1.断罪
私は裁判というものは何か冷たく静かで威厳に満ちたものだと思っていましたが、それはどうやら思い違いのようでした。
この法廷を満たすのは、むせ返りそうな人の熱気。それも、舞踏会のような香水の香りではなくて、もっと泥臭く汗臭いもの。それに加えて人々が囁き、あるいは怒鳴り合うのも厳粛さとはほど遠い下品なことばかり。その意味の全てが分かる訳ではないのは、きっと私にとっては良いことなのでしょう。
ですがきっといつもこうだという訳ではないはずです。何しろ今日の裁判は特別なのです。この見世物を見るために、国中から人が集まって来ているのです。
だって被告はこの私。王太子殿下の婚約者にして国でも指折りの淑女のひとり。ノアイユ公爵令嬢マルグリットなのですから。
「静粛に! 静粛に!」
法廷が完全に静まりかえるまでに、黒い法衣の裁判官は、何度も槌を振り下ろさなければなりませんでした。それほど人々のざわめきは大きく耳を塞ぐばかりで、鋭い槌の音さえ飲み込んでしまっていたのです。
やっと静寂が――私が思い描いていた通りに――訪れると、裁判官は私の顔をじっくりと眺めてごくりと唾を呑んだようでした。無理もないことですが、緊張しているようです。貴族が裁かれることは全くないということではないですし、女の罪人もいるでしょう。でも、私のように身分高く若く美しい女がこのような場に引き出されるとは、恐らく例のないことではないのでしょうか。
私は原告の席をちらりと見ました。そこには王太子オーギュスト殿下がいらっしゃいます。そう、訴えたのが王族でなければ、このような裁判は開かれなかったことでしょう。
私は大丈夫。そんな顔はなさらないで。
裁判官に負けず劣らず強ばった顔をしていらっしゃるオーギュスト様へ、私はにこりと微笑みました。もちろん声に出すことはできませんが、気持ちはちゃんと伝えられたようです。オーギュスト様は小さく、けれどしっかりと頷いてくださいました。
「ノアイユ公爵令嬢――」
「はい」
するとついに裁判官も口を開き、私は明瞭な声で答えます。まずはお決まりの宣誓です。この法廷においては真実のみを口にすることを、神にかけて誓うのです。
「――あなたは傷害の罪で告発されている」
「存じております」
そしていよいよ本題に入ると、熱気が一段と上がるのが分かりました。聴衆が身を乗り出して、法廷が一回り小さくなったような気さえします。
裁判官はオーギュスト様を――正確には、その陰に隠れるように縮こまった少女を目で示しました。可哀想に、怯えきっているようです。彼女のことも励ましてあげたいのですが、裁判が始まって満場の注目を集めてしまっている以上は、目配せなどもできなさそうです。
「被害者のセシル・ブラン嬢は――」
「私のお針子でした」
「貴女は権力を利用して他の使用人たちに彼女を虐めさせ――」
「事実です」
「言葉だけでなく私物を汚したり壊したりも――」
「その通りです」
「……更には不当に解雇して路頭に――」
「間違いございません」
罪状に対して淀みなく頷く度に、裁判官の顔はひきつり聴衆からは怒りのどよめきが沸きました。黙らせるべく槌を振るう裁判官は、気の毒ですが腕が痛くなってしまわないでしょうか。証拠や証人を持ち出す手間を省いてあげているのですから、許してもらいたいものですが。
「肥えた豚め!」
罵声の一つを耳が拾って、私は思わず苦笑しました。実際、私の腰は細くてとても美しい線を描いていると評判なのですが。
きっと貧しい民には貴族は全て貪欲な豚に見えているに違いありません。今日の私の衣装も、そのように見えるように計算していることですし。
髪に挿した真珠のピンも、輝くサテンの生地も。狭い廊下を歩く時には形が変わってしまうほど大きく広がったスカートも。彼らには手の届かないもの。彼らの血と汗と涙で贖われた――と信じられている――ものですから。
罵声が聞こえた方を向いて微笑むと、一際大きなどよめきがあがって鎮まるまでにしばらく掛かってしまいました。きっと嘲笑に見えたのでしょう。
「……それで、動機は? 取るに足らない召使のために貴女ほどの方が、どうしてそこまで……?」
裁判官は腕をさすりながら尋ねました。どうしてこんな裁判を担当しなければならないのだろう、と顔に書いてあるみたい。確かに罪として挙げられたのは、傷害ともいえない些細なことばかり。恥ずべきこと、不当なことではあるけれど、国中で数え切れないほど見過ごされている不正の中のほんのひとつ。……でも、だからこそ王族が告発したという事実が重要なのです。
「嫉妬です。セシルは私の婚約者を誘惑しました。泥棒猫への当然の罰です」
私が言い終えるかどうかのうちに、建物が大きく揺れました。聴衆の怒号がそれだけ大きかったから、というだけではありません。ある者は立ち上がり、ある者は足を踏み鳴らし。一斉に私への怒りと憎悪を露にしています。まるで嵐のただ中にいるよう。それとも砲弾飛び交う戦場といったところでしょうか。
聴衆が――半ばは警備兵の力づくで――落ち着くのを待ちながら、私は恐怖に震えます。怒った平民たちが柵を乗り越えて私に掴みかかる、などと恐れている訳ではありません。私は警備の皆さまの能力を信じています。
