7.皇帝1
皇帝付きの首席宦官である全忠は、皇帝の寝台とその周辺を検査していた。皇帝の身を守るため、皇帝が就寝する前に毒物や危険なものがないか、何か仕掛けられていないかを調べるのが彼の日課だ。
皇帝とは常に命を狙われる存在である。それは皇帝自身もよくわかっていることだ。だから中々気の休まる時間がない。せめて夜くらいはゆっくり休めるように、毎日こうして念入りに調べておく。特に寝所は皇帝が無防備になりやすい場所でもあるし。
全忠はこの仕事を自分が任されているということに誇りを持っていた。それは、全忠が皇帝にとって信用に足るということだからだ。
逆に全忠にとっても、皇帝は全身全霊をもって仕えることのできる主だ。わずか二十歳にして帝位につき、今現在苦労しながらもその職務を精一杯こなしている姿は、素直に尊敬している。
その皇帝は今、後宮に行っている。おそらくは一刻ほどで戻ってくるだろう。その間に検査を終え、すぐに皇帝が休めるように整えておかなければならない。
手早く、それでいて丁寧にいつもと同じ動作を行っていると、部屋の外から部下の声がした。
「陛下がお戻りになります」
皇帝が戻ってくるにはまだ早すぎる頃合いだった。全忠が部屋の扉を開けると、部下が汗を垂らし、肩で息をしながら立っていた。陛下のお戻りを伝えるために走ってきたからだろう。そうして先触れを伝えるのが彼の仕事なので仕方がない。
「もう戻られるのか?」
「はい。もうこちらに、向かって、いらっしゃいます」
「そうか。いつもよりもずいぶんと早いな。理由はわかるか?」
「いえ、申し訳、ありません」
全忠が眉をひそめたのは、彼が理由を知らなかったためではない。皇帝が妃の宮にいる間、外に控えていたならば、中の会話が聞こえないことは普通のことだ。
職務に忠実な全忠が許せないのは、職務が全うできないことである。全忠は荒い息を吐きながら切れ切れに話す部下の肩を、持っていた棒で軽く叩いた。
「ご苦労。少し休むといい。だが、お前はちょっと太りすぎだ。それでは走れまい。間食はやめよ」
「そ、そんなぁ」
部下を下がらせると、急ぎ皇帝を迎える準備をする。この時間に戻ってくるのならば、すぐに就寝ではないだろう。幸い寝室の検査はほとんど終わっている。すぐにお茶を出せるようにお湯の準備をさせ、飲むかはわからないがお酒と軽くつまめるものも用意しておく。
手際よく準備を進めていると、足音が聞こえてきた。扉を開けて礼の姿勢をとり、皇帝を出迎える。護衛を部屋の外に残すと皇帝と共に室内に入り、皇帝の上掛けを受け取った。
緩く後ろに一つに結われた長い黒髪がさらりとこぼれる。乱れた様子はない。そしていつもならば感じられる妃の宮の香りが、今日は薄い。そんなことを一瞬のうちに把握しながら、皇帝に声を掛ける。
「お茶でよろしいですか? お酒をお召しになりますか?」
「茶で」
「かしこまりました」
更衣を手伝った宦官が退室すると、全忠はそっと茶を差し出した。
「今宵は皇后さまのところに行かれていたのですよね?」
「そうだ」
「早かったですね。何かありましたか?」
夜に後宮に向かい、何かあったのかと聞くのもおかしい気がするが、何もなかったのかと聞くのもまたおかしい気がした。
皇帝は全忠以外に誰もいない事をチラッと確認すると、つまみの木の実を一つ手に取った。
「皇后は月のものだそうだ」
「それは、なんと、まぁ……」
後宮の妃嬪の健康状態はしっかりと管理されている。当然、月のものの周期も把握されており、皇帝がその日に行くことはない。つまり、今日がその日であったはずがないのだ。
「これで二度目だ。余の夜伽を断るとは」
パリッと小さな音を立てて、皇帝が手で転がしていた木の実の皮が弾けた。
