ありふれた婚約破棄劇の裏側で、公爵令嬢には何が見えていたのか?
◆side マルクス◆
私、アーレンデ王国の王太子マルクス・アーレンデは、今宵の夜会で婚約破棄を宣言する。
そう決意していた。
*
「アンナ・ハリストン! この時をもって、君との婚約を破棄する!」
夜会当日、王城の広間でアンナと対峙した私は、人々の注目を集めるよう声高らかに宣言した。
会場内がどよめきに包まれる中、アンナは一人だけぽつんと佇んでいる。
ブロンドの髪を高く結い、いつもより少しだけ濃い化粧をしているからか、普段の彼女よりも幾分か大人びて見える。
彼女こそが私の婚約者、アンナ・ハリストン。
有所正しきハリストン公爵家の一人娘である。
私たちの婚約が正式に決まったのは三年前。私が十五の時だ。
それまでのハリストン公爵家の功績を踏まえても、アンナが私の婚約者として選ばれたのは当然の結果と言えた。
アンナは、私と同じ王立魔法学園の生徒で、学年は私よりも一つ下になる。
彼女自身も真面目で才色兼備ではあるのだが、ある致命的な欠点があった。
いや、欠陥とも言えようか。
「……」
私から婚約破棄を突き付けられたのにも拘わらず、アンナは無表情のまま沈黙を貫いている。
そう。これこそがアンナの欠陥。
彼女は、全く表情が変わらないのだ。
婚約者である私でさえ、アンナが笑っている顔を見たことがない。
どんなに甘い言葉を囁いても、煌びやかなドレスや高価なアクセサリーなどを贈ったとしても、彼女は「ありがとうございます」と最低限の礼を口にするだけでニコリともしなかった。
まるで表情筋が凍ってしまったかのように無表情な彼女を見ていると、その心も凍り付いてしまっているのではないかと疑いたくなる。
「婚約破棄されたのに、ハリストン公爵令嬢はショックではないのかしら?」
それまで彼女に対して憐憫の眼差しを向けていた者たちも、そんな彼女の様子に眉を寄せだした。
「こんな時なのに、表情ひとつ変えないなんて……ちょっと不気味よね」
「なんて冷たい女なんだ……。王太子殿下が婚約破棄するのも当然だ」
周囲の反応に、私の傍に付き添っていたメリエルがそっと私に耳打ちする。
「マルクス様。いい感じですね。きっと皆、私たちの味方になってくれるはずです」
伯爵令嬢のメリエルは、学園内で親しくしていた友人の一人で、アンナとは正反対の性格だ。
アンナとの面白みのない会話に辟易していた私は、表情豊かに私の話を聞いてくれるメリエルに幾度となく癒された。
そんな彼女と過ごすうちに、気付けば私はどうしようもなくメリエルに惹かれていた。
婚約者がいるのにも拘わらず、他の女性に特別な感情を抱いてしまう背徳感さえ、私の恋情を激しく掻き立てた。
そんな私の想いを、メリエルは温かく受け入れてくれた。
私たちは人目を盗んでは逢瀬を重ね、互いの愛を確かめ合った。
しかし、この国の王太子である以上、いずれ私はアンナと結婚しなければならない。
いっそ王位継承権など手放してしまおうかとも思ったが、そこはメリエルが冷静に止めてくれた。
代わりに、アンナとの婚約を破棄することを提案されたのだ。
アンナが感情の乏しい冷たい人間だということは学園内でも周知の事実である。
次期王妃としてもアンナのような女性は相応しくないと、私たちの婚約破棄を望む者も多いのだという。
ゆえに、同じ学園の生徒が多く集まるこの夜会で、アンナとの婚約破棄に異論を唱える者は、恐らくいない。
あとは私がいかにメリエルを愛しているかを烈火のごとく熱弁すれば、私の熱心さに胸を打たれた人々の賛同を得られるのではないか。
大衆を味方に付けることさえできれば、国王もきっと私たちの仲を認めてくれるはずだ、と。
この時ばかりは、天使のように見えていたメリエルが小悪魔のように見えた。
だが、そんな彼女のギャップさえ愛おしくて堪らなかった。
メリエルが言っていたように、私たちを取り巻く人々は婚約破棄を宣言した私ではなく、婚約を破棄されたアンナの方に原因があるのだと確信を持ち始めている。
そんな周囲の反応に、私は追い風を背中に受けたような気がした。
――いける……。
そう確信し、拳を固く握りしめた。
この勢いのまま、私がいかにメリエルを愛しているかを熱弁すれば……。
「ゔっ……」
突如、アンナの口から、今まで聞いたことのない声が発せられた。
アンナは口元を両手で覆いながら、まるでショックを受けたかのように、大きく目を見開いてこちらを見ている。
痛みに耐えるように辛そうに眉根を寄せたかと思うと、どこか切なげな瞳にうっすらと涙が滲んだ。
「え……?」
今度は私の口から、素っ頓狂な声が出た。
あのアンナが……表情筋が全く動かないはずのアンナが……そんなあからさまな反応を見せるなんて、全くの想定外だった。
初めて目にする感情を露わにした彼女の姿に、私はその場に立ち尽くした。
――まさか、アンナは……私から婚約を破棄されたことにショックを受けているのか……?
「マルクス様。どうされたのですか? 早く私への愛を、皆さまにお示しください」
焦れたように、メリエルが私に耳打ちする。
だがそんなことよりも、今はアンナの方が重要だった。
さっきからずっと、私とアンナは見つめ合っている。
こんなにも熱心にアンナに見つめられるのは初めてのことで、涙で潤む琥珀色の瞳の美しさに思わずドキリとした。
普段の無表情な彼女と、悲痛な面持ちで目を潤ませる今の姿とのギャップに、私は心を鷲掴みにされていた。
「マルクス様ってば!」
メリエルが私の肩をゆさゆさと揺さぶる。――が、私の目は完全にアンナに釘付けだ。
アンナの体は小刻みに震えており、耐え切れなくなった涙が零れ落ちそうになった瞬間、アンナは素早くハンカチを取り出し、それを口元に押し当て俯いた。
「アンナ……?」
「ううっ……!」
私の呼び掛けに、アンナは俯いたまま辛そうな呻き声を漏らす。
次の瞬間、彼女の鼻先から涙が滴り落ちた。
泣いている。
あのアンナが……涙を流している……。
――なぜだ……? 私のことなんて、全く興味がなかったではないか……。
「マル――」
「ちょっと静かにしてくれ」
速やかにメリエルを黙らせると、私はすぐさまアンナに想いを馳せた。
華奢な体を震わせながら、声を押し殺して泣いている彼女の姿に、私の胸もひどく痛んだ。
私から婚約破棄されたことに、こんなにもアンナは傷ついているのだ。
つまり、それは……。
「アンナ……そんなに私のことを慕ってくれていたのか……?」
アンナは少しだけ顔を持ち上げ、こちらを見る。
「ふぐぅっ」
しかし目が合った瞬間、アンナは押し殺すような苦しげな声を漏らし、凄まじい勢いで私から目を逸らした。
もはや私の顔を見るのも辛いのだろう。
それほどアンナは……私のことを慕ってくれていた、ということだ。
そう理解した途端、切なさに胸が苦しくなった。
――私は、なんて馬鹿な男だ……!
