甥っ子が持ってきた酒と不思議な食べ物と
博雅は入ってきて、少し離れた隣に腰を下ろした。
「三条から六条まで歩いてきたのか?」
「はい、秋冷の気持ちのいい夜ですから」
池の面には、季節遅れのひつじぐさが白い花弁を固く閉じている。明日もう一度開いたら水中に没していくのだろう。
「とはいってももう子の刻ではないのか? 弓張り月が上がってきている」
「私も少しは夜歩きして浮いた噂をたてませんと、晴明との仲をヘンに勘繰られたりもするので……」
ははっと私はやっと笑うことができた。夕方から庭に出て今まで、泣くにも泣けず歩き回り、立ち止まっては想いが頭をめぐるだけで鬱々としていたのだ。
「何もないのか?」
「ないですってば!」
食い気味に否定した甥の源博雅は、陰陽寮の切れ者、安倍晴明と最近よくつるんでいる。
「ですが今日はその晴明の入れ知恵でまかり越しました」
「入れ知恵とな? 何か依頼ごとかな?」
私は自分の分をわきまえている。役に立つから、便利だから存在を許されているのであって、私に取り入っても位階は上がらないし除目に有利にもならない。
頼みごとが無ければ会いに来る者もいない。
隣に座る甥っ子にしてやれることを思い巡らしたが特には思いつかない。しいて言えば、もう少し色っぽい歌が詠めるようにしてやることぐらいか。
「珍しいものが手に入ったので、風流を解する叔父上に差し上げたいと。ついでに私にお酌をしてさしあげろとのことでした」
「は?」
驚く私を意に介さず、博雅は白鳥徳利を私たちの間に置き、胸元から何やら紙包みを取り出した。
「匂いが異様で閉口しましたが、一献の価値があると晴明も言うので……」
何枚も重ねた懐紙の隙間に顔を覗かしたのは、白けた泥色をした物体だった。
角の崩れただらしのない四角形をしている。
「なんだ、これは。遣唐使が伝えた唐符とかいうものか? もしくは叡山の僧侶が食べるという湯葉か?」
「匂ってみてください」
博雅は猪口に酒を注ぎ分けながらさらりと答える。
「うわっ」
自分の鼻を手で覆った。しかし、匂いというものは遮ることもできず、強い腐臭は鼻腔内にこびりついて、そうやすやすとは抜けていかない。
これは、と自分の記憶の中を辿る。
「蘇の干物ではないか?」
ぶっと博雅が噴き出して笑って、私もつられて笑った。
「干物とは、さすが叔父上、うまいこと仰る。これが不思議と酒に合うそうで」
博雅が差し出した猪口を受け取り、清水のようにさらりとしながら薫りの立ち上る酒を一気に喉に流し込む。
「ほんのひとカケラを舌の上で転がして、またご一献」
甥っ子の言うなりに、私は恐る恐る干物のまがいのものを手に取る。中はべちゃりとして指を舐めるしかなく、何とも行儀の悪い食べ物だ。
指に匂いがこびりつきそうなのもいただけない。
牛の乳を温めてしばらく置いたものが蘇だが、普通液状で、椀に入れて食べる。
今私が口に入れたのは、蘇よりも濃厚に蘇の味をしていて、そのうえで甘み、しょっぱみ共に増している。
もう一度味を確かめたくて手を伸ばしかけた。
「御酒をどうぞ、叔父上」
口の中に味が残っている間に、酒を飲めと甥っ子は促す。
猪口を空けると舌の上がさあっと洗われた気がしたが、口を閉じると芳醇さがいっぱいに広がり内側から鼻の奥にまで駆け上がる。
その快感に私は、既に酒に酔ってしまったかのようにくらりとした。
「美味しいでしょう?」
酒と謎の物体の後味がかき消えていき、この快感を今一度、と博雅に猪口を差し出した。
「よかった、それでこそ、叔父上」
管弦以外のことでは普段あまり関わってこない博雅だが、私はコイツの静かな存在感がかなり好きだったりする。
亡き克明兄がコイツを遺してくれてよかった……。
今度は物体を舐め、酒を口に含み、わざと呼気を鼻に抜かした。
「ふぅ……、なんと心地よい……」
「お気に召してよろしゅうございました……」
私は思い出したように、お前も飲めと博雅に勧め、かなり上がってきた下弦の月に目をやった。
「晴明殿も来られればよかったに。このような旨いものを」
「晴明のことです、またどこぞから入手する伝手もあるのでしょう」
「かもな。して、この物の名は?」
「叡山の僧が言うには大涅槃経の尊さである由。牛、乳を出し、乳より酪を取り蘇と成す。熟酥転じてこの物になるそうです」
「ではやはり蘇の一種なのだな」
「ええ。干物のように熟したものとのこと。名は、我々をこの世に生み出してしまった困ったお方、叔父上の父君、私の祖父の名」
「私の父上? 延喜帝? 幼名、維城、親王として敦仁?」
「在位中から祈願寺として手厚く保護し、山の上にも下にもお堂を建て、8年前亡くなられてからは陵も造られ、そちらのお名前を諡られた……」
「醍醐帝……」
「涅槃の味がすると言われる、これが醍醐と呼ばれるものです」
「だいご……」
「蘇の干物です」
「わーはっはっはっ」
なぜか私は馬鹿笑いしていた。隣で博雅も肩を震わせている。
「身内を笑うのは身内同士でないと遠慮が出るだろうと、晴明は考えたのでしょう」
「ははは、確かに。臭いが旨いとは父上らしい」
何度も乾杯しながら酒と醍醐を賞味した。
ひつじぐさ:日本在来種の睡蓮。園芸種と比べると花はちょっと小ぶりです。受粉すると花は水中に没します。