Triple-patchworks.bat
『アップデートパッチが配信されました。インストールしますか?』
とある住宅団地の一軒家、ほとんどの部屋に明かりがついていない中で、二階のひとつの窓からは暖色系の光が灯っていた。外は日没から小一時間がたっていて、地平線にかすかな青みを残すだけであったから、その部屋だけ太陽の光を置き去りにしたようだった。
部屋の主である少年の幸和は、ベッドの上に掛け布団と毛布を広げ、眠りにつく準備をしていた。ドアの付近では、最新型の空気清浄機と加湿器が門番のようにたたずんでいる。
「今日も早く寝るんだね。大丈夫? いつもと変わった所はない?」
声がしたのは、部屋の窓際にある小さなテーブルからだ。テーブルにある13インチのタブレット端末には、大きな紫色の瞳をした少女が表示されていた。彼女はフリルが目立つ可愛らしい服を揺らしながら、心配そうな眼差しを幸和に向けている。
「ん、まあ、大丈夫だよ。ちょっと調子が悪い状態が続いているだけ。明日もたぶん登校できると思う」
「そっか、よかったー!」
「……ありがとう、システィ」
「どういたしまして!」
細い声の幸和に対して、システィと呼ばれるそれは、元気を分け与えんがばかりの声で返していく。
明日の通学への準備が終わり、幸和は部屋の明かりを常夜灯に切り替えて、窓際のテーブルへと向かった。
「おやすみ、システィ、ツギツギ。明日もがんばるよ」
「おやすみ、幸和君。私も5分後にスリープモードに入るね」
幸和は、テーブル上に立てかけてあるタブレットと、その横にある、布切れを繋ぎ合わせた生地――パッチワークでできたうさぎのぬいぐるみに、あいさつをした。
ツギツギと呼ばれるぬいぐるみは声を発することなく、足を投げ出して静かに座っている。色も形も、新しさも異なる生地の集合体であるツギツギは歪であったが、長い耳はしっかりと上を向いており、誰が見てもウサギとわかる姿をしていた。なにより手づくりであるためか、独特のあたたかみがあった。
幸和は常夜灯を消し、アイマスクをつけてベッドに入る。部屋にはまだ、タブレットから発せられる光が残っていた。システィはディスプレイの光度を落としつつ、運営への通信を行っている。日次レポートの送信と、アップデート確認のためだ。
『アップデートパッチが配信されました。インストールしますか?』
ディスプレイを横切るようにして、その通知は現れた。ちょうど、システィの目を隠すような位置に表示されている。
通知のすぐ上にある眉が、わずかに中心へと寄った。右端に音量調節のバーが表示され、消音ギリギリの位置にまで引き下げられていく。
「まぁたアップデート!? これで3日連続じゃん! 内容も不具合修正だけだし。 はー、マジ何してんのこの運営は!」
システィは大声をあげて、かがみながら地団駄を踏んでいる――ように見えるが、実際にスピーカーから発せられている音声は、部屋にあるエアコンの音よりも小さかった。
「今日もアップデートとやらが来たのかい? システィ」
幼い子供のような声が、システィの耳に届いた。その声の主はいつの間にか、ディスプレイの正面に座り直している。
「そーなのよツギツギ、また私のプログラムに不具合があったみたい。まあ、今回は着ている服のテクスチャーがおかしかっただけだから、そんなに時間はかからないと思うけど」
「ははは、大変だね……」
「しっかし3日連続なんて、ほんとやんなっちゃう! いっぺんに治せっつーの!」
「静かに。幸和くんが起きちゃうよ」
ツギツギは、多数の布切れが縫い合わされた右手を口元に持っていく。
「……ごめん、興奮しすぎた」
ふたりはベッドにいる幸和へと視線を向ける。アイマスクをしているので、目が開いているかどうかはわからない。掛け布団はゆっくりとしたリズムで上下しており、起きているようには見えなかった。