目に見える表情、態度だけで彼女の気持ちを勝手に推し量り、自分には興味がないのだと決めつけた。
まさしく氷の公爵令嬢と呼ばれているだけあって、心が凍り付いた冷酷な女なのだと。
しかし、本当の彼女は、こんなにも傷つきやすく繊細な女性だった。
きっと、そんな心の脆さを誰にも見せないよう、彼女は鉄壁の仮面を被っていただけなのだ。
これまでアンナと共に過ごしてきた日々が頭の中を駆け巡る。
私の目に映る彼女は、いつだって無表情だった。
だが、心の中ではきっと、笑ってくれていたのだろう。
私へのほとばしる想いを胸に秘めながら、一緒に過ごす時間をかけがえのないものとして、彼女は大事にしていたはずだ。
私から婚約破棄され、こんなにも涙を流すほどショックを受けるくらい、アンナは私のことを……。
――それなのに、私は……私は……!
「アンナ!」
私はアンナのもとへ駆けだした。
後方から私を呼び止める声が聞こえたが、きっと気のせいだ。
「近寄らないで!」
アンナの肩に触れようとした瞬間、明確に拒絶された。
彼女はゆっくりと後ずさりながら、私から距離を取る。
「アンナ……」
拒絶されたことに、ズキンッと胸に痛みが走った。
だが、私よりもずっと傷ついているのは彼女の方なのだ。
そして、傷ついてしまった彼女の心を癒せるのも、私しかいない。
身を縮ませながら小さく震える彼女に、私はできる限り優しく声をかけた。
「アンナ、すまない」
「……」
「私が間違えていた。まさか君が、そんなに傷つくなんて思わなかったんだ。君は、私のことなんて興味がないと思っていたから……」
「ふぐっ……」
相変わらず、アンナは深く項垂れ、全くこちらを見ようともしない。
ただ、むせび泣く声は絶えず漏れ聞こえてくる。
意を決した私は、大きく一歩踏み出し、彼女の体を抱き締めた。
「……! 離して!」
思いのほかアンナの力は強く、突き飛ばされた私の体はバランスを崩し、尻餅をつきながら倒れる。
周囲からは悲鳴のような声が上がったが、今はそんなこともどうでもいい。
「アンナ! 私が悪かった! 君がそんなに私のことを好きでいてくれていたなんて思いもしなかったんだ!」
刹那、アンナがハッとしたようにこちらを見た――が、それもすぐに逸らされた。
「もう、私と目も合わせてくれないのか……?」
「……」
「お願いだ、アンナ。少しでもいいから、もう一度私を見てくれ!」
「うっ……ふううっ……!」
アンナは必死に声を押し殺しながら、悲しみに耐え続けている。
こんな状態になってまで、公爵令嬢としての矜持を保とうというのか。
――なんて健気なんだ……。
もう一度、ちゃんとアンナと向き合いたい。
そう思うのに、彼女は少しも私を見ようとしてくれない。
もう、私たちは無理なのだろうか……?
せっかくアンナの本当の気持ちを知れたというのに……。
――嫌だ……。このまま終わるなんて、絶対に嫌だ!
「アンナ! 君と話がしたい! きっと私と君とでは、見えている景色が違っていたんだ! だからもう一度、本音を交えて話しをしよう! そして今度こそ、ちゃんと互いの気持ちの擦り合わせを――」
「もう無理!」
絶叫するような声を上げながら、アンナは一目散に出口へと駆け出した。
「アンナ!」
「ちょっと待って!」
アンナを追いかけようとした矢先、腕を掴まれ引き止められる。
振り返ると、メリエルが顔を真っ赤にして私を睨んでいた。
「なんでさっきから私を無視するのよ! あの女のことなんてどうでもよかったのでしょう!? どうして追いかけようとしてるのよ!」
――どうして……? 理由なんて一つしかないだろうが……!
「私は、アンナが好きだ!」
「は?」
「アンナを愛してるんだ!」
「はぁ!? さっきまで私のことを愛してるって言ってたじゃない!」
「ああ、そうだ! 愛していた! だがもう過去形だ!」
「なんですって!?」
「今はもう、アンナのことしか考えられない!」
「何それ……最低!」
メリエルの瞳に涙が浮かぶ。
だが、アンナの涙の美しさには到底及ばない。
「そうだ……私は最低な人間だ! だから今からアンナを追いかける!」
「てめぇ開き直ってんじゃねえよ!」
突如、メリエルは鬼のような形相へと変貌した。
普段とのギャップに弱い私も、さすがにこれは無理だ。
中指を突き立てる女から目を背け、私はすぐさま会場を飛び出した。
すまない。婚約破棄なんて、私が間違えていた。だからやり直そう。
私も、ずっと君を愛していたんだ。気付くのが遅くなって本当にすまない。
アンナを追いかけながら、彼女へ伝える言葉を探し続けた。
――頼む……間に合ってくれ……!
祈るような気持ちで足の裏に力を込め、めいっぱい地を蹴った。
外へ出ると、アンナは馬車に乗ろうとしていた。
「アンナ!」
力の限り叫んだが、アンナは私に気付かない。
――まだ間に合う!
