秋の餞
この町を離れることになって、初めて気づいた。
こんなにも、好きな景色があったことに。
何度も歩いた帰り道。
見慣れた家並み。
夕方になると、少しずつオレンジ色に染まっていく空。
どれも、特別なものではなかった。
明日も、来週も、きっと同じ景色が続いていく。
そう思っていた。
だから、急いでいる日は足早に通り過ぎたし、考え事をしている日は、顔を上げることさえなかった。
いつもの道は、いつだってそこにある。
そう信じていたから。
秋の夕暮れ。
僕は、いつもよりゆっくりと歩いていた。
この道を歩くのも、あと何回だろう。
そう考えた途端、見慣れた景色が、少し違って見えた。
ザク、ザク。
足元で落ち葉が音を立てる。
赤や黄色に色づいた葉っぱが、道いっぱいに広がっていた。
こんなにきれいだったんだ。
子どもの頃、わざと落ち葉を踏んで歩いたことがある。大きな音が鳴るたび、なんだか楽しくて、何度も同じ場所を行ったり来たりした。
いつからだろう。
そんな小さなことを、しなくなったのは。
ふと顔を上げると、夕日の光を浴びたオレンジ色のコスモスが咲いていた。
風が吹くたび、ゆらゆらと揺れている。
まるで、僕を見つけて、にこにこと笑っているようだった。
「こんなところに、咲いていたんだね」
思わず、つぶやいた。
毎日のように通っていた道なのに。
何度も通り過ぎていたはずなのに。
僕は、この花が咲いていることさえ知らなかった。
その向こうでは、ススキが空に向かって背伸びをしていた。
細い穂が夕日に透け、風を受けてさらさらと揺れている。
まるで、新しい場所へ向かう僕を見送ってくれているようだった。
胸の奥が、きゅっと締めつけられた。
離れたくない。
そう思った。
新しい暮らしは楽しみだった。
まだ見たことのない景色にも出会いたい。
それなのに、ここを離れることが、こんなにも寂しいなんて思わなかった。
何もない町だと思っていた。
いつもの道。
いつもの空。
いつもの帰り道。
当たり前すぎて、気にも留めなかったものばかりだった。
けれど、本当は。
何もなかったんじゃない。
僕が、見ようとしていなかっただけなのだ。
落ち葉を踏む音も。
夕暮れに染まるコスモスも。
風に揺れるススキも。
ずっと、ここにあった。
僕が忙しさを理由に通り過ぎているあいだも、季節は巡り、草花は芽吹き、花を咲かせ、やがて葉を落としていた。
誰かに気づいてもらえなくても、そこに命があった。
そして、その景色の中で、僕は暮らしていた。
何気ない毎日だと思っていた日々は、もう二度と同じ形では戻ってこない。
そう気づいたとき、いつもの景色が、かけがえのないものに思えた。
幸せは、もっと遠くにあるものだと思っていた。
何かを成し遂げること。
夢を叶えること。
新しい場所で、何者かになること。
そうすれば、きっと幸せになれるのだと。
でも、今、目の前にある景色を見て思う。
僕はここで、たくさんの幸せのそばを歩いていたのだ。
ただ、それに気づかずに。
風が吹いた。
コスモスが揺れ、ススキの穂がさらさらと音を立てる。
「ありがとう」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。
この町に。
いつもの道に。
足元で季節を生きてきた、小さな命に。
そして、何気ない毎日を過ごしてきた自分自身に。
明日、僕はこの町を離れる。
寂しさがなくなったわけではない。
新しい場所で、うまくやっていける自信がついたわけでもない。
それでも、ひとつだけ、わかったことがある。
これから先、どこへ行っても、きっと何気ない景色はある。
忙しさに追われて、見落としてしまう小さな幸せもあるだろう。
だから、今度は少しだけ、立ち止まってみようと思う。
足元に目を向けて。
風の匂いを感じて。
目の前にあるものを、ちゃんと見つめて。
いつかまた、この町を訪れたとき。
あの日と同じように、落ち葉が音を立てていたらいい。
オレンジ色のコスモスが、風に揺れていたらいい。
そのときは、今度こそ、見逃さないように。
ザク、ザク。
最後の帰り道を、僕はゆっくりと歩いた。
夕暮れの光が、いつもの景色を優しく照らしていた。




