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下女皇后の後宮記  作者: 海野はな


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終 月明かりの下で

 数年後。


 玉祥とその后妃、子供たちは、宮城から一番近い皇族の保養地に来ていた。玉祥と珠蘭が以前お忍びの一泊旅行でやって来た場所だ。


 后妃、といっても、皇后、徳妃、それからかつての淑妃で今は九嬪の筆頭である昭儀の位となっている李氏の三人だけである。九嬪であった修儀と充儀は下賜されて後宮を出ているし、貴妃は双方の望み通り徳妃との長男である善祥に下賜された。善祥の正妃として彼が賜った領地へ向かう貴妃はとても幸せそうだったから、これでよかったのだろう。


 新しく九嬪以上の位を賜った者はおらず、今、后妃と呼ばれる身分にあるのはこの三人だけだ。

 他に侍妾はいるものの、玉祥は相変わらず通う気配などなく、入ってきては任期を待って後宮の外に出す、というのを繰り返している。基本的には入ってくる人数よりも出るほうが多いので、後宮は少しずつ縮小するだろう。



 湖沿いにある東屋で、徳妃と李昭儀は景色を眺めていた。妃嬪として滅多に後宮を出る機会のない二人だ。顔色は明るい。


「昭儀、こうして二人でお茶を飲むのは久しぶりですわね」


 二人は玉祥が皇帝になる前からの妃仲間なので、付き合いは長い。

 朝の会や仕事上、毎日のように顔は合わせているけれど、ゆっくりと語らうことはほとんどなかった。


「そうですね。陛下と皇后さまはどちらへ?」

「お忍びで街歩きだそうですよ。お忍びになっているのかは疑問が残るところですけれど」


 クスクスと徳妃が笑う。今朝、「どうだ、似合うだろう?」と披露された庶民服姿を思い出す。明らかに浮いていたが、珠蘭がこっそりと「最初の頃よりは全然いいのです」というので笑ってしまった。


「昭儀はこれから先、どうするおつもり?」

「わたくしは、娘が嫁いだら息子の領地へ下がることを願い出ようと思っていますの。徳妃さまもそうでしょうけれど、ずっと実家と後宮だけがわたくしたちの世界でしたでしょう。外を見るのも悪くないと思っているのですよ」


 玉祥の次男にあたる昭儀の息子は成人を迎え、領地を賜った。後宮を出てそちらで生活しつつ、宮城の外から国を支えられる何かができたらいいと考えている。


「昭儀がいなくなるのは寂しく感じるけれど、それも確かに悪くないですね」

「本当にそう思っていらっしゃいます?」

「えぇ、本心ですわよ。陛下を支える仲間が減るのは寂しいことですわ」


 それぞれの実家の派閥が違うことと、性格や方向性も違ったために特別に仲が良かったわけではないが、玉祥を支えるという点ではずっと一致していた。気が合わないと思ったことはあるはずだけれど、会わなくなるなんてせいせいするわ、という感情はお互いに全くなかった。


「この先ずっと後宮にいても陛下はわたくしをお許しにはならないでしょうから、後宮を去ることがわたくしにできる陛下への恩返しの一つだと思っていますの。できることならば、これからは外の情報を送ったり、何か少しでも役に立てればいいと考えているところです」


 昭儀は穏やかな顔でそう言った。

 降格される事件を起こしてから今まで、玉祥は昭儀の元へ渡ることは一度もしていない。宮を訪れるのは、あくまで子供と接するためだ。その子供も、もう成人した。


「徳妃さまならご存じでしょう? 陛下は優しいように見えて、一度切り捨てた相手に情を掛けることはございませんのよ」

「わたくしもそう思っておりましたわ。でも、陛下は昭儀に情はあると思うの。そうでなければ、あのように穏やかな顔で昭儀と話すことなどしなかったでしょう。最近陛下は丸くなりましたわ」

「そうでしょうか」

「陛下は昭儀が真摯に陛下と皇后さまに仕えていること、わかっていらっしゃいますよ。降格してからもずっと変わらず陛下のために仕え続けていたのですもの。それが分かるからこそ、また位も上がったのよ」


 そうだといい、と昭儀は微笑む。


「それに、情というのならば、陛下があのような情を向けるのは、最初から皇后さまにだけですわ」

「徳妃さまは寂しい事をおっしゃいますね。でもたしかに、その通りですわ。最初から勝ち目などなかったのね」


 寂し気に、微笑みを浮かべながら昭儀は湖を眺める。太陽を反射して輝く水面に水鳥がゆらゆらと浮いていた。一羽が飛び立つと、数羽がそれに続いて飛んで行く。どこへ行くのだろう。


