を開けてじっくり見た、ということか」

「あい」

 垂氷には悪びれた様子など微塵もありませんでしたが、ニコニコとしていた頬の肉を、きゅっと引き締めると、

「で、でございますよ。よしんば、万一、もしかして、それこそ火急の用件で、件の『慶』の所へ、若様の筆跡を真似た贋の文を、わたしが書かなければならなくなったときに、それまでのやりとりが判っておりませんでしたら、辻褄の合わないことを書くやも知れません。ええ、つまり用心のためです。そう、用心のために教えて頂きます」

 真面目振った顔で言いました。

 一応理に適っています。ですが私にはこの娘の目の奥に、仕事への責任感以外の光が見える気がしたものです。

「さて、先方に贋手紙を渡さねばならないような事が起きなければよいが。なにしろ私は友を作るのが下手だ。せっかく先方から友人扱いしてくれたその人との縁を失うのは嫌だな」

 私は贋手紙など出されては困ると遠回しに言ったつもりなのですが、私などが予想できないような返答が、想像していない斜め上の方角から返って来てしまいました。

「お任せ下さいませ。垂氷めは持てる力総てを注いで、迫真の贋手紙を書きまする。決して若様と『慶』様との仲が壊れるような事にはさせませぬ」

 垂氷は胸をドンと叩いて見せました。

 勘働きの悪いことです。私ははこの時になって漸く、この娘には皮肉であるとか湾曲した物言いであるとかいうモノが通用しないらしいと気付きました。

 垂氷の顔色は艶々と、目は爛々と輝いております。早く自分の持てる力を発揮したい、と、総身に力をみなぎらせているようでありました。

『まあ、それだけ自分の「草」としての能力に自身があるのだ、と言うことにしておくか』

 私は苦笑しながら腹の奥でため息を吐きました。

「どうあっても、文の中身を知りたいか?」

「あい」

 垂氷の目玉がますます持って輝きました。

「お前の期待しておるようなことは書かなんだよ。ありきたりな文だ、ありきたりな……」

 私は短い文の内容を殆どそのまま言って聞かせました。



 過日の身に余る送別の茶会の御礼を、今日まで申し上げておりませんなんだ事を、どうかお許し願います。

 今私は切り立った山の上で、日がな一日書物に当たる退屈な日々を送っております。

 と申しましても、この山城の蔵の中には米と味噌と柴以外の物はそれほど多くは入っておりません。遠くない日に読む書物もなくなってしまうのではないかと案じておりました所へ、先の文を頂戴し、涙を流して喜んでおります。

 何れ近い日に件の馬にて山駆けをなさった暁には、この山家にて精一杯のおもてなしをする所存で御座います。



 聞き終わった垂氷の目は、針のように細くなっておりました。

「若様のお腹の黒いこと」

「そうかな」

「そうで御座いますよ。『何もない』と言っておきながら、籠城するに十分な兵糧や、夜襲や火攻めのために要り用な柴がたんと備えてあると言っている。そういったことは普通は秘密にしておきたいことなのに、それをことをポロリと零したフリをして、相手を牽制なさっておられる」