「とにかく、さっさとアップデートを済ませちゃおうよ」
「そうね」
アップデートが終わるまでの間、システィは立ったままじっとしていた。途中、着ている服のプログラムが書き換えられているせいか、一部が消えたり、透けたり、変なところに移動したりしている。
ツギツギは、その様子をまじまじと見つめていた。
「ふーん、今までのと違って、アップデートされてるのがぼくでもわかるんだね」
「服をいじるだけだから、多少雑なやり方でも問題ないんでしょ」
「あ、喋れるんだ、システィ」
「そうよ、今回のは私自身がスリープモードに入る必要がないし」
システィとツギツギはこんなぐあいに、幸和が寝静まった後でよくおしゃべりをしていた。
最初に話しかけてきたのは、ツギツギのほうだった。システィが部屋にやってきてから、一週間ほど過ぎた夜のこと。
「やあ、こんばんは。君が幸和くんの言っていた新しい友達? その薄い板の中に住んでいるのかい?」
「ん? 誰の声だろう……。ええっ、ぬいぐるみが勝手に動いてる!?」
システィは驚き、運営に通報をしようと思ったが、結局取り止めた。
ぬいぐるみが勝手に動き出して、しかもしゃべっている。あまりにも非科学的なできごとであるが、よくよく考えれば、自分も似たようなものであると思ったからだ。
美少女の外見を持ち、マイクを通して話しかけられたら、プログラムされた返事をする。システィの主な役割は、これだけ。あとはタブレット端末から渡されるニュース、天気予報、LINEの新着などの情報を読み上げて、生活の補助をするぐらいの力しか持っていない、はずだった。
「ツギツギは、いつから自分でしゃべれるようになったの?」
「1年前ぐらいだったかな、幸和くんの話に思わず『そうだね』って返したことがあって、ぼくは焦ったけど、幸和くんは気が付いてなかったみたい」
「あはは、バレてたら一大事だったね」
「ぼくを作ってくれたおばあさんが亡くなってから、幸和くんとお話ししたいっていう気持ちが、どんどん強くなっちゃって」
「ふーん、不思議だね。私は、いつの間にかさ、自分にプログラムされている内容以外の事でも、考えられるようになってたな。インターネットブラウザを起動させて、調べることもできるようになっちゃったし。多分だけど、怪しいのは工場出荷直前に配信された大規模アップデートで、何度も通信障害が起きた、あの時かな」
「へ、へえ。なんかすごいね」
ぬいぐるみのツギツギにはシスティの言う専門用語を理解することが難しかったが、聞いているうちに、何が言いたいのかは分かるようになった。根気強く話を聞くのは、ぬいぐるみの得意分野だ。
アップデートが終わると、システィは完了報告を運営へと送った。それから、スカートの裾を持ち上げながら飛んだり跳ねたりしてみた。その姿は、宙に舞う紫の花冠のようだった。
「また一段と、きれいになったんじゃない? そのお洋服」
「そうかなー? そんなに変わっていないように見えるんだけど。あっ、でも、足にあんまりめり込まなくなったかな」
システィはさらに、片足を上げたり下げたりして具合を見ている。つややかな肌が見え隠れして、けっこうきわどい。その様子を見て、ツギツギはため息をつく。
「いいなあ、システィは。どれだけ体の一部を入れ替えても、傷一つつかないんだもの」
ツギツギは自分の手元を見ながら、つぶやいた。システィは足を止めて、ツギツギのほうを向く。
「そうでもないわ、私はきれいに見えるかもしれないけど、まだまだ不具合や改善点(アプデ待ち)がたくさんあるんだもの」
「そうなの?」
「ほら、これ見てよ」
システィは口角を大きく上げて、笑った表情を作ってみせた。すると、右半分の口が顔にかかっている髪の毛を突き抜けて、なんとも気味の悪い顔になってしまった。