「わたくし、あの鳥のようにいろんなところへ行ってみたいと思っていますの。あとは、畑仕事もしてみたいですわ」

「まぁ、昭儀が畑?」

「最初は嫌悪感しかなかったのですよ。汚らしい衣を着て土にまみれるなんて。でも皇后さまを見ていたら、ちょっと楽しそうだなと思えてきて。しかも陛下まで鍬を持っているんですもの」


 後宮の空地だった場所は次々と畑になった。広くはないが、食料不足の時にこの畑が役に立ったことは事実だ。子供たちと共にとても生き生きと鍬を持つ玉祥の姿が目に焼き付いている。

 悔しいけれど、昭儀には玉祥にあのような顔をさせる方法が一つも思いつかない。


「ところで、徳妃さまはこれからどうされるおつもりですか?」

「少なくとも下の子が嫁ぐまでは、このまま後宮で陛下と皇后さまをお支えしたいと思っているの。その先はどうかしら、明確に決めてはいませんけれど、やっぱり同じようにしている気がしますわ。陛下が退位されることがあれば、わたくしも外へ出てのんびり余生を送ろうかしら」


 徳妃は第四子に待望の女児を授かり、今はまだ、安世と共に子育て中だ。

 玉祥が望まない限り、これ以上子を儲けるつもりはない。妃である以上高らかにそれを宣言することはできないが、玉祥と珠蘭は承知している。


「徳妃さま、陛下と皇后さまを頼みますね」

「昭儀からそのような事を頼まれるとは思いませんでしたわ。しかも陛下だけでなく、皇后さまも入っているのですね」

「わたくしにとっては非常に残念ですけれど、今もし皇后さまがいなくなることがあれば、陛下は、と思うと……」

「身震いしますわね」

「そうでしょう? わたくしでさえもそう思いますもの」


 顔を見合わせてフフッと笑う。

 もし珠蘭が皇后にならず、昭儀が皇后の座についていたとしたら、今こうして穏やかに笑えていただろうか。少なくとも、今のような玉祥の笑顔は見られなかったに違いない。悔しいけれど。


 昭儀は再び湖に目を向けた。キラキラと輝く湖面を見て、未来に思いを馳せた。




 玉祥と珠蘭は街に出ていた。

 もう何度も二人はこっそり街歩きを楽しんでいる。玉祥は慣れたもので、庶民服も板についてきたと思っているらしいが、珠蘭から見れば全くそんなことはない。たぶんどこかのお偉いさんのお忍びだとバレている。


「穀物の価格は安定してきたようだな」

「えぇ、良かったです。これからは少しずつ生活水準を上げられそうですね」

「そうしなければな」


 少し前に起こった黄国との戦の影響で、まだ物価が安定しているとは言いにくい。それでも食べ物だけは何とか早急にと対策を取ってきた結果、なんとか餓死者は出さずにすんでいる。


「あ、見て下さい。新しいお店でしょうか?」


 前にここを訪れた時には何もなかった一角に、数件の屋台がひしめき合っていた。人の数も多い。

 玉祥は「行くぞ」とだけ言うと、珠蘭の手をぎゅっと握り直した。お互いの腕に着けているのは、かつて街で買った色違いの腕輪だ。


 お饅頭を並んで買い、果実水を飲んだ。あの頃と変わらない、もしかしたらそれよりも活気のある街を眺め、微笑み合う。


「皆、笑ってるな。お前のおかげだ」

「玉祥さまの日頃の成果ですよ。……そろそろお時間が」

「もうそんな時間か? 仕方がない、戻るか。また近いうちに来よう」

「はい、そうしましょう」



 宮城へ戻ると、またそれぞれの業務が待っている。戦で増した領土を守るため、玉祥は常に忙しい。


 数年前に黄国から仕掛けられた戦は、朱国の勝利で終わった。

 その間、敵国となった黄国の公主であった珠蘭は皇后に相応しくないと糾弾され続けたが、玉祥が手を離すことはなかった。珠蘭も朱国の皇后として、朱国と玉祥の為に働き続け、朱国の勝利に貢献した。


 黄国はなくなり、領土も人もそのまま朱国に吸収される形となった。それがスムーズに行われたのは朱国の皇后であり続けた、元黄国公主の珠蘭がいたためである。そしてそれは、誰が何と言おうと珠蘭を信頼し、皇后として隣に置き続けた玉祥の功績である。


