甥っ子が持ってきたのは酒肴だけではなかったということ
何度も博雅と乾杯しながら酒と醍醐を堪能していた。
秋の夜風が酒に火照った身体を撫でていく。酒と醍醐が与える多幸感の中でぼんやりとした頭を巡らす。
20人もの妻を持ち、20人もの息子をもうけた父、醍醐帝。
私のような皇位継承権の無に等しい親王もいれば、皇子でありながら即臣籍降下した者もいる。
あなたは何を思って女を愛し続けた?
自分の血を広めるため?
それとも政治を同族で牛耳るため?
もしくはただの欲情?
それを無様と呼ぶのか、清々しい生き様だというかは、言いたい奴に言わせておけばいいのかもしれない。
私が妻を蔑ろにしたら舅は黙っていないだろうが、幸いなことに私は多くの愛を必要としない。
寛子がいて、娘のよしこがいてくれたら、それでいい。
「もう少し、厚かましくなられたらいいとの伝言でした」
「え? 誰からの? 晴明殿か?」
「はい。摂政の娘を室にしているお立場を無駄にされぬようにと」
「晴明殿も酷なことを言われる。よしこが摂政の孫娘だから、斎宮として取り上げられてしまったんだろうに」
「よしこ様は早晩帰って来られます」
「いつのことかわからないじゃないか! 伊勢で病気を得る斎宮もいるというに!」
激昂しては気持ち良かった酔いが醒めると頭の片隅で危惧したが、醍醐の酔いは執拗で、醒めるどころか私の真情吐露を助けているようだ。
「叔父上の異母妹、雅子様はたった2年で斎宮を退下されました」
「母親が死んだからじゃないか。近親者に不幸があれば帰って来れる。娘を呼び戻すのに妻に死んでもらえばいいのか? それとも私が死ねばいいか?」
酔いの勢いでも気色ばむ私など博雅は見たこともなかろうに、この甥っ子は咎めもせずに酒をすすめる。
「陰陽寮は他の政策の吉凶を問われることはあっても、斎宮の卜占には口出しができません。でもよしこ様の斎宮立ちは、御身重明親王様に吉と出ています。この醍醐を進呈いたしましょう。亡き父帝と同名のこれを食して、醍醐様の厚かましさをご体得いただきたく、というのが晴明の言」
父上の厚かましさ。
ふっと自嘲の笑いが洩れた。
確かに私にはそれが足らない。
だが、そんなことまで見透かされて、旨い酒肴をあてがわれて、私は悦にいっていたのか。
前後不覚までさっさと酔ってしまえばよかった。
「斎宮の退下事由は肉親の不幸だけではありません」
自分の肩がひくりと反応するのが感じられた。そろそろ丑三つ時、博雅の声音にあやかしの囁きでも混ざったのか?
「斎宮の交代は通常、帝が代わられた時だな」
自分の低い声が、自分の口から出たはずであるのに、遠くから聞こえた気がした。まるで闇からの誘いのように。
「今上帝は寛明、菅公の祟りを恐れて何重もの几帳の中で育てられた男です。叔父とはいえ五歳も年下、私はその几帳内で子守をさせられた……」
「博雅、何が言いたい? いや、言うな、めったなことを言うもんじゃない。お前らしからぬ……」
隣の男がふっと緊張を解き、私は自分の愚かさを実感した。博雅が笑顔を向ける。
「はは。晴明の真似をして皆まで言わずに言葉を止めたら、叔父上の本音が垣間見えた。これは面白い」
「博雅、お前、酔っているのか?」
「これしきの酒では私は酔うことができませぬ。寛明に死んでほしいわけじゃない。晴明が言うに、焦らなくても帝は早めに譲位なされるだろうと」
「譲ろうにも嫡子がいない」
「成明が皇太弟として東宮に立ちます。それも東国の情勢次第」
「東国? 坂東か?」
「叔父上はあちらの事情に明るいのではありませんか? 平将門というはご岳父・摂政忠平の家人であった者、そして当該地では平氏や叔父上の母がたの再従兄弟とも揉めていたとか」
「いや、あまり興味が無くてよくわかっていない」
「はは、それも叔父上らしい。そういう私も叔父上に似て、まつりごとはからっきしなのですが」
ですから、と改まった前置きして、博雅は晴明殿からの伝言を最後まで口にした。
「国情が不安になると、寛明は早めの譲位を考慮します。そうすればよしこ様は早くに戻られる。美しくご成長されて輝くばかりに。それまで叔父上にはしっかりとまつりごとと摂政殿を見張っていてほしい」
「はっ、ははははは」
醍醐が涅槃の味とはこれいかに。
悟りを開くどころではなく、極楽とんぼでもいられない。
よしこが無事に帰ってきて幸せを掴めるように、私は一癖も二癖もある舅の暴走を止め、心優しいが身体の強くない異母弟の帝を見守らねばならないということか。
現在12歳の成明が元服し寛明帝が譲位する気になるまで。
それが遠く離れたよしこのために私ができることだとしたら、努力してみるのも悪くない。
晴明殿の手の内に転がされている感は否めないが、娘を失ったと諦めるのは短絡的過ぎる。
旨い醍醐と酒と権謀術数。
極楽とんぼのふりを続けながら、少々おつむでも使ってみるか。
舅の権勢に踏みつけられた親王としてではなく、その間を悠々と泳ぎまわった風流人として。
* 930年、先帝・醍醐天皇は内裏の清涼殿に落雷して公卿が焼け死ぬという事件に遭遇し、3か月後に亡くなっています。
それが左遷した菅原道真公の祟りだとして、寛明は過保護に育てられました。7歳という若さで帝位を継がねばならず、大変だったのはわかるのですが。