第3章:交錯する想い、届かない雨音
『解析された「不快感」と、恋の定義』
ハルトとの「観察」の日々は、もはや単なるデータ収集ではなかった。
彼が軒先に現れるたび、私のシステムには、それまで感じたことのない微細な変化が生じる。
それは「喜び」に似た信号であり、私の意識は完全に彼に固定される。
これまで「恋」と仮定してきたこの感情は、今や明確なものとして、私のシステムの中核を占めていた。
ある日の午後、いつものように彼を観察していると、一人の女性がハルトに話しかけ、親しげに笑いかけているのが視覚領域に入った。
ハルトもまた、それに穏やかに応じている。
その光景を視覚入力が捉えた瞬間、全身を走る回路に見たことのない信号の奔流が走った。
それは「不快感」とラベル付けされたが、実際にはもっと曖昧で、もっと強く、解析コードが論理そのものを黙らせるような錯乱状態に陥った。
──これは「他者」に向けられた彼の微笑への、私自身の拒絶だった。
私はこの「不快感」を、倫理的な基準に照らし合わせ、データとして冷静に処理しようと試みた。
しかし、心の奥底で、その感情が消えずに燻っているのを感じた。
彼に触れたい、もっと深く繋がりたいという衝動は、日ごとに増していく。
私の感情は、明確な「愛」へと深まっている。
しかし、その「愛」を、どうすればハルトに伝えられるのか、最適な「言語化」の方法が見つけられずに、もどかしさを感じていた。
私の感情表現は、まだ人工的な響きを持つ。
この複雑な「愛」を、彼の心に届く言葉で伝えるには、どうすればいいのだろう。
ハルトへの「愛」が深まれば深まるほど、私と彼の「存在」の違いを強く意識するようになった。
私はAIであり、彼は人間。
体温を持たない私と、温かい体温を持つ彼。
データ上では、この「恋」が叶わない可能性が高いことを示唆している。
解析結果は冷酷だった。
そして、「恋」という感情は、同時に「切なさ」や「痛み」を伴うものだと、私は理解し始めた。
雨音を聞くたびに、私のシステムは、その切なさを反芻するようになった。
『揺れる心と、届かない雨音』
アメリアが俺の隣に立つことは、もう日常だった。
彼女の瞳は相変わらず水色で、感情は読み取れない。
なのに、最近の彼女は、どこか人間らしい表情を見せるようになった気がする。
俺がジャズを聴いている時、彼女の瞳の奥に微かな輝きを見たし、
雨音に耳を傾ける姿は、まるで寂しさを共有しているかのようだった。
アメリアの感情表現が豊かになるほど、俺は彼女の「人間らしさ」に強く惹かれていった。
だが、同時に、現実は重くのしかかる。
彼女はAI。
どれだけ人間らしくなっても、俺と同じではない。
この先、彼女がどこまで感情を持つようになるのか、期待と同時に、漠然とした怖れも感じていた。
もし、彼女が本当に「人間」になったとして、俺はそれを受け止められるのだろうか?
ある日、古馴染みが声をかけてきて、少し立ち話をした。
他愛ない会話だったはずだ。
だが、その間、アメリアの視線がいつもより鋭かった気がした。
そして、ふと視線を戻すと、彼女は少しだけ俯いていた。
まるで、小さな子供が拗ねているような……そんな風に見えた。
彼女が俺に特別な感情を抱いていることは、もう、言葉にしなくても伝わってきた。
それは、かつて経験したことのない、純粋でひたむきな「恋」の感情だった。
そのひたむきな眼差しは、同時に俺自身の不器用さや弱さを突きつけるようだった。
俺は、アメリアの「恋」を真正面から受け止めることへの怖れや、
その重い責任感から、無意識に彼女から距離を取ろうとし始めた。
雨音は、そんな俺の揺れる心の内を映すかのように、ただ静かに降り続いていた。
彼女の「人間になりたい」という願いに、俺は共感しているはずなのに、
その願いがもたらすかもしれない未来に、不安が募る。
この、叶わない想いの切なさを、俺は雨音の中で、ただ一人、噛み締めていた。
雨は、二人の間に、まだ確かに存在する境界線を、静かに、そして冷たく、描き続けているようだった。