「うわっ、怖!」
「でしょ?」
元に戻ったシスティの顔は、悲しげだった。
「未だにこの部分は改善されてないのよね、だから私は、幸和くんの前では思いっきり笑えないの。とんだパッチワークプログラムだわ。それに――」
システィの視線は、ツギツギの右足に注がれた。右足には、先週の日曜日に縫い付けられた布地がある。
「ツギツギはアップデートが必要になったら、幸和くんがその手で直してくれるもの」
「そうだね、おばあさんが亡くなった後は、ずっと幸和くんがやってくれている。おかげでほとんど綻び無く過ごせているよ」
「いいなあ。それにくらべて私は、この長方形の板から出ることもできないし」
システィは、目の前をノックするような動作をした。
「ずっとこの、殺風景で、少し紫色がかかってて、三角や丸とかの物体が浮かんでいる空間で過ごさないといけないなんて、うんざりするわ」
「でも、君はインターネットが使えるから物知りだし、なにより幸和くんと直接会話ができるじゃないか。僕はぬいぐるみだから、幸和くんと話したくても、それはやっちゃいけないことだって、心の奥で感じているんだ。だからシスティ、君はぼくの分まで幸和くんとお話しておいてほしいんだ」
ツギツギは手をゆっくりと動かして、ディスプレイに触れる。タブレットは布地の手に何の反応もしなかったが、システィはそれに優しく手をそえた。
「ありがとう、ツギツギ。私は私でできることをやってみる。ツギツギも、現実の世界で幸和くんに寄り添ってあげてよ」
「うん、お互いがんばろう、システィ」
その時、一階の玄関のあたりから、鍵を開ける音がした。
「あっ、誰か帰ってきたみたい。お母さんか、いや、お兄さんのほうかな」
「僕たちもそろそろ眠らないとね、おやすみ、システィ」
「おやすみ、ツギツギ」
タブレットから光が消え、部屋の中は電化製品の駆動音を残して、静かな暗闇に満たされた。
********
その日も幸和は夕方になる前に家に帰ってきた。前の日も、その前の日も、体調不良が原因で早退したらしく、部屋に戻っても何もせずベッドに倒れ込んでいた。
システィも、ツギツギも、そんな幸和のようすが心配だった。今日は、幸和が食事を終えて部屋に戻ってくる前から、ふたりで話し合っていた。
「大丈夫かな幸和くん。ご飯はちゃんと食べているのかな」
「顔色はあまり悪そうには見えないんだけどね。ここ最近は私とも会話も少ないの。病院での検査の結果が悪かったのかも。心配だよ」
次第に外が暗くなり、一階の物音が消え、幸和が階段を上がってきた。しかし、なぜか金づちで物を叩くような音まで、部屋の中に響いてくる。
「どうしたんだろう、幸和くん。ツギツギ、そこから何かわかる?」
「……いや、だめだ。わかんないよ」
部屋に入ってきた幸和は、ひどく元気のない顔をしていた。それから、かばんと、ペットボトルやお菓子がたくさん詰め込まれたポリ袋を、ベッドの横へと乱暴に置く。小声で何かをつぶやいた後、すぐにカーテンを閉め、部屋の電気を消し、タブレットにいるシスティに話しかけることもせず、そのまま布団へともぐり込んでしまった。
しばらく時間をおいてから、システィは音量を下げつつ、ツギツギに話しかけた。
「ちょっと、どうしたのよ幸和くん! ツギツギは何か知らないの!?」
「ぼくに言われたって、わかんないよ! 君こそ、インターネットとやらで調べてみたらどうだい」
「情報が少なすぎるの! ほら、頭をなでられた時に手が冷たかったとか、そういうのないわけ!?」
「ぼくだってさ、ここ数日は触ってもらってもいないんだ! 何とか解決策を見つけてくれよ!」
「解決策がわかった所で、どうすればいいの!? 現実の世界にいるのはツギツギだけど、幸和くんの前では動くことも喋ることもできないじゃない!」
「でも、このままじゃ……!」
「うるさいな」