残りの力を振り絞り、速度を上げようとした途端、何かに躓いた私の体は宙に弾かれ、そのまま顔から地面に突っ伏した。
地にへばりつく私の耳元で、馬車が出発する音がした。
私はどうにか体を起き上がらせたが、すでにアンナを乗せた馬車は走り出していた。
「アンナーーーー!!!」
込み上げる虚しさも、後悔も、悲しみも、アンナへの愛おしさも……全ての感情を吐き出すように、私は叫んだ。
そんな私を一人取り残し、馬車は軽快な足音を奏でながら遠ざかっていく。
「うっ……ううっ……」
あらゆる感情に打ちのめされて、私は泣いた。
熱く火照った私の頬に、冷たい夜風が何度も吹き付ける。
遠くで聞こえるざわめきが、愚かな私を嘲笑っているようだ。
それでも、私の胸を熱くさせているアンナへの愛は、今も烈火のごとく激しく燃えている。
――まだだ。まだ、諦めるわけにはいかない。
なぜなら私はまだ、この迸る想いをアンナに伝えられていないのだから。
――そうだ。明日、アンナに告白しよう。
すっかり小さくなった馬車の背を見つめながら、私はそう決心した。
◆side アンナ◆
私、アンナ・ハリストンは、今宵の夜会で婚約破棄されるらしい。
そんな噂を耳にした。
*
「アンナ・ハリストン! この時をもって、君との婚約を破棄する!」
噂通り、私は夜会の会場で、婚約者のマルクス様から婚約破棄された。
シャンデリアの灯りを浴びた銀色の髪はキラキラと煌めき、群青色の瞳が鋭く私を睨みつける。
こうなることを分かっていたとはいえ、三年間婚約していた相手から、面と向かって婚約破棄を突き付けられたのだ。
傷つかないはずがない。
四方八方から注がれる憐憫の眼差しさえも、私の心を確実に抉ってくる。
「……」
けれど、こんな時でさえ、私の顔はぴくりとも動かない。
婚約破棄された悲しみも、一方的にそれを決めてしまったマルクス様への怒りもあるのに……その感情を表に出すことができないのだ。
「婚約破棄されたのに、ハリストン公爵令嬢はショックではないのかしら?」
無表情のまま立ち尽くしている私を見て、周りの人たちはひそひそと話し出す。
騒めきの中から、クスクスと笑う声が混じって聞こえた。
「さすが氷の公爵令嬢ね。やっぱり感情が凍り付いてしまっているのかしら?」
氷の公爵令嬢――そんな風に自分が揶揄されているのは知っていた。
けれど、無表情のままそれを否定したところで、信じてもらえるはずがない。
人は言葉だけでなく、表情や態度も含めて相手の本質を見抜こうとするのだから。
――そうよ……。こんな愛想のない女なんて、婚約破棄されて当然じゃない。
これでも幼い頃は、人一倍感情豊かでよく笑う子供だった。
けれど、公爵令嬢としての教養が始まってからは、人前では極力、感情を表に出さないことを厳しく指導された。
声を上げて笑うなんてもってのほか。どんなに悲しくても、どんな理不尽に見舞われようとも、何でもないような顔をしていなければならない。
それこそが公爵令嬢に必要な品格なのだと。
感情が表情に直結していた私は、声を上げて笑うたび、「はしたない」と何度も叱責された。
笑ってはいけない。笑ったら叱られる。
そうやって、最初は意識して感情を表に出さないようにしていた。
けれど、何度もそうしているうち、人前に出ると、自然と無表情になるようになっていた。
どんなに楽しくても、嬉しくても、悲しくても、怒りたくても、表情が動かないのだ。
だけど、だからといって感情がなくなったわけではないし、凍り付いたわけでもない。
婚約者からの甘い言葉も、私のために選んでくれた贈り物も、全て嬉しかった。
「ありがとうございます」と、感謝だって告げた。
けれど、それだけじゃ伝わらなかった。
表情と態度が伴っていなければ、本当に伝えたい想いを伝えることはできないのだ。
マルクス様の隣では、淑女の微笑みを浮かべるメリエルが寄り添っている。
最近、マルクス様は彼女と二人でいることが多い。
学園内で見かけるたび、いつも二人は楽しそうに笑っていた。
メリエルのように、私も笑うことができていたのなら、婚約を破棄されるなんてこともなかったのかもしれない。
「こんな時なのに、表情ひとつ変えないなんて……ちょっと不気味ね」
「なんて冷たい女だ……。王太子殿下が婚約を破棄するのも当然だ」
婚約破棄されたのは私の方なのに、マルクス様の方が同情されている。
私の味方をしてくれる人も、ここにはいない。
――涙のひとつでも流すことができたなら、少しは同情してくれる人がいたかもしれないわね……。
そんな自分を想像すれば、「はしたない」と私を叱責する両親の声が頭に響く。
この婚約のために、公爵令嬢としての品格を身に付けたというのに……それが原因で婚約破棄されるなんて……両親が知ったら、いったいどんな顔をするだろうか。
――もう、今更どうすることもできないのだから……素直に婚約破棄を受け入れて、帰ろう。
マルクス様は、まだ何か言いたいことがあるみたいだけれど、今は一刻も早くこの場から立ち去りたい。
私は波打つ感情を鎮めるよう、深く息を吐きながらゆっくりと目を伏せる。
意を決し、顔を上げようとしたその時――。
フワッと、私の体が温かな風に包まれた。
――え……?
それはほんの一瞬の出来事で、今はその感覚は消えてしまった。
――気のせい……かしら?
初めて経験する不思議な感覚だったけれど、きっと婚約破棄のショックもあって、心身共に疲れてしまっているのだろう。
そう納得し、顔を上げ――マルクス様の顔を見た途端、思わず噴き出しかけた。
「ゔっ……」
咄嗟に口を塞いで無理やり抑え込んだため、淑女としてあるまじき声が出た。
けれど、今は公爵令嬢としての品格だとか、そんなものを気にしていられる余裕はない。
――え……え……?
目の前の光景に、私はただただ混乱した。
分からない。いったい何がどうしてこうなっているのか。
今すぐ誰かに問いたい。
なんで……なんで……!
――なんでマルクス様のお顔が、豚になってるの!?!?
心の中でそんな叫び声を上げる自分にも可笑しくて、今にも噴き出しそうになる声を必死に抑え込んだ。
――なんで……豚なの……?