 その二人が並んで宮城の門の上に姿を現わすと、国民たちは歓喜の声を上げた。



 珠蘭は皇后として後宮を取りまとめながら、表の仕事も少し手伝うようになった。玉祥の宮で共に仕事をする日も少なくない。今はまだ難しいが、今まで身分上難しかった人材の登用を進めていく考えだ。その中には、女性や奴婢も含まれる。珠蘭が率先してそれをやるのは、いい見本になる。女性であるし、公表されることはないが、奴婢でもあったし。


 とはいえ、一緒に仕事をするには問題も少し。


「陛下、手が止まっていらっしゃいますよ」

「お前に見惚れてた」

「わたくしは凛とした顔で執務をする陛下に見惚れたいので、手を動かしてください」

「うむ」


 背筋を伸ばす玉祥に、全忠は笑いを噛み殺す。近しい人しかいなくなった途端にこの有様だ。普段鬼のように仕事をさばいていく人だとは思えない。そろそろ休憩にするべきか、と全忠は頭を働かせる。


「わたくしがいるとはかどらないようでしたら、戻りましょうか」

「そんなことないぞ」


 慌てて書類に向かい合った。お茶と菓子を出すのは、もう少し先にしよう。



 仕事が終わると、二人そろって仲良く後宮へ戻っていく。玉祥は夜にあまり自分の宮を使わない。朝、珠蘭の宮から出勤して、仕事が終われば珠蘭の宮へ戻る。使うのは、どうしても忙しい時と、やむを得ない事情のある時だけだ。


 後宮は珠蘭と徳妃により恙なく運営されている。戦で領土が増えた影響で、人質目的で送られてくる姫が増えたことにより、一時的に侍妾の数が増加しているのでたまに騒がしいが、玉祥はどこにも行かないのでまたすぐに減るだろう。


 入ってきたときに意気込んでいた侍妾たちも、一年経つ頃には諦め、二年で悟り、落ち着いて後宮から出ていくのが最近の流れだ。



 戦が終わった頃、葉の下女仲間だった静が死んだ。下女としては長生きだった。最終的に下女長という役割を担っていた彼女に、珠蘭は皇后の立場でお悔みを述べることができた。それだけ後宮の中で下女の立場が改善したのである。身分を変えることまではできていないが、著しく不当な扱いを受けることはない。


 後宮に限らず、奴婢の待遇改善は玉祥と珠蘭がほんの少しずつ進めている。珠蘭が葉の記憶を語った時に言った「奴婢に優しい法でも作ってください」という言葉を玉祥はずっと忘れることはない。


 なお、これはずっと先の話になるが、玉祥の後を継いだ次の皇帝が、奴婢という身分を撤廃する。廃したところですぐに待遇が変わるわけではないが、珠蘭の望んだ「わたくしのような思いをする奴婢が減るように」という願いは、少しずつ叶えられようとしている。


 ちなみに、玉祥の後を継いで即位したのは、玉祥と珠蘭との第一子だ。父皇帝と母皇后の嫡子として二人の人気を存分に引き継いだ彼の治世に、朱国はますます栄えることになる。

 どうでもいい偶然であるが、皇帝の座を継いだ珠蘭との子は玉祥にとって五男であり、玉祥自身もまた先帝の五男だった。



 〇



「ちちうえ、おかえりなさい」

「おかえり、さい」

「あぁ、ただいま」


 子供たちが出迎える中、仕事を終えた玉祥が珠蘭の宮へ戻ってきた。賑やかな泣き声が聞こえてくる。


「お出迎えできなくて申し訳ございません。ちょうど泣いてしまって」

「いや、問題ない。今日も元気にしてたか?」


 珠蘭の抱く生まれてまだ二月の赤子に話しかけてみる。それで泣き止む、はずもなく。貸してみろ、と赤子を受け取ってあやしてみるが、泣き声は大きくなるばかり。玉祥は苦笑する。


「どうやらとても元気なようだ」

「ふふっ、そうですね。何よりです」


 泣いていても可愛いとばかりに玉祥はしばらくそのままあやし、ほっぺを突いてまた泣かせ、少し落ち着いたところで珠蘭に戻した。眠かったのだろう、それからすぐに泣き声は小さくなり、目を閉じた。珠蘭は起こさないように、そっと乳母に渡す。今日は成功だ。


