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戻ってきたよしこと晴明の占い!

言葉の説明

* 吏部王ー重明の官職「式部卿」の唐での言い方で、重明の別名になってます。りほうおう、またはりぶおうと読まれます。『吏部王記』という重明親王の日記があったらしいのですが、原本も写本も現存せず、他の人の日記や書物に引用文が残っているだけだそうです。

* 雑色ー手紙を届けたりする雑用係


 7年後、よしこは17歳で都に戻った。帝の交代を待たずに、母親、私の妻の寛子ひろこが他界したからだ。


 美しく成長した娘は、琴の腕に磨きをかけ、消息しょうそことして私たちの間で途絶えることのなかった文も一助となったのか、和歌の才能をも花開かせていた。


 離れていても、私の学識、楽才、風流のすべてを吸収し、体現しているさまには驚くばかりだ。


 親馬鹿と言われようが、よしこは当代きっての才媛で、元斎宮としての気品と神秘さを兼ね備えた眩しい存在だと断言できる。


 そんな私も更衣腹の親王としては破格の三品式部卿さんぽんしきぶのきょうという要職に就いている。

 まつりごとの中枢で、人事考課や除目に口を出せる立場だ。


 今や、関白太政大臣に成りあがった舅、藤原忠平の意向においそれと異議を唱えられるわけではないが、方向修正を示唆したり、才気あふれる若者を推挙することはできる。


 そして舅も、私の言う事なら一応は聞く耳を持ってくれていて、それは妻が亡くなった今でも続いている。


 どうやってこの地位に辿り着いたか、これこれこうやったと特筆できることがあればいいのだが、自分でもよくわかっていない。


 帝の傍で、詔勅を出したり行幸を執り行ったりする中務省の仕事をしながら、寛明と舅・忠平の間に入って緩衝材というのか、意見調整に奔走していただけのような気がする。


 1つ思い当たることがあるとすれば、まつりごととは関係なく日記をつけるのが好きだったから、その延長線で朝廷での決定事項や儀式、典礼の式次第などをかなり丁寧に書きつけていた。


 それに基づいて、「前回はこのようにことを運んだ」とか「あの時の裁定はこういう理由だった」などと意見を漏らしていたら、ことあるごとに助言をいただきたいという人々が増えたのだ。


 新皇だと自称し京に攻め上って来るのではないかと都を震撼とさせた東国の平将門も、呼応するように暴れた瀬戸内の藤原純友も、寛明が譲位する前に敢え無くというか無事にというか、討たれてしまった。


 彼らには朝廷を倒そうなんて考えはなかったと私は知っている。


 若い頃、私は上野国こうずけのくにの太守に任命されながら、現地には赴かず、代理の上野介を遣わしたことがある。

 そうするならわしだったから。


 だが、そういった地方任官たちは現地で、必要以上の税を搾り取り、地元豪族と揉める。

 そんな仕組みの軋轢に端を発した乱だと今の私にはわかってしまう。


 佇んでいた庭の遣り水の緩やかな流れを目で追ってみた。


 私が帝・忠平・他の殿上人てんじょうびとの勝手気ままな思惑に疲弊せずここまでやってこられたのは、母の実家の六条河原院と自宅にしていたここ、東三条殿の庭々があったからだとも思う。