意味が分からなすぎて、じわりじわりと笑いが込み上げる。
けれど、こんな大衆の目前で笑い声を上げるなんて醜態を晒すわけにはいかない。
これでもかというほど口に手を押し当て、必死に息を止めて笑いを押し殺す。
けれど、噴水の如く噴き出しそうになる笑いは爆発寸前である。
押し寄せる笑いとの攻防戦を繰り広げる中、目尻に涙が滲んだ。
「フゴォ……?」
――!?
まさかの、声まで豚。声まで豚だ。
しかも、すごく切ない鳴き声だった。
再び笑いの大波に襲われるも、ギリギリのところでどうにか耐える。
私は公爵令嬢としての品格を総動員し、笑うのを必死に堪えながら、マルクス様(豚)を観察した。
黒々とした大きな二つの鼻の穴がピクピクと揺れている。
その奥で、つぶらな瞳がジッとこちらを見つめて……駄目だ。とても見ていられない。やっぱり笑ってしまう。
私はマルクス様から目を逸らし――再び噴き出しかけた。
なんと、メリエルの顔まで豚になっていたのだ。
「ブピィィィッ!」
何やら怒っているらしい豚の顔をしたメリエルが豚の顔をしたマルクス様をゆさゆさと揺さぶっている。
よく見れば、顔だけでなく、手まで豚の手になっていた。
フゴフゴッというメリエルの鼻息が微かに聞こえてくる。
私は咄嗟にハンカチを取り出し、口元に押し当て深く俯いた。
これは駄目だ。面白過ぎる。
完全に笑いのツボにはまってしまった。
――ふっふふふ……ふふふふふふっ。
ハンカチで口元を覆い隠し、声だけは必死に押し殺しながら私は笑った。
腹筋が変な痙攣を起こし、私の体が小刻みに震える。
痛い。腹筋、痛い。痛い。苦しい……ふっふふふっ……。
「フゴォ……?」
「ううっ……!」
再び、切さを孕んだ鳴き声が聞こえ、今度こそ噴き出すかと思った。
なんでこんなに笑えてしまうのか、自分でもよく分からない。
ただ、あんなにも動かなかった私の表情筋がめちゃくちゃ笑顔になっている。
それを誰にも見られないよう、思いっきり前かがみになって顔を伏せた。
――……っていうか、どうして誰も何も言わないの!?
突然、二人の顔が豚になってしまったというのに、どうして皆冷静でいられるのか。
私は俯いたまま、ほんの少しだけ周囲の様子を伺い――絶望した。
「グフッ……?」
「フゴフゴ……」
「フガッ……フゴフゥ」
――なんで皆まで豚になっているのよ!?
再び強烈な笑いの波に襲われ、腹筋に致命的なダメージを受けた。
見渡す限り、豚、豚、豚……。
体はかろうじて人のそれではあるけれど、二足歩行の豚がドレスや正装を纏って連なっているなんて、視界が凶悪すぎる。
あちこちから豚の鳴き声が聞こえる状況に、目を閉じれば、まるで養豚場に放り込まれてしまったような気分になった。
――豚の鳴き声にも個性があるのね……。
そう密かに感心する。
だからといって、笑いがおさまるわけではない。
笑い声だけはどうにか噛み殺すも、堪えきれなくなった涙が鼻先を伝って零れ落ちた。
泣くほど笑うなんて、いったい何年ぶりだろうか。
「フゴォ……フゴフゴフゴォ……?」
庇護欲を掻き立てられる鳴き声に、私は思わず顔を上げてしまう。
「ふぐぅっ」
すぐに後悔した。
そこには切なげにこちらを見つめる豚がいた。
私は即刻目を逸らした。
――……なんて可愛いの!
思い出した。
私は昔から、可愛いものを見ると、笑ってしまうのだ。
そうと分かれば、可愛い豚になってしまったマルクス様を見ることはできない。
見てしまったら、間違いなく笑ってしまう。
「フゴォ!」
突如、前方から気合の入った鳴き声がした。
嫌な予感がした。
フゴッフゴッと鼻息を鳴らしながらマルクス様が近付いてくる……!
次の瞬間、視界の端に豚の手が伸びてきた。
「近寄らないで!」
笑い声が出てしまわないよう、かつ腹に力を込めて叫んだ。
さすがに至近距離は危険すぎる。
少しでも離れなければと、私はゆっくりと後ずさる。
「フゴォ……」
また、切ない鳴き声が聞こえた。
「フゴフゴォ……」
――やめて……その鳴き声……可愛すぎるのよ……。
「ふぐっ……」
――あ……今の私の声、ちょっと豚っぽかったわ……。
思わぬ自爆に、再び腹がよじれる。
「フゴォ……フゴフゴフゴフゴッフゴォィッ。フゴフゴォィッ。フゴフゴ……フゴォォ……」
マルクス様が何か喋っている。
本当にもうやめてほしい。
このままでは笑い死んでしまう。
いや……もしかしたら、彼は本当に私を笑い殺そうとしているのかもしれない。
笑うのを我慢し過ぎたせいか、もはや思考までおかしくなってしまっている。
死ぬ気で笑い声を抑え込んでいるのに、抑え込めなかった声が僅かに漏れ出てしまう。
いっそのこと、この場で思いっきり笑い転げることができたらどんなに楽だろうか。
その時、急に体を抱き締められた。
服装からして、マルクス様だ。
艶めくピンク色の豚鼻が、目の前でヒクヒクと動いている。
生暖かい鼻息が頬に触れ、ちょっとだけ……獣臭い。
「……! 離して!」
思わず渾身の力で突き飛ばすと、「フゴァッ」と苦しそうな鳴き声を上げてマルクス様が転がった。
――あっ……ごめんなさい!
謝りたいけれど、今、口を開いたら謝罪よりも先に爆笑してしまう。
「アンナ! 私が悪かった! 君がそんなに私のことを好きでいてくれていたなんて思いもしなかったんだ!」
――……え?
間違いない。マルクス様の声だ。
私は思わずマルクス様を見た――が、そこには相変わらず豚がいた。
――騙し討ちやめて!
すぐさま目を逸らし、ハンカチを顔面に押し当てる。
完全に油断した。てっきり人間に戻ってるのかと思ったら豚だった。
罠だ。これは反則すぎる。
なんでこんなことするの……? ねえ、なんで……?
