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[資料]コムギの歴史

作者: 肥前文俊

 そこが異世界のハイファンタジーであれ、同じ地球のローファンタジーであれ、

世界観の一部として、食事について書かれることは多いと思います。


 特殊な文化・文明ではなく、リアルな世界観を用いる場合には、

当時の農業や畜産について、簡単な知識があったほうが良いと思い、資料を作成しました。


 専門家ではないので、一部説に偏りや過ちがあるかも知れませんが、

その際は資料を明示の上御指摘いただけましたら、喜んで改訂・改良を加えていきたいと思います。

 コムギは、イネ科に属する越年草です。

9月頃に種をまき、翌年の6月にかけて収穫される秋まきと、

4月下旬~5月に種をまき8月~9月に収穫される春まきがあります。


 日本では秋まきコムギが多く、昔は二毛作が行われていましたが、近年は行われていないようです。


 白っぽい小さな花を咲かせ、収穫期には堅い実を実らせます。

 寒さに強い植物で、乾燥地帯・寒冷地域で栽培されています。


 南アジアのような高温湿潤な場所は適していないので、あまり栽培されていませんが、早生品種として栽培されています。


「コムギの使用用途」

コムギは種類によって強力や普通、薄力コムギに分類されますが、使用用途もまた変わります。


おおまかに分けると、

パン用・麺用・菓子用・ノリなどの接着剤です。


 イネとの大きな違いは、殻が非常に堅いので、玄米のようにそのまま食べられないという事です。

結果、石臼などで挽く必要があり、粉状では食べづらい。

水に混ぜ、焼くという行為が加えられるようになりました。


 挽いた後の殻はふすまと呼ばれ、主に家畜の飼料に使用されます。

食感を悪くするので、ほとんどの場合取り除かれますが、全粒ぜんりゅう粉として使われる場合もあります。

 ビタミンなどのミネラルが豊富で、脚気の予防になったと言われています。

逆に貴族は新鮮な野菜を食べないと、脚気になったとされます。




「小麦の種類」


 小麦はパンコムギ、マカロニコムギなどがあります。

パンは名前通り、パンコムギ。

 パスタに多く使われるのはマカロニコムギです。


 紀元前5000年には、パンコムギはヨーロッパで栽培されていました。

最も起源の古い地域として三日月地帯が挙げられます。

メソポタミア文明がイメージしやすいでしょうか。


 紀元前3000年前にはマカロニコムギの栽培も始まっています。


「収穫時期について」


“成熟期は茎葉や穂首が黄化し、穂軸や粒は緑色がぬけ、粒に爪跡が僅かにつき、

ほぼロウ状の硬さに達した粒をつける茎が全穂数の 80%以上に達した時”だそうです。


小麦では出穂後45~50日,大麦では38~43日で成熟期になります。

収穫した実がしっかり乾燥していることが重要です。


収穫は朝つゆがなくなる時間から行い、晴れた日に集中して行います。


水分量が高いと、充実が悪く,乾燥仕上がり時の子実が白っぽくなり、質が悪いとみなされます。


刈り遅れると株抜けしたり、稈や穂軸が折れたり、脱粒しやすくなります。

収穫時期の農家は休むヒマもなく動きまわることになります。




「脱穀と製粉」


コムギは収穫されるとまず脱穀されます。

こきばしと呼ばれる、木に切れ目を入れたものにムギを通すことで、脱穀していたようです。

日本での資料しか見つからなかったのですが、江戸時代中期、元禄時代には、千歯扱きが開発されました。

千歯こきは、台木だいきに、鉄・竹の刃を櫛状くしじょうに並べて固定し、刃と刃のすき間に差し込んで脱穀しました。


足踏式脱穀機という便利なものができたのは大正時代です。


脱穀が終わって粒を手に入れたあとは、粉に挽く必要があります。

人力の石臼からはじまり、ローマ時代には牛馬を使った大型の石臼が見つかっています。


その後は水車小屋で利用されましたが、税金の徴収の関係で、番人は嫌われ者だったようです。

10世紀頃にパン屋ギルドが発足されています。



「収穫倍率について」

その昔、コムギは収穫倍率が非常に低く、分類でも一粒系、二粒系が多く占めます。

収穫後、種籾たねもみを播いて、何粒の収穫が得られるか、というのを“収穫倍率”といいます。


ヨーロッパの小麦は10世紀の時点で3倍が普通でした。

14~15世紀に入っても4~5倍、16~17世紀で6~7倍です。


しかし、これはあくまで穀倉地での話で、滋味の少ない土壌だと1700年になって、1.0倍ということもあります。

蒔いた分しか実がならないなら、くたびれ損ですよね。


話は少し脱線しますが、三国志などを読んで中国の兵数に驚くことはないでしょうか?

当時にどうやって、あれだけの兵を食べさせることができたのでしょうか。


コメは非常に収穫倍率が高く、当時でも5~6倍がすでにあったとされます。

ただし、豊作、凶作の波が大きく、飢饉の可能性が常に付きまとう食物です。

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― 新着の感想 ―
[一言] 参考になりました。ありがとうございます。
[一言] 支那に限らず昔の軍隊は補給より現地調達収奪がメインですよ、農家から人と物資を奪い兵隊にして戦争 広大な土地を移動しての戦争がすぐ終わるでもなく 日本のように農閑期だけ戦争じゃないから田畑が荒…
[一言] 小麦といえば私が思い出すのは、農林10号です。 これは第二次世界大戦終戦時に日本の農林試験場からアメリカに持ちだされた、矮性多収量の品種です。この子孫たちがのちに「奇跡の麦」なんて呼ばれる…
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