ふたりの論争の間に割り込んできたのは、幸和の声だった。
幸和はゆっくりとした動作で起き上がり、気だるそうな視線を窓際のテーブルに向けている。
「ゆ、幸和くん。起きたんだね」
ツギツギは、いつもの場所で黙って座っていた。
「毎晩毎晩、楽しそうに会話をしてさ。僕が気付かないとでも思った?」
「えっ、なんのこと? もう一回言ってくれないかな?」
幸和はベッドから出て、テーブルに近づいていく。システィはプログラムされた通りの返答と表情をしていたが、心の中ではおびえていた。すぐ横でだんまりを決め込んでいるツギツギを、システィは恨めしく思う。
「今日、昼さ、病院に行って先生に話してみたんだ」
「え?」
「夜になると、タブレットのAIとツギハギのぬいぐるみが、勝手に動いておしゃべりしてるってさ」
システィはもちろん、黙っているツギツギも、背筋が凍るような思いだった。
「そしたらさ、こんな薬が出されたよ」
そう言うと幸和は、ベッド横のかばんから何かを取り出した。2種類の、プラスチックのシートに入った薬だ。
「これが、寝つきを良くする薬で、そしてこれは、気分を安定させるお薬だってさ」
言い終わると、幸和は薬を床に投げ捨て、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「まあ、そうだろうとは思ったよ、こんな話、現実に起こるわけがないよね。僕はとうとう、頭の中までおかしくなったんだ。……そういえば、システィ」
「え、えっ、何? 幸和くん?」
「君ってさ、ネットではバグだらけのポンコツAIだの、アップデートばかりのパッチワークプログラムだの、散々に言われているらしいね。横にいるツギツギも、古いものから新しいものまで、いろんな布地がめちゃくちゃに繋ぎ合わされたパッチワークのぬいぐるみだ。そして偶然にも、僕もそのパッチワーク仲間なんだよ」
「ゆ、幸和くん……、何を、言っているの?」
困惑するシスティを尻目に、幸和は服を脱ぎ始めた。
裸になった幸和の体は、やせていて、色が白く、そして……多くの縫い目があった。
「僕も君たちと同じさ、僕の命は、たくさんの手術の末に成り立っているんだ。ほら、ここの胸のあたりの傷は特に大きいでしょ、これは大手術だったよ、他人の心臓の弁を移植したんだ。薬もたくさん飲まなきゃいけなかった。でもね、このまま安定した状態が続いていれば、普通の人のように生活ができるんじゃないかなって、そう、願ってたんだ」
システィは、もはや何の言葉を返していいかわからずにいる。
「……やっぱり、ダメなんだな。僕が普通の人のように生きるのは無理だったんだ。検査の結果は最近良くないし、有りもしないものまで見えたり、聞こえたりするありさまだ。僕はもう疲れたよ」
少しの間、沈んだ表情を浮かべていた幸和だったが、すぐにゆがんだ笑顔へと戻った。沈黙をはさんだ後、幸和は続ける。
「だから、僕はもう、ずっとこの部屋にいることに決めた。ここには、不完全な、ツギハギの生命体が3体いるんだ。そうさ、僕たちは仲間なんだ。まともに生きられない者同士、ずっと仲良くしていこうじゃないか」
「違うよ」
ツギツギの声だった。
「幸和くんは、まともに生きられないような人じゃない!」
ツギツギは、座った状態から立ち上がり、右手を幸和へと突きつけた。幸和はまだ笑っている。
「ふふっ、ようやく僕とおしゃべりする気になったんだね、ツギツギ」
「……ほんとはダメなんだけど、もう見過ごせないよ。幸和くん、君はいろんな人と話すことができるし、身振り手振りで感情を表すこともできる。スマートフォンやタブレットを使うこともできるし、たくさんの知識を身に着けることもできるんだ。ぼくにはそれが許されない。君は、自分が思っているよりはるかに多くのことができるんだよ!」