 いずれも開放的な寝殿造の館にゆったりとした池の配置。

 樹々に包まれるのもいい、舟に揺られてぼうっとするのもいい。


 そんな傍目には無為な時間が、私には必要だった。

 自分を見失わないために。


 庭に出ては、人の世の無常さと自然の景観が見せる「もののあはれ」を感じ取り歌に詠み、管弦にのせ心の奥から吐きだした。


 それらを帝も公卿たちも、「流石は重明親王さま、風流の吏部王りほうおうさま」と好意的に評価してくれたようだ。


 よしこの模範になりたかった私は自分をも磨いて、世間が私に期待していた器らしきものに、見合う男になれたのだろう。


 位階や除目など歯牙にもかけない博雅や晴明とのざっくばらんな付き合いも私を支えてくれた。

 暇を見つけては、共に酒を飲んだ間柄。


 よしこが戻って3年後、寛明ゆたあきらから譲位されていた成明帝なりあきらていが、よしこの入内を求めた。


 元斎宮としては生半可な男に嫁ぐことはできないし、一生独身を貫く女性も多い。女御としてなら、内裏に上がるのもいいことではないかと私は勧めた。


 よしこは、恋愛事よりも、自分の才覚を発揮できる場として後宮に入ると自分を納得させたように見えた。


 私はそれでも不安で、入手した美酒を手土産に、晴明によしこの行く末を占ってもらうことにした。


 晴明はよしこの生年月日の星宿図をしばし睨んでから、男にしては細い面を上げて答える。


「大吉ですね。成明帝の御代は順風満帆、よしこ様のたおやかで優艶な和歌は後の世の語り草となることでしょう。稀有な『斎宮女御』と呼びならわされて、よしこ様の絵姿に身代を投げ打つ輩も出るようですよ」


 いや、才能のほうはいい、よしこは放っておいても頭角を現すだろう。


「女としての幸せは? 帝のご寵愛は?」


「それは入内前の今でもおわかりになるのでは?」


 晴明がなぜにやけているのか、私はとんと見当がつかない。


「そうなのか? 成明は自分の権威付けや内裏の歌合わせのためによしこを求めているのでは?」


「「はははははっ」」

 晴明と博雅が声を合わせて笑った。


「叔父上はよしこ様のことになると本当に周りが見えなくなるようですね」

「帝とよしこ様の間に1日どれだけの文が取り交わされているか、この都の雑色ぞうしき誰でも知っていますよ」


 私は少々むっとして「成明はよしこの叔父だぞ」と悪態を吐いた。


「はは、重明さまと帝はご母堂が違うじゃありませんか。近親婚の例ならもっと由々しきものがありますからご心配なく」


 世の裏側を覗いている陰陽寮の切れ者にとったら、何事も由々しきことなんてないのだろうが。


「よしこはそれほど乗り気そうじゃなかった」

 私が重ねて不平を漏らすとまたふたりに笑われた。


「元斎宮の深窓のお姫様が自分の恋路を父親に話すとも思えませんな」

「成明帝はよしこ様をとっても高貴な品のある方だと慕っています。叔父上がご存じないだけです」


「そ、そうなのか? そうなのだな?」


「では近々、今までのご加護のお礼と今後のために、醍醐寺にでも詣でませんか?」

 晴明が急に真顔になって提案してくる。


「伏見だろう? ちょっと遠くないか?」


「では叡山にしますか? どちらかに行かないと醍醐が手に入らないのですが」


 晴明が急に表情を崩して茶目っ気を見せるものだから、それを3人で心ゆくまで笑いながら、よしこの前途に杯を挙げたのだった。






 ―了-





 付録:よしこ様もファザコン


 徽子女王 (きしじょおう・または「よしこじょおう」) 通称:斎宮女御


 御歌


 雨ふるに三条の宮にて


 雨ならでもる人もなき我が宿は浅茅が原と見るぞかなしき(斎宮集より)


【通釈】父が他界し、雨が漏るほかには守る人もない我が宿東三条は、浅茅が原のように荒れ果ててしまったと思えば悲しくてならない。





佐竹本三十六歌仙絵巻という巻物がありました。上下2巻。36人の歌人の絵が描かれていたわけですが、1919年売りに出された時、絵巻物全体としてではあまりに高価で誰も買取ができず、歌人ごとにバラバラに切り離されました。現在では美術館や個人宅に重要文化財として所蔵されています。切り離された中で最高値がつけられ一番欲しがられたのが『斎宮女御絵』だったそうです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 堪能させていただきました。時代ならメガネの似合うキリッとした才女だったでしょう。お二方もご活躍で何よりw 醍醐と言えば子供の頃に似たものを食べた記憶があったのですが、酪農家の隠れた美食と後で…
[良い点] すごく面白かったです。 平安を堪能しましたー。 よしこ様、良かったなあ。 重明も頑張ったなあ。 しかし、7年というのは斎宮としては、すぐに帰ってきたほうなの!? 長かったよね、父ちゃん…
[一言] チーズのお話面白かったです。 干物には、確かに納得でした。 天皇や藤原氏のお話もこうして人の親目線で書かれると、なんだかとても親近感が湧きます。 よしこさん、お母さんには会えなかったのがちょ…
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