6.帰還
私はどれくらいの間正気を失っていたのでしょうか。一瞬だったような気もするのですが、暦を見ると何日も経ってしまったようでした。私にはその間の記憶が全くなかったのですが。
ただ、私はいつの間にかオーギュスト様をセシルの最期をよく知っていました。好んで私に伝えようとする人がいるとも思えませんから、両親の時と同じように無理に周囲の人たちから聞き出そうとしたのでしょう。誰もが悲しみに暮れて口を開こうとしないところを無理強いしては、聞いたことに耐えられなくてまた倒れてしまったのでしょう。
とても、迷惑なことをしてしまいました。
お父様と同様に、ふたりも最期まで毅然として誇り高く振舞ったそうです。
生まれながらの王族であったオーギュスト様だけでなく、平民出身のセシルまでがそのような勇気を持っていたのは驚くべきことです。きっと、国を想い、国のために尽くした日々が彼女に強さを与えたのでしょう。憎しみに駆られ、流言に踊らされた民よりも、彼らを利用しようとした貴族よりも。遠い地で何もできなかった私よりも遥かに、セシルは高貴な精神の女性になっていたのだと思います。
慣れない王宮で、皮肉や敵意に曝されるばかりの日々も辛かったでしょうが、冷たい石の塔に捕らわれ、朝に夕に罵られる日々もどれほどセシルの心を引き裂いたでしょう。しかもそれをしたのは彼女と同じ生まれの、彼女が守ろうとした民だったのです。
最期の日、ふたりは処刑台の前で久しぶりに引き合わされたそうです。やつれ果て、まとうのは粗末な麻の服一枚だけ。集まった民がはやし立てる中、それでも悪意に押しつぶされることなく、背筋を伸ばして凛として。
まずはセシルが、次いでオーギュスト様が。
最後の言葉を残すのを許されたのは、泣き言や命乞いを期待されていたからかもしれません。でも、ふたりとも彼らの思い通りにはなりませんでした。
祖国の未来が明るく豊かなものであるように。誰ひとり傷つけられ虐げられることのないように。全ての民が等しく幸せに暮らせることを祈る。
ふたりの願いは、最後の瞬間までも変わることはなかったのです。魂からの真摯な願いは、歓声にかき消されて民の耳には届かなかったのでしょうが。
セシルが処刑台に上げられる前に、オーギュスト様と口づけを交わしたということも聞きました。ふたりの間にはやはり愛が芽生えていたのかもしれません。王と王妃という形に伴って育まれたのか、革命の苦難のなかで励まし合ううちに生まれたのかは分かりませんが。
それを聞いて、私の心は悲しみだけでなく揺らぎました。もしもふたりが生きていて、愛し合っていると聞かされていたら、やはり私は嫉妬していたのかもしれません。
いえ、でも、例えすぐに受け止められなかったとしても、必ずいつか祝福することができていたはずです。そして三人で、以前のように語り合っていたはずです。ふたりの子供も交えて――そうして希望が繋がれていくのを見守るのは、大きな幸福になっていたに違いありません。
もうそんな夢も潰えてしまいましたが。
私がまともに話せるようになったのを見計らったように、この国の王から招待を受けました。もちろんルイも一緒です。
「軍をお貸ししよう」
開口一番、王はそう言いました。
「我が国の民も革命の熱に浮き足立っている。自由や平等を口にするものが街角に溢れている。この国でも貴国と同じことが起きる前に、革命の鎮圧を頼みたい」
「……我が国の民に兵を向けろと仰るのですか」
ルイの声を聞きながら、私はオーギュスト様たちの死を伝えた時の王の顔に不安と恐れが満ちていたのを思い出しました。あれは、自分たちの身にも同じことが起きるのではないか、という恐怖だったのです。国境が監視されているとはいえ、人の行き来を完全に遮断することなど不可能です。まして恐れるのが思想――全ての人は平等で、貴族に支配される今の世界は間違っているのだ、という――となれば、口から口へと伝わってこの国の奥深くにまで染みとおっていてもおかしくありません。
「正統な王が逃れていて良かった。無論我が国もこの機に侵略などと考えてはいない。隣国があるべき姿に戻ってくれればそれで良い」
「兄は決して民を力で押さえつけようとしなかった。その思いを踏みにじる訳には……!」
そうでした。オーギュスト様はあくまで対話で解決しようとして、それを弱腰と批判されたのです。もし最初の暴動を強硬にでも鎮圧していたら、結果は変わっていたのでしょうか。