……んふっ……ふふふっふふふふふふ。
「もう、私と目も合わせてくれないのか……?」
――そんなこと言って、もう騙されないわ……。絶対に見ないから!
「お願いだ、アンナ。少しでもいいから、もう一度私を見てくれ!」
――無理に決まってるじゃない! だって……あなた豚なんだもん!
「うっ……ふぅぅっ……!」
もう腹筋が崩壊寸前だ。
今すぐにでも、ここから立ち去らないと大変なことになってしまう……!
「フゴォ! フゴッフゴフゴォ!」
それなのに、瀕死寸前の私を更に追い打ちをかけるように、マルクス様の声が豚に戻る。
「フゴフゴフゴフゴフゴォフゴフゴフガッフゴフゴフゴフゴフゴォ! フゴフゴォ、フゴォフゴフゴフゴフゴフゴォ! フゴフゴフゴフゴォフゴフゴフガフゴフゴフゴォ……」
――何言ってるか全然分かんないわよ!!!
「もう無理!」
もはや我慢の限界だった。
私は一目散に駆け出し、会場を飛び出した。
後方から何やら豚が揉めている鳴き声がしたけれど、完全に無視した。
脇目も振らず、ただひたすらに走り続ける。
すれ違う人々が豚なのか、確認するのも怖かった。
外へ出ると、まるで私を待ちかねていたかのように、公爵家の家紋が掲げられた馬車が止まっていた。
「アンナ様、お帰りですか?」
御者とおぼしき男性が私に声を掛けてくる。
私は男性の顔を見ないようにしながら、大きく頷いて馬車の中に駆け込んだ。
間もなくして馬車は出発した。
それを皮切りに、私はついに自分の全てを解放した。
「あーっははははははは!!!! なんで……なんでみんな豚なのよーーーーーー!!!」
腹の底から笑い声を吐き出し、床にずり落ちるのも構わず、座面に突っ伏しながらバンバンと叩いて大いに笑う。
「なんなのよあれ! 可愛すぎるでしょ! ふふっ……あんなの反則に決まってるじゃない! ふふっ…! あははははは!!! 苦しいー! お……お腹痛い! 腹筋死ぬーwww」
公爵令嬢の品格とは、うんぬんかんぬんうんぬんかんぬん。
耳の奥で、公爵令嬢の品格を諭そうとする声が何か言っている。
けれど、それもすぐに私の笑い声によって掻き消された。
ドレスが汚れるのも構わず、床をゴロゴロと転がりながら笑い転げる。
もしかしたら、御者にまで私の笑い声が聞こえているかもしれない。
けれど、もはやそれもどうでもよくなるくらい可笑しくて堪らなかった。
「はぁーーー……おっかし……。なんだか一生分笑った気がするわ……」
散々、笑いに笑いまくった私は、ハンカチで涙を拭きながら座り直した。
――あ……。そういえば私、婚約破棄されたんだったわ。
そんなことさえ、今まですっかり忘れていた。
今日はきっと、人生最悪の日になるだろうと思っていたのに、あんなにも鬱々としていた気持ちが、今は嘘のように晴れやかだ。
マルクス様に対しても……ふふふふふっ。
駄目だ。今、マルクス様のことを考えると、どうしても豚の顔しか出てこない。
お腹の底から笑っていると、何もかもがどうでもよくなってくる。
今はただ、愉快な豚たちとの夜会の余韻に浸っていたい。
「あー楽しかった」
それからも、公爵邸に着くまでの間、なんとも愛らしい豚たちのお顔を思い出してはお腹を抱えて笑った。
公爵邸で私を出迎えてくれた使用人は、豚ではなく、ちゃんとした人の顔をしていた。
そのことに心底ホッとしたものの、笑い過ぎたせいで私の表情筋は緩みっぱなしだった。
こんな私を見れば、また両親から叱責される。
そう覚悟していたけれど、笑顔の私を見た両親は、怒るどころか、むしろ安堵したように涙を滲ませた。
どうやら二人は、私に厳しくしすぎたせいで笑わなくなってしまったと、ずっと後悔していたらしい。
けれど、今更その教育を否定することもできず、笑わない娘を見ては罪悪感を募らせていたという。
もう、感情を表に出すことを我慢しなくていい。
失ってしまった笑顔の分も、これからはたくさん笑ってほしいのだと。
そう両親から言われた途端、これまで私を縛り付けていた戒めのようなものが解け、心が軽くなった気がした。
その後、私は夜会での出来事を全て両親に話した。
マルクス様から婚約破棄されたことについては、他の女性に現を抜かし、一方的に婚約破棄を突き付けてきたマルクス様に非があるとして、お父様が国王陛下に直接抗議すると言い出した。
けれど、私にとってマルクス様はもはや豚にしか見えないし、大いに笑ったおかげで傷心の傷もすっかり癒えている。
私が晴れやかな顔で婚約破棄を受け入れたいと言うと、二人は驚きつつも、快く賛同してくれた。
そして今後の私の婚約相手については、お互いに話し合いながらゆっくり考えようということになった。
それから、なぜか突然、皆の顔が豚になったことについても話をした。
とても信じ難い話なのに、二人は私の話を真剣に聞いてくれた。
「そういえば昔、自分以外の人間が全て豚に見える魔法を、何かの本で見た気がするな……」
お父様は昔、魔法の研究に携わっていたのもあって、思い当たる節があるらしい。
「まあ……。そんな馬鹿げた魔法、いったい何に使うのよ?」
「昔から魔法使いには変わり者が多いからな……。実用的なものより、悪戯にしか使えないような魔法が多いんだ。しかし、許可なく人に魔法を使うのは禁止されている。そもそも魔法を使える人間も稀少だというのに、いったい何の目的でアンナにそんな魔法を……?」
二人は、私が知らないままに魔法をかけられたことに対して憤慨しているようだけれど、むしろ私は、魔法をかけてくれた人に感謝していた。
婚約破棄を笑って受け流せたのも、こんな風に両親と打ち解けられたのも、全てはその魔法のおかげなのだから。
「アンナ。一度魔塔へ行って、本当に魔法をかけられた形跡があるかを診てもらうといい。本人の許可なく魔法をかけられたとなれば問題だからな」
魔塔とは、私が通う王立魔法学園の隅にある塔で、そこには数名の魔法使いが在籍しており、日々魔法の研究をしているという。
魔力を持っていない私は、魔法を使えない。だから、魔塔にも行ったことはなかった。
けれど、もしも会えるのなら、会ってみたいと思った。
こんな素敵な魔法を私にかけてくれた人に。
――魔塔に行けば、誰が何の目的で私に魔法をかけたのかも分かるのかしら……?
