第1話 桜雨に墜ちた理の冠冕
私の名前は神月雪方。十七歳。
人狼ゲーム全国大会、二連覇中。――本来なら、今日で三連覇という前人未到の記録を打ち立てるはずだった。
もし、あの神社で、あの忌々しい「大凶」を引いていなければ。
「……大凶。不宜外出。血光の災い、ってさ」
桜雨の中、おみくじを握りしめて歯を食いしばる。
「冗談じゃない。もう祝勝会の店まで予約してあるんだけど!」
粉白色の花びらが、はらはらと舞い落ちて、セーラー服の肩に積もる。
少し離れた場所では、親友の小百合が「推理の女王、必勝!」と書かれた応援ボードを振っていた。
完璧だった。
まるで青春ラブコメの導入みたいに――
空が、「バキッ」と音を立てて割れるまでは。
比喩じゃない。
文字通り、割れた。
澄みきった青空の中央に、黒い裂け目が走る。
そこから紫黒色の炎が滝のように噴き出した。
通行人たちは二拍遅れて凍りつき、次の瞬間、悲鳴が炸裂する。
そして私は――
燃え落ちてくる破片が、風船を追いかける小さな男の子に向かっているのを見た瞬間、考えるより先に体が動いていた。
少年を突き飛ばし、倒れ込む。
反射的に、手を伸ばした。
――熱い。
そう覚悟したのに、灼ける痛みは来なかった。
代わりに、掌に伝わってきたのは、妙にやさしい温もり。
燃えていたはずの破片は、私の手の中で縮み、形を変え、紫の炎を失って――
親指ほどの大きさの宝石へと変わっていた。
中心には、桜色の光がゆらゆらと揺れている。
「……なに、これ」
歩道に膝をついたまま、私は呟いた。
宝石はかすかに熱を帯び、まるで生き物みたいに、私の脈拍に呼応している。
少年の母上は何度も頭を下げ、周囲からは拍手と歓声。
小百合も駆け寄ってきて、「大丈夫!?」と私の体を確かめる。
けれど、私はただ宝石から目を離せなかった。
――これは、絶対に普通じゃない。
その日の午後、私は全国決勝を棄権した。
夜。宝石をガラスケースに入れ、机の上に置く。
名前は――
「月涙」と名付けた。
月光が差し込んだ瞬間、月涙は強く輝き、桜色の光が水面の波紋のように広がった。
そして――
視界が、真っ暗になった。
目を覚ました瞬間、鼻を突いたのは、腐った藁と鉄錆、排泄物が混じった耐え難い悪臭だった。
……氷窟での、三日目。
正直、そろそろ自分が冷凍たこ焼きになりそうだと思う。
「……は、はっくしょん!」
まあ、たこ焼きはくしゃみしないけど。
氷壁の隅で体を縮め、唇を紫にしながらも、頭の中はフル回転していた。
この三日間に起きたことを、ひたすら整理する。
――ゲームプレイヤーの職業病、ってやつだ。
死にかけてても、思考だけは止まらない。
事の始まりは三日前。
あのとき、私の胸元で淡く光っていた「月涙」は、衛兵に剣で叩きつけられても傷一つつかなかった。その異様な光景が引き金となり、金髪にマントを羽織った一人の女が現れた。
後に知ることになるが、彼女の名は――
アリシア・アーカディア、ランクAの傭兵。
「へえ……面白いじゃない。壊れない宝石?ふぅん」
そう呟いた彼女は、にやりと不敵に笑った。
その直後、会場は騒然となった。
相手は奴隷商。
私を「商品」として巡る、血の匂いすら漂う激しい競り合いが始まったのだ。
金と怒号が飛び交う中、最後に札を叩きつけたのは――アリシアだった。
「はい、これで決まり。――この子、私がもらうわ」
軽い口調とは裏腹に、その一言には一切の迷いがなかった。
こうして私は、奴隷市場の喧騒のど真ん中で、
一人の金髪の女傭兵に「買われる」ことになったのである。
……
目覚めて最初に聞いた音は、鉄鎖の擦れる音だった。
それから三日間、背景音はほとんど変わらない。
鎖が石床を引きずる音。
守衛の靴が地面を叩く鈍い響き。
遠くから聞こえる、意味の分からない怒鳴り声や罵声。
私の「主人」であるはずの金髪女は、私を買ったその夜に姿を消した。
正確には、この辺境の町の「臨時収容所」に私を放り込んだのだ。
『最近ちょっと用事がある』
あの感情のない声を、今でも覚えている。
フードの影から碧い瞳が一瞬だけこちらを見た。
『数日、ここで待ってな。死ぬなよ』
看守に銀貨を二枚渡し、彼女は振り返りもせず立ち去った。
薄暗い油灯の下で、金髪が一度だけ揺れた。
――結局、名前すら聞けなかった。
今、私は三平方メートルほどの石牢の隅にうずくまっている。
粗末な麻の服一枚。
首には、氷みたいに冷たい禁魔の首輪。
窓はない。
鉄格子の外壁に掛けられた油灯が、かろうじて光を落としているだけだ。
空気はカビと尿の臭いで満ちている。
「……おい、新入り」
隣の牢から、しゃがれた女の声がした。
顔を上げると、三十代くらいの女が鉄格子越しにこちらを見ている。
頬には古い傷跡。
茶色の髪は汚れて絡まり、見るからに年季が入っていた。
「共通語、分かるか?」
ゆっくりした口調で言いながら、身振り手振りを添える。
私は首を振った。
言葉が通じない――それが、最初の壁だった。
女は舌打ちし、さらに単純なジェスチャーに切り替える。
自分を指し、胸を叩き、食べる仕草。
あ、これは分かる。
私は小さく頷いた。
「よし。あたしはマルタだ」
欠けた前歯を見せて笑う。
「で、あんたは何をやらかした?」
……どう説明しろと?