「マルグリット! 貴女も何か言ってください。貴女なら分かるでしょう、力での解決などは――」
「ノアイユ公爵令嬢、我々は貴女にも大変同情している。父上とはお会いしたこともあるのだ。あのような亡くなり方をするはずの人ではなかった。――復讐は、望まれないのか」
王とルイとの視線を受けて、それぞれの言葉に揺さぶられて、私はそっとつぶやきました。
「復讐……」
なんと甘美な響きでしょう。王の言う通りです。父も母もオーギュスト様もセシルも、あんな無残な最期が相応しい人ではありませんでした。それぞれ幸せを掴んで、尊敬されて慕われて。惜しまれながら穏やかに永の眠りにつくはずの人たちでした。心から国を思っていた人たちでした。
その一方で、彼らを死に追いやった人たちと言ったら……! 目先のことしか考えないで、ずっと先の未来を考えていた人たちが必死に考えたことを、実現しようとしていた理想を打ち壊してしまいました。共に耐え忍ぶということをしないで、ただ糾弾する相手を求めて国土を血で染めたのです。
思いを踏みにじったというならあの人たちが先にしたことです。
このようなことになってもまだ、民とは守らなければならないのでしょうか。祖国を追われた人たち、あるいは今も森や山の中で息を潜めて隠れている人たちこそ、守り、手を差し伸べなければならないのではないでしょうか。
「マルグリット……」
不安げな声に、私は我に帰りました。私の名を呼んだのは、ルイ。オーギュスト様の弟。私にとってもきょうだいのような。沢山の人が逝ってしまった今、彼こそ決して失いたくない存在です。
その彼の目を見て、私の採るべき道は決まりました。
「ご厚情はもったいなく伺いました、陛下。ですが祖国へ軍を向けることには反対です」
ルイの顔が明るくなるのと同時に、王の顔は苦々しい色に染まりました。
「今更話し合いで解決できるとでも? 失礼だが先王は――」
「貴国が手を汚すまでもないと考えるからです。革命に危機感を覚えているのは周辺の諸国も同様かと存じます」
ルイと王と、ふたりの表情が入れ替わりました。ルイは顔を顰め、王は逆に納得したように頷きます。
「それは……もっともだな」
平民に王や貴族と同じ権利を認める国など地上にまだないのです。しかも平民が王を殺すなど前代未聞です。革命の飛び火を恐れるのはどの国も同じ。間もなく祖国は国境を接する国全てから攻められるでしょう。
「革命軍の士気は高いでしょうが……率いる将校も処刑されるか亡命するかでいなくなってしまっています。長く持ちこたえられるものではありませんでしょう。
でも、他国は侵略の正当性を持ちません。正統な王たるルイはここにいるのですから。革命政府が弱ったところで、悠々と帰国すれば良いのです」
「そんな! 祖国が戦火に見舞われるのを見過ごすのですか!?」
血相を変えて叫んだルイに、私は微笑みかけました。
「民も戦いたがると思うわ。折角自由を手に入れたのですもの、守ろうとするはず」
「戦いを、どうやって終わらせると? わざわざ出兵しておいて簡単に退くはずがない!」
「どの国も革命の鎮圧のため、祖国の平穏のためと言って介入するでしょう。貴方の帰還は望み通りということではないですか。引き下がるほかないでしょう」
「でも……!」
納得がいかない様子のルイを他所に、王はもう具体的なことを考え始めているようでした。
「そういうことであれば確かに新王が祖国を攻めるのは外聞が悪い。だが、何もしないで帰っても歓迎はされまい。何かお考えは?」
「民の歓心を買うのはやはり食べ物かと思います。そもそも彼らはパンを求めて暴動を起こしたのですから」
今まで思い悩んで立ち止まっていたのが嘘のように、言葉がすらすらと私の口から流れていきました。
「では、その準備をしておこう」
「お願いいたします。同時に、現在予定している祖国への輸出を止めてくださいませ。食料も、その他のものも。ルイがもたらす救いがより一層劇的に見えるように」
「そのようにしよう。他国も同様にするだろうが」
祖国を困窮させようという相談に、ルイがそんな、と呟くのが聞こえましたが私は無視しました。
「もちろん、ただご厚意にお縋りするつもりではありません。――ルイ、負債が増えてしまいますがこの際仕方ありませんね?」