そんな期待に胸を膨らませながら、私は明日、魔塔へ行くことを決意した。
◆side ヨアン◆
夜会で婚約破棄を宣言した王太子が、翌朝、婚約者に復縁を迫り、盛大に振られたらしい。
ははっ。ざまあみろ。
*
夜会が開催されるおよそ一ヶ月前――。
俺は、人生最大の危機に見舞われていた。
「ウゴッ! ウゴォッ!」
その日、俺は訳あって豚の姿をしていた。
と言っても、二足歩行の豚人間ではない。
四足歩行のまごうことなき豚だ。
そんな俺の右前足は、森に仕掛けられていた狩猟用の罠に捕らえられていた。
必死に助けを呼ぶ声も、湿った獣の鳴き声として虚しくこだまする。
――くそっ! これも全部アイツのせいだ!
行き場のない怒りは、俺をこんな姿に変えた元凶、ニコラスへと向かう。
ニコラスと俺は、王立魔法学園に通う生徒で、魔塔で一緒に魔法の研究をする仲でもある。
遥か昔では、多くの人間が魔法を使えていたのだが、時代の流れと共に魔力を持って生まれる人間が激減し、近代では魔法の力はすっかり衰退した。
国内で魔法の研究をしている学生がいるのも、今はこの王立魔法学園くらいだ。
魔法学園という名称も昔の名残でしかなく、実際に魔法を使える学生はほんの僅かしかいない。
俺と同じ魔法使いのニコラスは、一枚扉を通るのがやっとというほどのぽっちゃり体系で、はっきり言ってデブだ。
更には無類の女好きで、好みの女性を見つけるたび魔法で容姿を変えてナンパしている、言わばクズだ。
事の発端は、そんなニコラスが半年間付き合っていた恋人に振られたことだった。
「あの女! どんな僕でも好きだって言ったのに……本当の僕の姿を見た途端、こんな豚野郎だなんて思わなかったって、俺を振りやがったんだ!」
ニコラスは、魔法で容姿を偽って口説くくせに、いざ女性に対して本気になると、本当の自分を好きになってほしくて魔法を解いてしまう。
そして振られる。この繰り返しだ。
「どいつもこいつも……そんなに見た目が大事かよ!」
「お前の場合、見た目よりも性格に難ありだと思うが」
そもそも見た目を偽って口説いた時点で、向こうからしたら詐欺に引っかかったも当然だ。
どう考えても被害者は相手の方だろう。
「うるせえ! 容姿に恵まれたお前に、俺の気持ちが分かるかよ!」
「別に。知りたくもないな」
もはやニコラスの相手をするのも面倒で、俺は適当に話を受け流そうとしていた。
そのせいで、ニコラスから滲み出る不穏な魔力の気配に気付けなかった。
急に静かになったと思ったら、突如、俺の身体はニコラスの魔力に包まれた。
「!?」
次の瞬間、俺の身体は眩い光を放ちながら豚へと変貌を遂げた。
啞然とする豚の俺を、勝ち誇ったような笑みを浮かべたニコラスが見下ろしていた。
「ぷっ……くはははははは!!! これでお前も僕と同じ豚の仲間入りだ! その姿なら少しは僕の気持ちが分かるだろう! ははは! やーい! 顔だけが取り柄の根暗野郎が、ざまあみろってんだ!」
そんな最低な捨て台詞を言い放ち、ニコラスはでかい胴体を揺らしながら走り去った。
一人魔塔に取り残された俺は途方に暮れた。
ニコラスも大概だが、魔法使いには変わり者が多い。
他の奴らが豚の姿の俺を見たら、嬉々として俺を研究材料にするに違いない。
俺はすぐさま魔塔を飛び出し、人目を避けるように裏手にある森の中に駆け込んだ。
――が、しばらく進んだ先で、どこぞの誰かが仕掛けた罠に引っかかってしまったのだ。
鋸歯状の刃は、俺の前足の皮膚にしっかりと食い込んでおり、無理に引き剥がそうとすれば皮膚が抉られる。
仕方なく声を上げて助けを求めてみたものの、誰も来る気配はない。
――……いや……待てよ……。
豚が罠にかかっているのを見れば、その人間が思いつく先は一つしかない。
間違いなく、俺は豚肉として食われる。
最悪の結末を想像し、ブワッと全身から冷汗が噴き出した。
そうとなれば、今は身を潜めて魔法が解けるのを待つしかない。
そう思った矢先、背後から人の気配がした。
――まさか……罠を仕掛けた奴か!?
