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秋の餞

作者: 木蓮
掲載日:2026/10/11

この町を離れることになって、初めて気づいた。


こんなにも、好きな景色があったことに。


何度も歩いた帰り道。

見慣れた家並み。

夕方になると、少しずつオレンジ色に染まっていく空。


どれも、特別なものではなかった。


明日も、来週も、きっと同じ景色が続いていく。


そう思っていた。


だから、急いでいる日は足早に通り過ぎたし、考え事をしている日は、顔を上げることさえなかった。


いつもの道は、いつだってそこにある。


そう信じていたから。


秋の夕暮れ。


僕は、いつもよりゆっくりと歩いていた。


この道を歩くのも、あと何回だろう。


そう考えた途端、見慣れた景色が、少し違って見えた。


ザク、ザク。


足元で落ち葉が音を立てる。


赤や黄色に色づいた葉っぱが、道いっぱいに広がっていた。


こんなにきれいだったんだ。


子どもの頃、わざと落ち葉を踏んで歩いたことがある。大きな音が鳴るたび、なんだか楽しくて、何度も同じ場所を行ったり来たりした。


いつからだろう。


そんな小さなことを、しなくなったのは。


ふと顔を上げると、夕日の光を浴びたオレンジ色のコスモスが咲いていた。


風が吹くたび、ゆらゆらと揺れている。


まるで、僕を見つけて、にこにこと笑っているようだった。


「こんなところに、咲いていたんだね」


思わず、つぶやいた。


毎日のように通っていた道なのに。


何度も通り過ぎていたはずなのに。


僕は、この花が咲いていることさえ知らなかった。


その向こうでは、ススキが空に向かって背伸びをしていた。


細い穂が夕日に透け、風を受けてさらさらと揺れている。


まるで、新しい場所へ向かう僕を見送ってくれているようだった。


胸の奥が、きゅっと締めつけられた。


離れたくない。


そう思った。


新しい暮らしは楽しみだった。

まだ見たことのない景色にも出会いたい。


それなのに、ここを離れることが、こんなにも寂しいなんて思わなかった。


何もない町だと思っていた。


いつもの道。

いつもの空。

いつもの帰り道。


当たり前すぎて、気にも留めなかったものばかりだった。


けれど、本当は。


何もなかったんじゃない。


僕が、見ようとしていなかっただけなのだ。


落ち葉を踏む音も。

夕暮れに染まるコスモスも。

風に揺れるススキも。


ずっと、ここにあった。


僕が忙しさを理由に通り過ぎているあいだも、季節は巡り、草花は芽吹き、花を咲かせ、やがて葉を落としていた。


誰かに気づいてもらえなくても、そこに命があった。


そして、その景色の中で、僕は暮らしていた。


何気ない毎日だと思っていた日々は、もう二度と同じ形では戻ってこない。


そう気づいたとき、いつもの景色が、かけがえのないものに思えた。


幸せは、もっと遠くにあるものだと思っていた。


何かを成し遂げること。

夢を叶えること。

新しい場所で、何者かになること。


そうすれば、きっと幸せになれるのだと。


でも、今、目の前にある景色を見て思う。


僕はここで、たくさんの幸せのそばを歩いていたのだ。


ただ、それに気づかずに。


風が吹いた。


コスモスが揺れ、ススキの穂がさらさらと音を立てる。


「ありがとう」


誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。


この町に。

いつもの道に。

足元で季節を生きてきた、小さな命に。


そして、何気ない毎日を過ごしてきた自分自身に。


明日、僕はこの町を離れる。


寂しさがなくなったわけではない。

新しい場所で、うまくやっていける自信がついたわけでもない。


それでも、ひとつだけ、わかったことがある。


これから先、どこへ行っても、きっと何気ない景色はある。


忙しさに追われて、見落としてしまう小さな幸せもあるだろう。


だから、今度は少しだけ、立ち止まってみようと思う。


足元に目を向けて。

風の匂いを感じて。

目の前にあるものを、ちゃんと見つめて。


いつかまた、この町を訪れたとき。


あの日と同じように、落ち葉が音を立てていたらいい。


オレンジ色のコスモスが、風に揺れていたらいい。


そのときは、今度こそ、見逃さないように。


ザク、ザク。


最後の帰り道を、僕はゆっくりと歩いた。


夕暮れの光が、いつもの景色を優しく照らしていた。

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