「沢山の人が死ぬことになる! どうしてそんなに落ち着いていられるのですか!?」
どうしてかしら、と自分でも不思議に思いながら私はルイに向き直りました。
「今も死んでいます。死ぬべきでない人たち、罪のない人たちが、革命を称する者たちの手によって」
「他国の介入や食料の不足で死ぬのも罪のない人たちです!」
「革命が続けばその人たちも死ぬことになります。結果的にはその方が犠牲が大きくなるかも」
「どちらがより悪いか、どうしてすぐに決められますか! もっと慎重に考えて――」
そう、私は驚くほど大胆になっていました。あんなに、自分の行動の結果を恐れていたのに。多くの人の生死が左右されることだと分かっているのに。
なぜか、心がひどく軽いのです。迷いなく決めてしまえるのです。その理由を胸の奥に問いかけて――私はああ、と気付きました。
今の祖国に、私が惜しむ人はもういないのです。愛する人、大切な人は皆いなくなってしまいました。殺されてしまいました。私たちの決断によって死ぬのも生きるのも、それに加担した人か見過ごした人です。そのような人たちの命など、私にはどうでも良いのです。
でも、そうと口にしてもルイが喜ばないのは分かっていたので、私はもっともらしく言いました。まるで民のことを想ってでもいるかのように。
「慎重に考えていた結果、オーギュスト様たちがあのようなことになってしまいました。もう、時間を無駄にできません」
そして、結局はこのひと言で彼も心を決めてくれたのです。
結果から言うと、私の読みは当たりました。祖国を取り巻く国々は、国王処刑の報に怯え焦り、革命政府を脅しにかかりました。やっと手にした権利を手放すまいと民も立ち上がり、祖国はほぼ全方位から攻撃に晒されることになりました。
でもたった一国で、指揮官もいないのに抗えきれるものではなくて。もちろん革命の発端となった凶作の影響も根深くて。燃え上がる山火事のように盛んだった革命軍の士気も次第に萎れていきました。
そして祖国が息絶えようとした、まさにその瞬間に、ルイが現れたのです。新しい王として、国を民を救う者として。恐らくはその肩書きではなく携えた食料のためにでしょうが、彼の帰還は歓迎されました。
追放された時に眺めた景色を、私はルイに従ってまた目にしました。山や川の形は変わらないけれど、人の表情は険しく、畑は荒れ果て、家畜の数まで減っているように見えました。
この間に祖国の混乱は極みに達していたのです。周辺国からの侵攻に、ますます不足する食料。悪化する治安。革命を名乗っていた者たちは互いに責任を押し付けあって、密告や裏切りが横行して。民衆を煽動していた元貴族も、民衆の代表を自称していた者も、多くが処刑台に送られたそうです。
その中に王族に連なる者もいたので、驚く人もいましたが、私はなるほど、と思っただけでした。オーギュスト様を貶めてルイをも捕らえようとしていたのですから考えてみれば当然です。正当な方法では王になれないから王のように権力を振るおうとしたのでしょうが、そのために国は荒廃し、自身も命を失うことになったのです。愚かだ、というのがただ一つの感想でした。
私は、人の死を聞いてもごく冷静に受け流せるようになりました。あまりにも悲惨な出来事が続いて麻痺してしまったから――ではありません。悲しみ嘆くべき死がもうなくなっていたのです。
人間は平等などではありませんでした。
私にとって大切だった、お父様とお母様。オーギュスト様とセシル。志を共にしてくださった方たち、優しい使用人。ほとんど会ったことのない民よりも、私にはその人たちの方がずっと愛しい存在でした。祖国にとっても、ずっと価値のある存在のはずでした。
その人たちを――それも、私欲や勝手な逆恨みのために! ――奪った者たちが生きようと死のうと苦しもうと、もはや私の心を動かすことはなかったのです。
オーギュスト様とセシルが、どうして最期まで民を愛することができたのか分かりません。貴族も平民も平等な世界を、などと夢見ていたのは今や私の汚点です。ふたりが夢を見たまま旅立ったのは、あるいは救いなのかもしれませんが。でも、醒めてしまった以上、私はこれまでと同じ心持ちでいることはできません。
ルイが正式に即位するのも、その様が歓呼で迎えられるのも、私はどこか冷めた目で眺めていました。