咄嗟に振り返ると、目の前に現れたのは予想外にも女性だった
「え? 豚……?」
王立学園の制服を着た女子生徒。
その顔には見覚えがあった。
氷の公爵令嬢――そう陰で呼ばれているこの女性は、アンナ・ハリストン公爵令嬢だ。
なんでも感情が凍りついてるから笑わないんだとか。
以前、彼女を見かけたニコラスが「俺だったら、あれだけの美人なら笑わなくても構わないけどな」と、にやけながら言っていた。
そんな奴が「そんなに見かけが大事かよ!」などとほざいているのだから世も末である。
その氷の公爵令嬢はというと、頬に手を当てながら俺をじっと見ている。
「野生の豚なんて、珍しいわね……。それか、誰かが飼っている豚が逃げたのかしら?」
相変わらずの無表情でしばらく俺の様子を見ていたアンナ嬢だったが、ふいにその瞳が弧を描いた。
「ふふっ……可愛い」
「……!」
初めて見た彼女の笑顔に、不覚にも心臓が跳ねた。
いつもの無愛想な顔からは想像できないほど、クスクスとあどけなく笑う彼女を前に、罠にかかったことも忘れて見惚れてしまった。
すると、アンナ嬢は俺の右足に挟まっている罠に気づいたらしく、すぐに笑いを引っ込め慌て出した。
「大変! すぐに取ってあげるわ!」
アンナ嬢の手によって、俺は無事、罠から抜け出すことができた。
右足からは血が滲んでおり、それを見た彼女は俺を川の方へと誘った。
素直に応じる俺を見て、「人の言葉を理解しているなんてお利口さんね……。やっぱり誰かに飼われていたのかしら?」と不思議そうにしていた。
川で傷口を清めると、アンナ嬢はハンカチを取り出し、俺の右前足に巻き付けた。
「これで応急処置はできたと思うけれど、家に帰ったら、ちゃんと診てもらってね」
「ウゴッ……」
俺の返事に、彼女は思いきり噴き出した。
「ふふっ……! あ……ごめんなさい。あまりにも可愛い鳴き声だったから……」
――……いや、可愛いのはあんたの方だろ……。
まるで無邪気な少女のように、快活な笑顔を見せるアンナ嬢の前で、俺はどうしていいか分からなくなっていた。
ただ、「ウゴッウゴッ」と鳴き声をあげるたびに彼女はお腹を抱えて笑った。
今だけは、自分がただの豚であることに感謝したい。
「はあ……。こんなに笑ったのなんて久しぶり……。人前では笑えないけれど、あなたが豚で本当に良かったわ」
そう言うアンナ嬢の顔が、僅かに陰る。
人前で笑えない――その理由は分からないが、今、俺の前で笑っている彼女の姿が、きっと本来の姿なのだろう。
――誰だ……。感情が凍っているなんて言った奴は……。
感情が凍りついた人間が、罠にかかった身元の分からない豚を助けるだろうか。
傷を負った豚の手当てをして、こんな風に気さくに話しかけてくれるだろうか。
いや――彼女は人一倍明るくて、とても優しい女性だ。
きっと、この学園で彼女の笑顔を知るのは俺だけだろう。
そう思うと、ちょっとした優越感を得られた。
その時だった。
急に俺の身体が発光し始めた。
「え……?」
アンナ嬢が目を丸くして俺を見る。
――あ……まずい……!
そう思った時にはすでに手遅れだった。
光が消えると同時に、俺の身体は人間に戻っていた。
当然、裸である。
啞然とした顔でこちらを凝視するアンナ嬢を、俺はすぐさま魔法で眠らせた。
そして、ここで俺と出会った時からの記憶を全て消した。
相手に許可なく魔法を使うのは禁止されているが、一刻も早く彼女の頭から不快な記憶を消し去りたかった。
これはアンナ嬢にトラウマを植え付けないためであり、俺の人としての尊厳を守るために必要不可欠な処置でもあった。
その後、服を確保した俺は、アンナ嬢を安全な場所へ移し、魔法を解いた。
目を覚ました彼女は少し不思議そうに辺りを見回していたが、やがて何事もなかったかのように去っていった。
そんな彼女を少しだけ名残惜しく思いながら見送った後、俺は気持ちを切り替えた。
「さて……と」
次に俺がするべきことはすでに決まっている。
当然、ニコラスへの復讐だ。
俺はその日、古代の魔法書が保管されている書庫に籠もり、奴への復讐に最も相応しい魔法を習得した。
ニコラスへの復讐は成功した。
魔法をかけられたニコラスは数日後、俺の前にひれ伏し、泣きながら魔法の解呪を求めたのだった。
それから一ヶ月後――。
「今度の夜会で、マルクス王太子が婚約破棄するらしい」
その噂は、俺の耳にも入ってきた。
――マルクス王太子の婚約者って……まさか、アンナ嬢のことか……?
噂の真相を知るべく、俺はマルクスの動向を探った。
そして、奴がひとけのない場所で別の女とイチャついている現場を目撃したのだ。
ニコラス以上のクズ男に、俺は激しい憤りを覚えた。
だが、次の瞬間には婚約破棄されて悲しみに暮れるアンナ嬢の顔が過り、胸がきつく締め付けられた。
あんなクズのせいで、彼女が大勢の人の前で恥をかかされ、傷つくなんて許せない。
あれほど明るく笑っていた彼女が、心から笑えなくなるのは絶対に駄目だ。
じゃあ、いったいどうすれば、彼女の笑顔を守ることができるのか……。
何の繋がりもない俺が、できることなんて何も――。
「あ……」
あったのだ。ひとつだけ。
俺にできることが。
彼女を唯一笑顔にさせることができるであろう魔法を、俺は知っていた。
◇
「おい! ヨアン! 聞いたか!? 昨夜の夜会で、あの氷の公爵令嬢がマルクス王太子から婚約破棄されて、今朝、そのマルクス王太子が婚約破棄を取り消したいって迫ったらしいんだよ! それを公爵令嬢が満面の笑顔で断ったんだとよ!」
「へー」
俺はいかにも興味が無いふりをしながら、ニコラスの話を受け流したが、その情報は俺の耳にも入ってきていた。
婚約破棄についてはもちろんのこと、これまで笑った顔を見せたことのなかったアンナ嬢が、急によく笑うようになったことも含めて、今朝から学園内ではアンナ嬢とマルクスの話題で持ちきりだ。
――そうか……。笑うようになったのか……。
人前で笑うようになった理由はよく分からないが、あの可憐な笑顔を俺以外の人間も見たのかと思うと、少々複雑な気分だった。
――まあ……彼女にとっては良い変化なのかもな。
はなから俺と彼女では、住んでいる世界が違ったのだ。
この先、もう二度と俺と彼女が関わりを持つことはないだろう。
すると、カランカランと、入口の呼び鈴が鳴った。
珍しい。来客だ。
「ヨアン。お前が出ろ」
「嫌だ」
「お前もいい加減、そのコミュ障をどうにかしろ!」
「嫌だ。ニコラスが出ればいいだろ」
来客の対応を押し付け合っていると、入口の扉が開いた。
「あの……どなたかいらっしゃいますか?」
「え!? 氷……じゃなくて、ハリストン公爵令嬢!?」