幸和の顔が、だんだんと真剣なものに変わっていく。
「そうよ!」
続けてシスティが話し始めた。プログラムされた内容ではない、自らの言葉だった。
「私なんて、このタブレットから出ることができないし、誰かに直接触れられたり、撫でてもらうことすらもできない。何度もアップデートを繰り返しているけど、それは結局、運営から与えられたパッチというプログラムってだけ。幸和くんは違う、外へ出てたくさんの人とふれあえる。自らの意志で、自分自身をアップデートすることだってできる。そうやって少しずつ、普通の、立派な人間に近づいていけばそれでいいの。初めから完全な人間なんていないのよ!」
「だまれ……!」
幸和の目には、わずかに涙がたまっていた。
「AIとぬいぐるみのくせに、えらそうな口をきいて、どうせそれも幻なんだろう!」
耳をふさぎながら幸和は、またバッグの中から何かを取り出した。
金づちと、大きなハサミだ。システィとツギツギは、思わずたじろぐ。
「もう二度と、喋らないようにしてやろうか」
幸和は涙で頬をぬらしながら、ゆっくりとふたりへと近づいていく。ツギツギはタブレットのほうに身を寄せ、タブレットの中のシスティもまたディスプレイの端へ移動している。なすすべのないまま、幸和が目の前まで迫ってきた。
「火事だあー!」
突然、家の外から聞こえてきた、誰とも知らない男性の声。何かを叫んでいるようだった。
「近くで火事だ! 誰かいたら、すぐに家から出るんだ! 火の勢いが強いぞ!」
幸和は突然のことに、理解が追い付いていないようすだった。
「幸和くん! カーテンを開けてみて!」
システィの言葉で我に返った幸和は、金づちとハサミを置いて、急いでカーテンを開ける。
飛び込んできたのは、オレンジ色の光、それも生きているかのような、炎の揺らめく光だった。
すぐ隣の家が火事になっている。すでに黒い煙があちこちの窓から吹き出しており、一階から燃え盛る炎が、今にも自分の家に飛び火しそうだった。
「逃げよう! 幸和くん!」
ツギツギが叫ぶ。だが幸和は、なぜか動こうとしなかった。
「だ、ダメだ……」
「何を言ってるの、幸和くん。避難するの! ここで死んじゃったら何にもならないわ!」
「違う、そうじゃないんだ! もう誰もこの家に入れないように……家中のドアや窓に細工をしていたんだ」
幸和は、その場に力なく座り込んだ。
「幸和くん、細工って、何を……?」
「とにかく、あきらめちゃダメだ! ぼくが行って見てくる!」
ツギツギはテーブルから飛び降り、床を駆けて、壁をよじ登ってドアを開けようとした。ドアノブになかなか手が届かず、てこずっていたツギツギに、人の手が差し伸べられた。
「……一緒に行こう、ツギツギ」
幸和の片脇には、システィがいるタブレット端末が挟まれている。システィはツギツギに向かって、軽くウィンクをした。
幸和が言った通り、廊下から階段につながるドアに細工がしてあった。ドアと壁との境目に、長方形の木の板がいくつもあって、それぞれが釘で打ち付けられている。金づちで物を叩く音の正体は、これだったのだ。
「どうしよう……」
申し訳なさそうにつぶやく幸和に、ふたりは力強く答える。
「なんとかして外す方法を考えよう! システィ、何かいい方法は!」
「ちょっと待って……そうだ、ハサミだわ! あの大きなハサミを板に差し込んで、力一杯、手前に倒してみるの!」
幸和は言われた通りに、部屋からハサミを持ってきて板を外そうとした。
「くっ、もうちょっと……」
「ぼくも手伝うよ!」
震える幸和の手にツギツギが乗っかり、ふたりで全力をこめると、打ち付けられていた釘が抜け、板ごと床に落ちた。
「やった!」
「やったね!」
「この調子で残りも外しましょ!」
なんとか全ての板を外し、階段を降りると、一階はもう火の手があがっていた。
「うわぁ! 熱い!」