「手慣れたものだな」

「もう五人目ですから。玉祥さまこそ、子の扱いが上手くなりましたね」

「そうでもない」


 苦笑する玉祥の横には、赤子が眠るまでは別室に追いやられていた子らが戻ってきて、「ちちうえ」「ちーうえぇ」と騒いでいる。玉祥が皇帝だということをまだ理解できない小さい子供たちは、その衣を引っ張り、冠で遊ぼうとする。「こらっ、やめなさい」と一緒に騒ぐ玉祥は、ここでは皇帝ではなく、一人の父であり夫の顔だ。


 寝る時間ですよと子らが侍女たちに連れられていく。珠蘭は二人分の茶を注ぎ一つを玉祥の前に出すと、腰かけてふぅと息を吐いた。ようやく少し、落ち着ける時間だ。


「疲れているな」

「それは、まぁ、赤子と子供がいれば仕方のないことです。わたくしの体調も安定してきましたので、少しずつお仕事に戻ろうかと思っているところですよ」

「いや、もう少し休んでいてもいいぞ。こちらはあまり忙しくはないから大丈夫だ」

「ここにいてもなかなか休めないのですけれどね」

「そうだよな。少し落ち着いたら、また二人で抜け出そうな」

「子供たちも、いずれそうするようになってしまいますよ?」


 笑いながら、ふと外に視線をやった玉祥が、いきなり立ち上がった。


「珠蘭、ちょっとだけ付き合え」

「付き合えって、どちらへ?」

「外。少しだけだ」


 なんか以前にもこんなことがあったなと思いながら、珠蘭はそれに従う。いきなり出てきた二人におや、という顔をした全忠を置いて、玉祥は珠蘭の手を握って外へ出た。


「どこまでいくつもりですか?」

「ちょっとそこまで、いや、もうここでいい。上を見てみろ」


 大きな満月だった。紺色の空にぽっかりと浮いている。どうりで夜にしては明るい。


「綺麗ですね」

「あぁ」


 月が輝いているから、星たちは今日はお休みしているようだ。かつて見た満天の星空はそこにないけれど、また違った美しさに目を奪われる。


 あの月の美しさに到底届かないことはわかっているけれど、まるで今の自分たちのようだな、と珠蘭は思う。いつもはたくさんの人に囲まれてどこかしらから誰かに見られているけれど、星のない月のように、今は二人だけ。満ち足りたような、まんまるの月だけ。


 同じ空を見上げていた玉祥が、ふとこちらを向いた気配がした。珠蘭も顔を向けると、すぐに目が合った。


 もう五人の子を産んだ。充分に心変わりできるだけの時間も経っている。だけど、玉祥は珠蘭を愛おしむように見ている。それは、あの星空の下で見た顔とずっと変わらない。それが嬉しくて見つめ返すと、玉祥はちょっとはにかむように笑った。


「玉祥さま」

「ん?」


 玉祥の胸に手をつき、つま先立ちになってふわっと伸びあがる。そのまま玉祥に自分の唇を合わせた。理由はない。ただ、そうしたい気分だった。


 少しの時間で離れたそれは、またすぐに合わせられた。玉祥から、今度は長く。


 顔が離れると、自然と笑みが零れた。幸せだな。そう思った。そして、玉祥もそう思っているだろうなと思った。傲慢かもしれないけれど、今は同じことを思っている気がした。

 珠蘭は約束を破らない。心から慕うのは玉祥だけだ。そして、きっと、破られることもない。そう信じられることが、幸せだ。


「戻ろう」

「はい」


 二人は繋いだ手を離さぬまま、また宮へ戻って行く。

 月明かりがそんな二人を、後宮を、優しく照らしていた。

これで完結です。


いいねやブックマーク、評価、感想、ありがとうございました。とても励みになっていました。最後まで書けて幸せでした。

お読みくださり本当にありがとうございました!

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― 新着の感想 ―
とても面白かった。文章も美しく読みやすい、内容も起承転結もきちんとあって、書籍化コミカライズしないのが不思議。きちんとした小説だ、違和感なく世界観に没頭できた。
[良い点] 読ませていただきました。 陛下はお優しい方なのだなと読んでいて思います。 普通の皇帝は、下女が冤罪で殺されたとしても何も思わないだろうなと思いますが、陛下は皇后様が絡んでいるからというのも…
[良い点] 唐朝風ファンタジー作品は数あれど、まさかまさかの下女のおばちゃんからの転生はビックリしました…いやどうやって話膨らませるねん、と。 しかし蓋を開けてみれば後宮の閉鎖性をうまく活かし、見事に…
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