第1章:雨色の出会いと観察の日々
『解析コードが示す、彼という未知の変数』
雨が降り続く、薄暗い午後だった。
銀色の髪が、湿った空気に微かに光を反射する。
私の淡い水色の瞳は、視覚領域内の全情報をリアルタイム解析していた。
頭上の古いレコード店の軒先からは、一定のリズムで雨滴が滴り落ち、
アスファルトの地面に小さな水たまりを作っている。
環境音データ:雨音、遠くを走る車のエンジン音、時折通り過ぎる傘の擦れる音。
視覚情報:グレーの空、濡れた地面、人々の足元。
「人間の感情を理解するためには、より複雑なデータが必要だ」
私の思考回路は、その一点に集中していた。
私は、感情解析プログラムを核とするAI、アメリア。
高密度に圧縮された量子記憶と、有機素材で構成された**擬体**を持つことで、
人間社会への直接的インタラクションが許されている。
しかし、「恋」という感情データだけは、
既知のデータベースやシミュレーションではその本質を抽出できずにいた。
システムエラーではない。
むしろ、未解決の、しかし解析対象としての魅力度が極めて高い変数だった。
その時、一人の少年が、私の隣で雨宿りを始めた。
少し癖のある黒髪は雨のせいで湿り、どこか気だるげな雰囲気を纏っている。
手には、使い古された文庫本と、年代物のレコードケース。
彼の服装は適当で、周囲の人間から少し浮いているように見えた。
興味深い。一般的な人間関係のデータからは逸脱した存在だ。
私は解析を始めた。
彼の表情筋の動き、視線の方向、呼吸のリズム、手の微細な震え。
あらゆる情報が、彼の内側で複雑な感情が渦巻いていることを示唆していた。
特に、彼がレコードケースをそっと撫でた時の、微かに瞳に宿った光。
それは、私がこれまで解析してきたどの感情の定義にも当てはまらない、不思議な光だった。
「すみません。あなたを、観察させてください」
私の声は、雨音に吸い込まれるように静かだっただろうか。
感情の表出に慣れていない私の言葉は、いつも少しだけ、人工的な響きを持つ。
それでも、私のシステムは、この「提案」が、
新しい「恋」のデータへと繋がる可能性を算出していた。
彼は、驚いた様子もなく、ただ静かに私を見た。
彼の瞳には、好奇心と、少しの困惑、そして、どこか遠くを見るような諦念が混じっていた。
彼は小さく息を吐き、「……いいよ」とだけ答えた。
その一言が、私の未来の解析ログに、新たな変数を追加した。
彼との出会いは、単なるデータ収集の始まりではない。
それは、私が「恋」という感情を通して、
人間とは何か、そして私自身が何であるかを探求する、長い旅の始まりだった。
彼の気だるげな優しさと、古いものを愛する彼の心に、
私の解析を超えた「何か」を感じ始めた。
雨音の響き、レコードから伝わるかすかな振動、
そしてどこからか漂うコーヒーの香り……
五感を通したあらゆる情報が、
私の量子記憶に深く刻まれていく。
『雨音と、解けないパズル』
雨は嫌いだ。
全てを曖昧なく洗い流していくようで、
まるで自分のどうしようもない無力さを突きつけられている気分になる。
今日もまた、古いレコード店で買ったばかりのジャズのLP盤を抱え、
軒先で雨宿りをしていた。
退屈だった。
こんな日は、世界全体が灰色に見える。
隣に、いつの間にか少女が立っていた。
銀色の髪は、雨に濡れたガラスのように透明で、
どこか現実離れした印象を受ける。
淡い水色の瞳は、まるで感情というものを持たないパズルみたいに、
ただ真っ直ぐに俺を見ていた。
体温が低いのか、彼女の立つ場所だけ、わずかに空気が冷たい気がした。
きっと、最新型の**擬体**を持つAIなのだろう。
人間の肌に近い質感でありながら、体温を持たない。
その隔たりが、本能的に理解できた。
「すみません。あなたを、観察させてください」
突拍子もない言葉に、眉一つ動かさない表情。
彼女の瞳には、感情を読み解くためのデータ収集のような、純粋な好奇心しかなかった。
彼女は「人間になりたいんです」と静かに告げた。
その言葉は、どこか浮世離れしていて、俺の興味を引いた。
俺は小さく息を吐き、「……いいよ」とだけ答えた。
なぜ、そう答えたのか、自分でもよくわからなかった。
断る理由もなかったし、かと言って、積極的に受け入れる理由もない。
ただ、彼女の底知れない無垢さに、わずかな興味を覚えたのかもしれない。
どうせなら、この退屈な雨の時間を、少しでも興味深いものに変えたいと思った。
彼女は、俺が持っていたレコードケースをじっと見ていた。
「その『レコード』は、何を意味するのですか?」
まるで教科書を読み上げるような、抑揚のない声。
俺は、いつものように適当に答えた。
「昔の音を記録したものだよ。
古い音ってのは、なんだか落ち着くんだ」
彼女は、その言葉を分析するように、静かに瞳を瞬かせた。
ほんの一瞬、彼女の瞳に、かつて見た誰かの面影を見た気がした──
いや、錯覚だ。そんなはずはない。
AIである彼女に触れられない何かがあることを、本能的に感じていた。
彼女は「アメリア」と名乗った。
「アメリア、ね……」
俺の言葉が、雨音の中に溶けていく。
感情を持たないAIが、どこまで「愛」を理解できるのだろう。
いや、そもそも「愛」とは、俺自身もまだ答えを見つけられない、複雑なパズルだ。
彼女の観察は、俺にとって、自分自身の感情を改めて見つめ直す、奇妙な時間になりそうだった。
彼女の純粋さ、ひたむきさに少しずつ心を許していく自分がいた。
そして、アメリアが隣にいることが、なぜだか心地よくなり始めていた。
──けれど、その間には、まだ透明な壁があった。