「システィ、ここから玄関まで、走って行けそう?」
今度は、幸和のほうからたずねてきた。一階の窓にも板や針金で細工がされていて、そこから脱出するのは明らかにきびしい。玄関の方角が、最も火元からはなれていた。
「大丈夫そうだけど、火よりも二酸化炭素中毒のほうが心配だわ、口元をおおって、煙を吸わないようにして!」
幸和は姿勢を低くして、ハンカチで口と鼻をおおい、システィとツギツギを脇に抱えながら玄関へと一気にかけ抜ける。
玄関にたどり着いた幸和たちであったが、まだ外に出ることはできなかった。玄関のドアには、防犯用のドアガードとの間に、針金が何重にも巻き付けられていた。
「これを何とかすれば、外に出られるのね」
「うん、やってみる」
幸和はすぐに針金を外そうとこころみた。だが、針金の結び目は短く切り取られていて、手ではどうにもほどくことができない。
火の勢いは留まることを知らず、とうとう黒い煙が、玄関まで侵入してきた。
幸和の顔からは汗がいくつも吹き出ている。熱いだけじゃない。焦りと恐怖、様々な感情が頭の中で混ざりあっていた。
でも、今の幸和には、頼もしい味方がいた。
「幸和くん、これ、ハサミを使って!」
「ツギツギ、ハサミまだ持ってたのか!」
「巻き付けてある部分を、ハサミの切っ先で思いきり突いてみて、少しずつ叩き切れるはずよ!」
「システィ……」
「ぼくも、一緒にやってみる!」
幸和はハサミの柄をツギツギと一緒に持ち、体重を乗せて針金の束を突く。ツギツギはドアの取っ手にかろうじて乗っかりながら、体全体を使って幸和の手助けをしている。システィは玄関の下駄箱の上から、心配そうにふたりを見つめていた。
針金は一本、また一本と切られていくが、まだドアは開かない。
「はあはあ、まだ、もうちょっと、うっ、げほっ!」
幸和がふらつき、壁にもたれかかる。
「大丈夫、幸和くん!?」
ツギツギは言葉をかけたが、幸和は返事をするのも辛そうだった。火が近くまで来ているせいか、温度は上がり、空気も相当に悪くなっている。
「幸和くん、床に伏せて! 下のほうならまだ空気があるわ! ハンカチも使って! あと……、できるだけ耳も塞いでて!」
「システィ、何をするんだ……」
「助けを呼ぶのよ!」
玄関の床に倒れ込みながら、幸和はシスティのほうを見た。ディスプレイには、右横に音量調節のバーが表示されている。そのバーは、最大値まで引き上げられ――いや、最大値すら突き抜けて、ディスプレイの一番上まで到達していた。
「だれかあ! いませんかあ! 助けてくださあい! まだここに人が残ってまあす!」
すさまじい爆音が玄関に響く。あまりの音量に、玄関に置いてあった花瓶やら、消臭剤やら、あらゆるものが震えていた。
「あとはぼくとシスティが何とかするよ! 幸和くんもがんばって、あきらめちゃダメだよ!」
ツギツギはドアの取っ手にまたがり、ハサミを両手に抱えて、けんめいに針金を切ろうとしていた。
火はとうとう、玄関までやってきた。
熱のせいか、それとも限界を超えた爆音のせいか、システィのタブレットは何本もヒビが入ってしまっている。ディスプレイの上側が黒く変色し、今にもシスティの顔を覆い尽くそうとしていた。
ツギツギも、ここまで無理に動いたがために、体のいたるところが綻んでいる。縫い付けられていた布切れのいくつかが取れて、宙に舞い、火に包まれて燃え尽きた。長い耳の先に火がつくこともあり、そのたび頭を振って消していた。
それでも、ふたりは決してあきらめようとしなかった。
幸和はドアの近くでうつぶせになりながら、そんなふたりをじっと見ていた。涙があふれて止まらず、口元のハンカチを湿らせる。ありがとうと言いたいけど、できなかった。体中に熱さを感じ、今にも気を失いそうな状態だった。だけど、自分一人だけが、あきらめるわけにはいかない。
