10歳の娘を斎宮として送り出した重明の苦悩
人物紹介
先帝:醍醐天皇ー930年に崩御
今上帝:寛明ゆたあきら(朱雀天皇)ー醍醐帝の第十一皇子(本作設定938年、15歳)
主人公:重明親王しげあきらー醍醐帝の第四皇子(32歳)
源博雅の父親:醍醐帝の第一皇子克明親王よしあきら、既に薨去。博雅は長男(20歳)
寛明(朱雀天皇)の次の帝は成明なりあきらー醍醐帝の第十四皇子(12歳)後の村上天皇
○○天皇という呼び方はおくりな諡号なので、聞きなれないいみな諱を使っています、ご了承ください。
「もう明日は伊勢の斎宮寮に到着するだろうか」
大人数にかしずかれて都を離れていった幼い娘のことを思った。
いや、2年前、娘が次期斎宮に卜占されたと知らせを受けてから、娘のことが胸の真ん中から離れない。
8歳の可愛い盛りで親元から離されて、潔斎の名のもとに会うことも叶わなくなった娘。
管弦が好きで早くから私に七弦琴を教えてくれとせっついていた。小さな手の柔らかい指先で弦をつま弾いて、痛がるどころか「線がついた」と笑ってみせる。
私は妻を訪ねるより娘と手習いするのが楽しくて足しげく、ふたりのいる館に通ったんだった。
潔斎の最初は雅楽寮、そして嵯峨野の野宮。
思い余って暮れ方に近辺を逍遥し、小路や竹藪から吹いた私の笛に気付いてくれたろうか?
4日前、とうとう京を離れてしまった。
都を挙げての「斎宮群行の儀」で、10歳になったあの子の晴れ姿を見た。
もう、抱き上げてくれと両腕を差し出したあの子ではなかった。ひっそりと静粛に歩き、二度と触れることも許されないほどの神々しさを身にまとう。
その奥で、私の知っているあの子が心細く身震いをしていることだけわかる。
私には何もしてやれないのに。
皇族の娘である内親王や女王が、伊勢の斎宮や賀茂の斎院になるのは務めであり誉れだ。
他の者には務まらない誉れだと言われている。
だが私は誉れなど欲しくない。私の隣にあの子の笑顔があるほうが、どれほど大切か。
あの子が普通に成長し、しかるべき相手と愛し愛される経験をするほうが大事ではないか。
神の御杖として清く気高く仕えろ?
何という詭弁だろう。
卜占など体のいいごまかしだ。亀甲を火で炙って現れた線で神のご意向を伺うって?
そこに私の愛娘の名が現れたわけでもあるまい。
「よしこ」と書かれていたとでもいうのか?
卜占など、解釈など、占ったものが勝手に行うだけじゃないか。
深夜だというのに眠れもせずに、母の実家・六条河原院の、広大な庭の四阿に身を潜めていた。
自宅には居られない心のわだかまりがあったから。
幼い頃、母の宿下がりのたびに訪れたこの屋敷、この庭。
この庭に振る星の下でなら、私は素でいられる。
誰にも会いたくない。
立場的には私は、皇位継承は望むべくもないごく潰しの親王、32歳の極楽とんぼ。
学識がある、風流だ、管弦には欠かせない、などと持ち上げられるから、世間が望む型に自分が見合うように必死で追いついているだけだ。
本心など見せやしない。
ただこんなときだけは、男親が娘を嫁に出すよりもつらい、娘を斎宮として差し出さなければならないとなれば、独り気の向くままに振舞っても構わないだろう?
東の空に下弦の月が上がってくる。
その月影がまた、私を苦しめる。
摂政が私の娘の髪に挿したつげの櫛。
「都に帰ってきてはいけない」という別れの小櫛。
あの半月の形がよしこを私から奪い、伊勢に足止めするらしい。
本来なら弟である今上帝、寛明が櫛を挿す役だったというに、気の弱いアイツは物忌みと称して姿をくらましている。
代役として「群行の儀」を取り仕切ったのは他でもない、摂政である藤原忠平。
天皇家に複雑に絡みつく藤原北家。血筋としてはもう混然一体となって、帝と藤原氏の区別などつくまい。
あの節くれだったシミだらけの手で、私のよしこの髪に触れた。
情けないことに私は、親王といえどあの男には逆らえない。
権勢をほしいままにしている今を時めく摂政は、あろうことか私の舅だ。
妻の寛子は摂政の娘、そして私は家族ともども、舅の館、東三条殿に、寄生虫のように住まわせてもらっている。
よしこと楽しい時間を過ごしたのも、もちろんそこだ。
こんな私でも、父、醍醐天皇存命中は、親王として内裏に住んでいた。
だが、17歳も年下の第十一皇子、中宮腹の異母弟の寛明が帝となっては、外に出るしかないじゃないか。
私は第四皇子とはいえ、母は中宮どころか女御でもなく更衣なのだから。
母の祖父は左大臣、父は大納言、この広大な六条河原院を所有していても、皇族ではない。臣籍降下して源氏になったのはもう100年か前の昔のことだ。
そんなわが身が憐れで、私の娘を斎宮にしようと裏で決めただろう舅の家にいるのがあまりに辛くて、母の実家に逃げ出してきたというわけだ。
方達えだなどという言い訳で。
四阿の横木に上体を投げ出して、しばし動けずにいた。
「こちらでしたか、叔父上」
私には兄弟姉妹が35人もいる。私をオジと呼ぶ男は数えきれないが、こんな時間にこの庭に入って来れるものは少ない。
その落ち着いた声音は、顔も上げない私に、源博雅の無骨ともいえる体つきを思い起こさせた。
博雅は私の異母兄の息子。よしこや私よりもさらに音楽に魅入られた男だ。20歳になったんだったか、笛の腕前ではもう私は敵わない。
「ご自宅に伺ったらこちらだと」
池を見下ろすように作られた四阿だ、私は居住まいを正し、自分が灯した篝火が暗い水面に照り返すさまを眺めた。
博雅は入ってきて、少し離れた隣に腰を下ろす。