皇帝のお渡りがあるとなれば、たいていの妃嬪は喜び、歓迎する。断られることなど今までほとんどなかったはずだ。
「怒っていらっしゃるのですか?」
「怒る? なぜ?」
「妃の務めを果たしていない、ということではありませんか」
「あぁ、なるほど」
考えてもいなかった、というように木の実を口に入れた。全忠はすかさず手を拭く布を渡す。
どうやら怒っていないらしい。むしろ上機嫌に見えた。
「雲英を隣室に呼んでくれ」
「おや、こちらではなく?」
わざとおどけるように言ってみる。ここは寝室だ。妃嬪ではない女性を招き入れる場所ではない。もっとも、この皇帝は妃嬪であってもこの部屋に招くことはないが。
「もし皇帝が雲英を召した、などと噂されたらどうするんだ。あの雲英だぞ」
「陛下は年嵩の女性が好きなのかと思う輩も出てくるでしょうね。もしくは気の強そうな方でしょうか。後宮にそのような女性が入内なさるかもしれません」
「勘弁してくれ」
「それもまた面白そうではありませんか」
皇帝の睨みをきれいに受け流し、全忠は信頼できる部下に雲英を呼びに行かせた。
「この度はまことに申し訳ございません」
「詫びはいい。座れ。全忠、お前も座っていいぞ」
「いえ、私はこのままで」
話が長くなるとみたのか、皇帝は雲英に椅子を勧めた。雲英が淑女のお手本のような動作で腰を下ろす。
「雲英、このような時間にすまない。だが、呼び出された理由はわかるだろう?」
「はい。怒っていらっしゃいますか?」
「なぜ怒る必要がある」
「皇后さまが陛下に嘘をついたからです」
「あぁ、なるほど」
そっちもあったか、というように、皇帝は顎に手を当てた。
「ところで、なんでお前たちは俺が怒っていると思うんだ? 俺はそんなに短気じゃないぞ」
「はい、それはもう、よくわかっております」
「わかってないだろ」
実際のところ、この皇帝はそんなに短気ではない。内心でどう思っているかはさておき、理不尽な理由で臣下を叱責したり、気に入らないことで当たり散らしたりということはほぼない。
「とにかく、最初に言っておくが、俺は別に怒ってなどいないし、伽を断られた程度のことで皇后をどうにかしようと思っているわけでもない」
「それは、何よりです」
雲英がホッとした様子を見せた。
「皇后が子を授かろうと努力していたことは知っている。その皇后が二度も断ってきたのだ。その時点でどうにも様子がおかしいだろう」
二度を強調するあたり、やっぱりちょっとは気にしているんじゃないか、と全忠は少し口角が緩んだ。
「すんなり受け入れて戻っていらしたのですか?」
気にするなら、無理にでも押し倒してくればいいのに。皇帝なのだから、それが充分に許されるはずだ。この方がそうするだろうとは思わなかったが。
「お前……。今宵、皇后は俺を見て完全に怯えた目をして、震えていた。そんな皇后に手を出せるわけがないだろう」
「震えて? 陛下、一体何をなさったんです?」
「何もしてないからな! 何も、たぶん。……心当たりが全くない。俺、何かしたのか?」
だんだん弱気になってきてしまった。これ以上揶揄うのはやめたほうがよさそうだ。
皇帝は先程の様子を話し始めた。夜伽の準備をするように言ったら、急に皇后の様子がおかしくなったという。ガタッと音を立てて椅子から立ち上がったと思ったら、今日は月のものが、などととぎれとぎれに話しながら震えていたらしい。
「それ以外にも、何だか話していると人が変わったように感じられた。徳妃もそんなことを言っていたな」
「徳妃さまが、ですか」
「雲英、皇后は一体どうした」
皇帝は雲英ならば答えを知っていて、それを話すはずだと信じているようだった。
「人払いを」
「もうしてある。でなければ、こんな話し方はしない。全忠もいないほうがいいのか?」
「いえ、かまいません」
雲英はゆっくりと話し始めた。