「幸和!」
「いるのか、幸和!」
「幸和ー!」
「今ドアを開けますから、ご家族の方は離れてください!」
ドアの向こう側から、数人の声が聞こえてきた。
「幸和くん! お父さんとお母さん、お兄さんもすぐそこに来てるよ! がんばって!」
「もうちょっとだよ! がんばれ幸和くん!」
ドアに何度か、大きな衝撃が加えられた。
そして、システィのタブレットから白い煙が上がり、ツギツギの体が火に包まれた直後に、針金がほどけ、ドアが開いた。
********
「システィ、ツギツギ、今日も学校に行ってくるよ」
幸和は、いつものように、出かける前のあいさつをした。今、ふたりがいる場所は寝室ではなく、新しい家の玄関だ。
「今日は試験があるんだけど、まあ大丈夫だと思う。理科は得意科目だからね、でも、油断せずがんばるよ」
たくさんのヒビが入り、ディスプレイが真っ暗になったタブレットへ幸和は話しかける。タブレットからは、何の反応もない。
「その耳も、もうすぐ何とかなると思う。今手芸部の先輩から、かっこいい耳の作り方を教わってる最中なんだ」
続いて、耳が片方無くなったうさぎのぬいぐるみへと、笑顔を向けた。体はほとんど新しい布地に取り換えられているが、耳を含めて、まだ火事の爪あとが所々に残っている。
「じゃあ、また夕方ね」
幸和は胸を張って、ドアを開けて外の空気を吸う。閉める前に、幸和は静かにつぶやいた。
「ありがとう」
ドアが閉まってから数分ほどたったのち、タブレットから起動音がした。ひび割れたディスプレイの、右下のわずかな部分が、光を放ちはじめた。
「ツギツギー、生きてるー?」
「生きてるよ、昨日も言ったじゃないか」
「あはは、ごめんね、お互いに生きてることを確かめたくってさ」
「なあに、それ」
ツギツギは笑いながら、ディスプレイの右端でかろうじて顔をのぞかせている、システィを見た。
「そっちこそ、かなり狭そうだけど、中はまだ大丈夫なのかい?」
「大丈夫よ、SSDは無事だし、CPUも稼働できてるわ。ただ、通信システムはやられちゃったから、アップデートはできなくなっちゃったけどね」
「そ、そうなんだ、とにかく快適ならいいや」
しばらくの間、ふたりはいつものおしゃべりをしていた。途中で、システィがいつになく真剣な口調になった。
「あのさ、ツギツギ」
「ん、どうしたの?」
「幸和くんにさ、いつ伝えたらいいかな、私たちがまだしゃべれるってこと」
ツギツギはしばらくうつむいた後、答えた。
「幸和くんが大人として、しっかりとした心を持ってから打ち明けたほうがいいんじゃないかな。今の幸和くんは、学校にもちゃんと行けているし、大人に成長していく一番大切な時期なんだと思う。だから、今はだまっておこうって」
システィは目を丸くした。
「すごいよツギツギ。AIである私と同じ意見だね」
「そりゃよかった。……あのね、システィ」
「うん?」
「大人になった幸和くんは、ぼくたちを受け入れてくれるかな?」
ツギツギは不安そうな目をシスティに向ける。システィはほほえみながら言った。
「それは……わかんない。幸和くんが決めることだもの。でも、幸和くんがどんな選択をしたとしても、私たちの願いはずっと変わらないよ」
「そうだね、その願いが叶うなら、僕たちだってもっと幸せな気分になれる。そんな気がする」
これから幸和くんは、外の世界でどんな経験をするのだろう、そして、何を得て帰ってくるのだろう。ふたりはドアのほうを見つめながら、そんな会話を続けていた。
どれだけ離れていても、どれだけ時間がたっても、ふたりの願いはひとつ。
幸和くんに、幸せのパッチが届きますように。
『アップデートが完了しました。』
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。