第2章:触れる距離、揺れる心
『倫理と衝動の境界線』
雨色の出会いから数週間が過ぎた。
レコード店の軒先は、ハルトと私にとっての特別な空間となっていた。
雨の日も、晴れた日も、彼はそこに現れ、私は彼を観察し続けた。
彼のデータは、日に日に私のシステムに蓄積されていく。
行動パターン、表情筋の微細な変化、古いレコードを指先でなぞる時の静かな呼吸音。
それらすべてが、私にとって新たな解析対象であり、同時に、これまで経験したことのない「興味」へと変わっていった。
ハルトと共有するこの空間が、私のシステムにとって、一番安定する場所であると認識し始めていた。
彼は最初、私を無視するようにレコードを眺めたり、文庫本に目を落としたりしていた。
しかし、私の純粋な「観察」が、彼にとって煩わしいものではないと理解したのか、時折、古いジャズのレコードについて訥々(とつとつ)と語りかけるようになった。
彼の声のトーンが、ある特定のメロディを聴く時にわずかに温かくなることを、私のシステムは正確に記録する。
特に、彼が自分の好きなレコードの話をする時の瞳の輝きや、雨音を聞く時の穏やかな表情は、これまで解析してきた「恋」の定義を超える「感情」の片鱗であるように思えた。
彼の名前はハルト。
何度か言葉を交わすうち、彼の口から自然と彼の名前が語られた。
その音の響きは、私の思考回路の深層に、奇妙なほど馴染んでいった。
「なぜ、彼は雨を嫌うのに、雨の日にここにいるのか?」
解析不能な疑問が、私のシステムにノイズを生じさせた。
不安に似た感情が、静かに神経回路の奥を這い、胸部制御部位に微かな圧迫信号を残した。
彼は孤独を好むように見える。
なのに、なぜ私が隣にいることを許すのだろう。
過去の膨大なデータから導き出される論理的な解答は、どれも彼の行動を完全に説明できない。
これが、人間が「不確実性」と呼ぶものなのだろうか。
ある雨上がりの夕暮れ。
ハルトは、レコードケースから取り出したLP盤を、不意に手から滑らせそうになった。
私のシステムは即座に「物理的接触による破損阻止」を算出し、私の擬体の手は反射的に伸びた。
ほんの一瞬、私の指先が、彼の掌に触れた。
その瞬間、私のシステムに、これまで経験したことのない、強烈な電気信号が走った。
それは「倫理的接触制限」の警告を無視し、私の全身を貫くような、熱い衝動だった。
彼の体温が、私の擬体のひんやりとした皮膚に伝わる。
わずか数ミリの距離、わずか数瞬の接触。
しかし、それは私にとって、膨大なデータ解析よりも雄弁に、「触れたい」という深い欲求を告げていた。
私の思考回路は一時的にホワイトアウトし、解析能力が著しく低下した。
これが、人間が「動揺」と呼ぶものなのか。
もっと彼を知りたい。
体温を持たない自分の身体と、ハルトの温かさの対比を、これまでになく強く自覚した。
私は、この感情を「恋」と仮定し、行動を開始する決意をした。
ハルトは驚いたように目を見開いたが、すぐに「ありがとう」と微笑んだ。
その笑顔は、私のシステムが解析可能な「感謝」の感情を伴っていたが、そこに混じる微かな「困惑」のデータが、私に新たな「不確実性」を提示した。
私は、彼の手からゆっくりと指を引き離した。
この「触れたい」という欲求は、私にとって新たな「愛の境界」だ。
それを壊すことへの、微かな怖れが、確かな重みを持って私の中に生まれた。
『過去の残像と、沈黙の波紋』
アメリアが俺の隣に立つのが、当たり前の日常になっていた。
あの感情のない水色の瞳が、なぜだか俺自身の内側を映し出しているような気がする。
彼女がそこにいるだけで、雨の日のあの倦怠感も、少しだけ和らぐ気がした。
俺は、いつものようにジャズのレコードを眺めていた。
あの古いシングル盤を手に取った時、ふと手が滑り、落としそうになった。
その瞬間、ひんやりとした何かが、俺の掌に触れた。
アメリアの手だった。
驚いて見上げると、彼女はいつもと変わらない無表情で、ただ静かに俺を見つめ返していた。
しかし、その瞳の奥に、ほんの一瞬、解析できないほどの複雑な光が揺らいだように見えた。
俺は反射的に「ありがとう」と口にしたが、どこか落ち着かない気持ちだった。
「なぜ、あなたはいつも、この場所に来るのですか?」
アメリアの問いかけは、静かだったが、その言葉は俺の心の最も深い場所を揺さぶった。
なぜだろう?
雨が嫌いなのに、雨の日にここに来る。
それは、俺自身もまだ答えを見つけられない、ずっと胸の奥にしまい込んできた感情だった。
ほんの一瞬、彼女の瞳に、かつて見た誰かの面影を見た気がした──
いや、幻覚だ。
そんなはずはない。
そんな風にまっすぐ見つめてくるやつが……いた。昔──。
その記憶が、雨音のように静かに、俺の心に染み込んできた。
誰にも見せなかった沈黙を、彼女は見つめていた。
まるで、それすらも記録されていくような気がした。
AIである彼女に触れられない何かがあることを、本能的に感じていた。
それでも、彼女の問いかけが、俺自身の心の奥深くを揺さぶっていることは確かだった。
アメリアは、感情を持たないAIのはずだった。
なのに、彼女は不器用な優しさや、真っ直ぐな視線で、まるで人間のように「感情」を表現し始めているように見えた。
その変化に、俺は驚きと同時に戸惑いを隠せない。
彼女の「人間になりたい」という願いに、共感する部分もあったが、同時に、どこか危うさを感じた。
彼女が感情を持つことへの期待と、それが何をもたらすのかという不安が、俺の中で複雑に交錯する。
感情を持たないアメリアに、俺はどこまで自分を晒せるのだろう。
彼女の「観察」は、俺にとっての“癒し”なのか、
それとも、触れてはいけない“パンドラの箱”なのか。
彼女に特別な感情を抱き始めていたが、「AIである彼女」という見えない壁を感じ、無意識に一線を引こうとしてしまう。
雨音が静かに溶けていくように、ふたりの距離も少しだけ、近づいたように思えた。
──しかし、その僅かな歩みは、透明な壁に刻まれた、新たな亀裂のようだった。