私が恐れているのは神の怒りです。私がこの法廷で述べたことは嘘ばかり。神聖な宣誓を何度も破ってしまったのです。神がご覧になっているとしたら、今にも私は雷に打たれてしまうかもしれません。
いいえ、きっと違うはず。
私が偽りを述べたのは、自らの保身のためではありません。罪人が罰を逃れるために嘘を重ねるのとは訳が違います。すべては愛する祖国のため、オーギュスト様のためにすることです。他の幸せを願う無私で崇高な想いが、どうして咎められることがあるでしょう。ほら、何秒何十秒待っても私には傷一つないではありませんか。
「彼女は罪を認めた。これ以上議論は不要だろう」
オーギュスト様も、私と同じ恐れを乗り越えたに違いありません。裁判官に判決を求める彼の声も表情も、自信に満ちた堂々としたものでした。
「…………」
この裁判官は誇りを知る人のようです。王太子の命によって不当に重い判決を下すのを躊躇うように、顔を顰めて唇を結びました。けれど――
「有罪! 有罪!」
「貴族だろうが知ったことか!」
「女狐に思い知らせろ!」
この民の叫びを前に、訴えを却下することなどできないでしょう。皆、私が貶められるのを見たくてやって来ているのですから。仮に無罪釈放などということがあっては暴動になりかねません。
とうとう諦めたように、裁判官が大きく息を吸って胸を上下させました。判決の瞬間となると、さすがに誰もが息を呑んで自然と静寂が訪れます。裁判官の声は法廷中に高く響き渡りました。
「被告は全ての罪状を認めた。更に迫害されたセシル・ブラン嬢は王太子オーギュスト殿下の庇護下にあった。それを知りながら嫌がらせを続けたのは王家への不敬罪に相当する」
裁判官が事前に申し渡した通りのことを述べてくれたので、私たち――私と、オーギュスト様と、セシル――は視線を交わして頷き合いました。不審に思われないように、ほんの少しだけ。
「よって当法廷はマルグリット・エミーリエ・ド・ノアイユを有罪とし、王太子の婚約者および公爵令嬢としての身分を剥奪した上で国外追放に処するものとする!」
再び建物が揺れました。今度は歓喜の叫びによって。私への罵声もありますが、それさえも嬉しげに弧を描いた口から溢れています。
「正義の勝利だ!」
「王太子殿下、万歳!」
「セシル嬢も、万歳!」
何よりも祝福の声が大きいのを確かめて、私は安堵しました。緩んだ表情を見られないように、俯きながらではありましたが。
「お嬢様、今のうちに、こちらへ」
「ええ。ありがとう」
我が家の従者に手を引かれて、私は法廷を後にします。聴衆はオーギュスト様とセシルに夢中です。今ならそっと抜け出すこともできるでしょう。
「売女め、ざまあみろ!」
……完全に見つからずに、という訳にはいきませんでしたが。くしゃりという音がしたのは、卵が投げつけられたようでした。多分ドレスの後ろの方。頭に当たらなかったのは運が良かったのでしょうか。
紋章を隠した馬車に乗り込むと、私はほう、とため息をつきました。
「お嬢様、お疲れでは――」
「大丈夫よ」
悪意ある大勢の人たちの前に出たのは、気疲れすることではありました。でも、結果は予想通りになったのです。ため息といっても大事に成功した達成感からこみ上げたものです。だから心配げな侍女に対しても、私は微笑むことができました。
「街の様子が見たいわ。下町を通ってちょうだい。窓を開けても良いかしら」
「万が一にもお顔を見られては大変です。覗き見程度、ということになりますが」
「そうね。仕方ないわね」
カーテンの隙間から垣間見える街の様子は、貴族が住まう一角とは全く違って惨憺たるものでした。
貴婦人たちはどなたもふっくらとした頬で、腰を少しでも細く締めるのに苦労しているというのに、通りに見える人たちは皆今にも倒れそうに痩せています。着ているものももちろん比べものにならなくて。建物も薄汚れて道に汚物が目立つのは、きっと余裕のなさの表れ。御者は物乞いをしようとする子供を追い払うのに苦労しているようです。法廷に詰めかけていた人たちはまだ余裕があるということなのでしょう。
これがこの国の現状なのです。
「ひどいわ……」
「国王陛下はお心を痛められ尽力してくださっています。お父上も」
「でも足りないの」
先々代の国王陛下は戦争に明け暮れられました。華々しい戦果と引き換えに、この国は莫大な負債に悩むことになりました。先代、当代の陛下と後を継いだ方々は各種の産業の振興に尽力されて負債は幾らか減りました。けれどそれはより大きな問題を生んだのです。
事業に成功して富を得た一部の民は知識も得ました。そして不満を持ち始めました。貴族ばかりが優遇される、この世界のあり方に。生まれによって人の一生が決められることの、理不尽に。
その考えは次第にもっと貧しい民にも広がりました。その結果、かつては絶対の服従の対象だった貴族に次第に厳しい目が向けられるようになりました。今日の裁判でも見た通りです。その反感が王家にも向けられるまでに、あとどれくらいの猶予があるのでしょうか。
取り返しがつかなくなる前に、何かをしなければならないのです。それが、私とオーギュスト様、セシルを始めとした心ある者たちの想いなのです。
その一歩が、まずは成功したと思って良いのでしょうか。
投げつけられた卵はどうやら腐っていたようで、屋敷に着くまでしばらく悪臭に耐えなければなりませんでした。