 垂氷は細く閉じた瞼の奥から、私に向けて心の臓をえぐるような尖った眼差しを送っていました。

 私は首を振り、笑いました。

「考えすぎだ。私はそこまで策を弄することができるような小利口者ではない」

 この時の己の顔を、己自身の目で見ることは出来ませんでした。

 ただ、想像は容易に出来ます。

 恐らくは垂氷の言ったとおり、腹の黒い笑顔だったことでしょう。


 時というものは忙しいときほど速く過ぎてゆくものです。

 卯月の末には、異母妹の於菊おきくが厩橋へ向かってゆきました。

 厩橋の人質屋敷が完成したから……という滝川一益様直筆の「催促」の文を持った御使者が来たのでは、流石の父も於菊の引き渡しを拒むことができません。

 於菊は侍女と共侍を一人ずつ、それから琴を一張携えて、上州へ向かいました。

 木曽へ赴いた源二郎と、矢沢三十郎叔父の文が、砥石を経由して私の所へ届いたのは、皐月の初め頃だったでしょうか。

 源二郎の文に書かれていたのは、次のようなことでした。



 無事に木曾殿の元へ到着いたしました。

 木曾殿が父に「今までもこれからも『同じ主君に仕える者同士』であることは変わらぬから」と、宜しく伝えて欲しいとの仰せです。

 織田の大殿様は、木曽にはお寄りになりませんでした。

 古府こうふから駿河へ出て、東海道で早々に安土城へ戻られたそうです。

 武田討伐において多大な力を貸してくれた徳川蔵人佐(くらんどのすけ)家康殿をもてなす宴を開くためであるとのことです。

 云々。



「しかし、父はどんな顔をしてこれを読まれたか」

 何分にも、父が嫌っているお二方のことばかり書かれている文でした。殊更ことさら、木曾殿からの言づてなどは心中苦々しげにお読みになったことでありましょう。

 それでも、顔色は平静と少しも変わらなかったに違いありません。あるいは薄すらにお笑いになっていたかも知れません。

 三十郎殿からの文は、砥石から木曽への道すがらを短くまとめた旅日記のような体裁になっておりました。

 もしこの後に私が彼の地に向かうようなときが来たなら、見物して回るのにたいそう役に立つに違いない、と思えました。

 私は文を読み終えると、自分の文……いいえ、何ことはない、只の時節の挨拶です……を添えて沼田の頼綱大叔父へ送りました。

 皐月の間中、私は毎日岩櫃の崖の上に立って、厩橋の方角を眺めておりました。

 その方角から文をが来るのを待っていたのです。

 前田慶次郎殿からの文です。

 最初の突然に送られてきたものから先、皐月の間は一通の便りもありません。このことが寂しく思えてなりませんでした。

「私が送った返事が気にくわなかったかな」

 誰に言うでもなく、ぽつりと口にしたその後で、『しまった』と心中舌打ちをしました。

 間の悪いことに、部屋に垂氷がいたのです。

「だからといって、失敗を取り繕うような文を送ってはなりませんよ。しつこい男は嫌われます。とは申しましても、少しも文を送らぬのでは、先方がこちらを忘れてしまいますが。げに《《恋文》》は難しゅうございますれば」

 垂氷ときたら、さても楽しげにニコニコと笑って申すのです。

 この娘は、どうあっても私と慶次郎殿の関わり合いを「念友ねんゆう」であることにしたいようでした。

 男同士の友情の最も強く固い繋がりが衆道しゅうどうの間柄だ、という方がおいでです。そういう方々から見たなら、私と慶次郎殿は真の友ではないと言うことになるのやも知れません。

 そう考える方々のお考えはごもっともでありましょうが、私の考えはは違うのです。

 友には、肌の触れ合いどころか、言葉の交わし合いすら無用である。

 ただ、何処かの空の下に、互いを友と思い合っている者がいる、そう思うことこそが必要であり、その事実が一番大切なことなのではないか。

 私がそういったことを言いますと、垂氷は急に笑顔を引きました。

「そうお想いならば、返事が返ってこないからと言って、焦れたりなさらなくても宜しい。若様が彼の方を友とお思いならば、ただひたすらに厩橋の空の下におられる方のことを思って差し上げなさいませ」

 真正面の正論が返ってきました。

 このような大上段の攻めを受けた時、小心者の私に、

「まあ、確かに、その通り、だ、な」

 と口ごもるより他に手立てがあるでしょうか。

 その様子を見た垂氷は、どうやら私が、

『生まれ故郷から引き離され、このような山奥の断崖の上に押し込められたために、懐かしい空の下にいる人々のことを思い出しては、酷く落ち込んでいる』

 のだと思ったようです。本当のところは判りませんが、恐らくそうだったでしょう。

「若様、わたしはノノウでございますよ。他人様の悩み事を聞いて、それの助けになるようなことを言って差し上げるのが、わたしの仕事でございますから、何ぞ心に架かることがございましたなら、何なりとお申し付け下さいませ」

 この時、胸の前で手を合わせ瞑目めいもくして言う垂氷が、白衣観音菩薩びゃくえかんのんぼさつの化身のように見えたのは、今から考えますれば、実際私の心が重く塞いでいたからやもしれません。


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