遠慮がちに顔を覗かせたアンナ嬢を見るなり、ニコラスが慌てふためきながら椅子を蹴倒し立ち上がった。
「こ、ここここんな場所にお越しになられるなんて……ど、ど、どう、どうかなされましたか?」
ニコラスがどもりながら応対する。
自分の容姿にコンプレックスのあるニコラスは、素の姿では女性とまともに話すことすらできない。
そういう俺も、女性と話すのは苦手なのだが、それ以上に、突然現れたアンナ嬢に激しく動揺していた。
「魔法のことで、少しお尋ねしたいことがありまして……」
ニコラスはぎこちない動作でアンナ嬢を中に招き入れ、魔法で浄化した椅子に彼女を座らせた。
俺は俯いたまま軽く会釈をしただけで、すぐに作業用の机に向き合うと、二人の会話に耳をそばだてながら魔石を磨くふりをする。
アンナ嬢はニコラスに、昨夜の夜会で自分の身に起きた出来事を打ち明けていた。
「皆の顔が、豚に……ですか?」
「はい、豚に……」
直後、ニコラスが物凄い形相で俺を見た。
「ヨアン! お前っ……俺にかけた魔法を、ハリストン公爵令嬢にも使ったのか!?」
「え……?」
「……」
俺は聞こえないふりをしながら、手元にある魔石をひたすらに磨き続けた。
ニコラスへの復讐として選んだ魔法。
それは、目に映る人間全てが豚に見える魔法だった。
人は見た目ではないと豪語するニコラスにとって、考えを改めるいい薬になるだろうと思ったからだ。
結果、新たに口説き落とした女性が豚にしか見えなくなり、ニコラスはその女性から逃げ出した。
そして、どこを見ても豚しかいない状況に耐え切れなくなり、俺に泣きついてきたのだ。
それ以来、見た目の重要性を再認識したニコラスは、ダイエットにも真剣に取り組むようになった。
「おい! 聞こえないふりすんな! あんなふざけた魔法、使えるのはお前くらいしかいないだろ! お前、ハリストン公爵令嬢になんてことしてんだよ!」
「……」
ニコラスの言う通り、俺はとんでもないことをしてしまった。
いくら彼女を助けたかったとはいえ、こんな勝手なことをして許されるはずがない。
アンナ嬢から、彼女の父親であるハリストン公爵にこの話が伝われば、俺は同意もなく人に魔法を使用した罪で投獄されるだろう。
「もしかして、あなたが私に、その……皆が豚に見えるという魔法をかけたのですか?」
アンナ嬢から問われ、さすがに無視することはできなかった。
俺は顔を上げて彼女と向き合う。
「……はい。私が……魔法をかけました……」
正直に白状すると、彼女は更に質問を重ねた。
「どうしてそのような魔法を私にかけたのですか?」
……それは、罠にかかった俺を助け、傷の手当てをしてくれた恩を返したかったから……。
しかし、それらも全て彼女の記憶から消している。
俺が記憶を操作する魔法を使えるのは、ニコラスにすら秘密にしていることで、誰にも知られてはいけない、禁忌の魔法だ。
黙り込む俺を、アンナ嬢は静かに見つめている。
俺は、恩返しとは別の、もう一つの想いを打ち明けた。
「あなたに……少しでも笑ってほしいと……思って……」
豚の俺を見て、アンナ嬢は可愛いと言って笑った。
人前では笑えない。だが、豚である俺の前では笑うことができたのだ。
だから、いっそのこと周りの人間全てが豚に見えさえすれば、彼女も思いのままに笑うことができるんじゃないかと思った。
婚約破棄の辛さも笑い飛ばせるくらい、彼女に笑ってほしかった。
結果的に、その魔法は俺の想像をはるかに上回るほどの効果を彼女にもたらした。
まるで婚約破棄のことなどすっかり忘れてしまったかのように、アンナ嬢は笑いに笑っていた。
と言っても、それを決して表に出さないよう、必死に我慢していたようだが。
やがて笑いを堪えきれなくなり、会場を飛び出したアンナを見て、俺は即座に公爵家の馬車の御者にアンナ嬢が帰ろうとしていることを伝えた。
ついでにアンナ嬢の後を追いかけていたマルクスを転ばせておいた。
走り去る馬車から聞こえてくるアンナの笑い声を聞きながら、俺は自分の作戦が成功したことを確信した。
――が、それとこれとは別だ。
俺が規則を破り、アンナ嬢に魔法をかけたことに変わりはない。
俺は立ち上がり、彼女の前で膝をついた。
「勝手なことをして、本当に申し訳ございませんでした」
「え? あ、待って! 違うの! あなたは何も悪くなくて……むしろ私はあなたに感謝をしているの!」
謝罪する俺を見て、アンナ嬢は慌てた声を上げる。
俺は顔を上げ、アンナ嬢を見上げた。
少し高い位置から俺を見ていた彼女は、俺と目が合うと、あの時に見た笑顔と同じように笑った。
「素敵な魔法をかけてくれてありがとう。あなたのおかげで、人生最悪の日が最高の日になったの。可愛い豚に囲まれて、本当に楽しい夜だったわ」
その時の光景を思い出したのか、アンナ嬢はふふふっと楽しそうに笑う。
その笑顔が、あの夜に失われなくて良かったと心底思った。
俺は少しだけ彼女から視線を逸らし、何か返す言葉を探す。
「あ………あんな魔法でよければ……いつでも……かけます」
途端に、アンナ嬢の顔が一層明るく輝いた。
「本当? じゃあ、また辛いことがあったらお願いしようかしら」
それからアンナ嬢は魔法に興味を持ったようで、俺にいろんな質問をしてきた。
口下手な俺は、うまく話ができなくて何度も言葉に詰まったが、彼女は終始穏やかな笑顔を浮かべながら俺の言葉に耳を傾けてくれた。
「え……? 意味が全く分かんないんだけど……。なんで君たち、ちょっといい雰囲気になっちゃってんの……? やっぱり顔……? 顔なのか!?」
後ろの方でニコラスが的外れなことを言っている。
まさか自分の魔法が、俺とアンナ嬢の出会いのきっかけになったとは想像もしていないだろう。
アンナ嬢は、もっと魔法のことを知りたいと言っていたので、いつでも遊びに来てほしいと伝えると、彼女は弾けるような笑顔で喜んだ。
こんな形で再び彼女と繋がりが持てるなんて、俺にとっては幸運でしかない。
とはいえ、俺は口下手だし、根暗で……とてもじゃないが、彼女の友人として相応しい人間とは思えない。
それでも、もしもまた、彼女が理不尽に傷つけられ悲しみに暮れようものならば、もう一度、この魔法を彼女にかけよう。
――俺はきっと、この世の誰よりも君を笑わせることができるはずだ。
最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。
とある豚カフェで、可愛い豚たちに囲まれながら思いついたお話をようやく形に出来ました。
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