空を指して、落ちる仕草?
宝石の形を作る?
私があたふたしていると、マルタは肩をすくめた。
「まあいいか。見たとこ、逃亡奴隷だろ。黒髪黒目……東方遺民か?」
その言葉には聞き覚えがあった。
競売の場で、確かに使われていた。
私は、迷いながら頷く。
「やっぱりね」
マルタは壁にもたれた。
「この辺じゃ珍しい。しかも――魔力反応ゼロ」
彼女は、私の首の首輪を指さす。
「それ、本来は魔法使い用だ。あんたに付けるってことは……何かある」
思わず、胸元を押さえた。
衣服の下で、月涙がいつも通り温かい。
マルタはそれ以上踏み込まず、懐から黒パンを取り出し、半分に割って差し出した。
「食べな。腹減ってる顔してる」
一瞬ためらってから、受け取る。
石みたいに硬いパンだったけど――
異世界に来て、初めての食事だった。
「……ありがとう」
日本語で言うと、マルタは目を瞬かせた。
「気にすんな。この場所じゃ、弱い者同士で助け合わなきゃ、長生きできない」
その夜、私は石壁にもたれながら、黒パンを少しずつかじり、状況を整理した。
第一。
私は異世界に来た。夢でもドッキリでもない、現実だ。
理由はいくらでもある。
重力感覚の微妙な違い。
空気に混じる、甘い匂い。
そして――紫色の月。
牢の上部にある小さな通気口から、夜空の一部が見える。
紫の月は妖しく輝き、星の配置も、知っている星座とはまるで違った。
第二。
この世界には魔法がある。
禁魔の首輪。
魔力反応。
言葉の端々が、それを物語っている。
第三。
私の立場は最悪。
奴隷。
言葉が通じない。
金もない。
頼れるのは、正体不明の月涙だけ。
第四。
あの金髪の女は、何が目的なんだ?
買っておいて放置。
……保存食扱い?
「はぁ……もう、最悪」
膝に顔を埋める。
考えても仕方ない。
今の最優先事項は――
生き延びること。
そして、逃げること。
逃げるために、まず必要なのは――
この世界の言葉を覚えることだ。
二時間後、機会は訪れた。
守衛が二人、食事を運んできた。
――濁ったスープと、カビの生えたパンだけど。
彼らは配りながら、気の抜けた調子で雑談している。
私は耳を澄まし、唇の動きを凝視した。
「……昨夜の『赤たてがみ亭』、またツケだよ……」
若い守衛が愚痴る。
「通うからだろ」
年配の守衛が鼻で笑う。
「女将は怖いぞ」
「でも娘が可愛いんすよ……」
「ばか言うな」
短い会話。
何度も繰り返される音――
「酒」「金」「娘」。
表情や仕草と合わせて、意味を推測する。
そこから三日間。
私は、必死な言語学習者になった。
守衛の会話、怒鳴り声、雑談。
聞こえる音を、すべて吸収する。
口の動き。
使われる場面。
頭の中で、言葉と意味を結びつけていく。
「パン」――食事の時。
「水」――桶を運ぶ時。
「立て」――蹴り起こす時。
「静かに」――騒いだ時。
マルタも、根気よく手伝ってくれた。
指を差し、何度も発音を繰り返す。
三日目の夕方には、簡単な日常会話なら理解でき、短い文をぎこちなく口にできるようになっていた。
「覚えるの、早いな」
マルタが感心したように言う。
「三日で共通語の基礎を掴む奴は、初めて見た」
私は苦笑する。
――これは、父のおかげだ。
言語学者の父は、幼い頃から言っていた。
「観察、模倣、連想。それが語学の基本だ」と。
まさか、その教えが――
異世界で役に立つとは、思ってもみなかった。




