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63.約束

「陛下、お話したいことがあるのですけれど、よろしいですか?」

「改まってどうした?」

「貴妃のことなのですけれど」


 夜に珠蘭の宮に来た玉祥に、酒を出す前に話を切り出す。


「貴妃ももう十七になりました。そろそろ放っておいては問題になる年頃でしょう」

「……そうだな」


 後宮に入ってきた侍妾たちをせっせと外へ出している玉祥だが、李家本家の姫という身分を持つ貴妃にはそれは難しい。何の非もないのに実家に戻すわけにもいかないし、その高い身分では下賜先もない。あるとすれば皇族くらいだが、玉祥の弟たちにはすでに正妻がいる。それよりも遠縁となると、身分上難しいだろう。


 他に候補にできるところといえば他国の皇族くらいだが、行ったことも会ったこともない他国の皇族の元に送られるくらいならば、今の環境のほうが貴妃にとってもいいに違いない。


「行かないわけにはいかないよなぁ」

「そうですよね」


 玉祥が乗り気でないことは珠蘭にとっては救いだが、すでに李家からは皇后を寵愛するばかりで貴妃を蔑ろにしていると言われ続けている。玉祥は皇帝としての立場を盤石にしつつあるが、国内最大派閥である李家の反感を買うことは避けるべきところだ。


「わかった。貴妃が大丈夫であれば、近いうちに訪れようと思う。お前はそれでいいか?」

「……はい」

「ならば、お前からも話しておいてくれ。皇后から伝えるほうがいいだろう」


 いいかと聞かれたら、いいと答えなければならない。良くなくても、そうしなければならないのだ。



 翌日の朝の会を終え、貴妃に残ってもらった。貴妃には仕事もいくつか担ってもらっているし、毎朝顔を合わせるので珠蘭と話す機会は多い。どこか遠慮がちながらも珠蘭のことを素直に慕ってくれている貴妃は、珠蘭にとって妹のような存在になりつつあった。

 少し雑談してから、本題を切り出す。


「貴妃は美しくなりましたね」

「皇后さまにそう言って頂けるとは恐縮です」

「そろそろ陛下のお渡りがあるべき頃合いかと思うのだけれど、貴妃は務めを果たせそうかしら?」


 貴妃の身体がピクリと動いて強張ったのがわかった。陛下のお渡りはないのかとしきりに騒いでいる侍妾たちと違って、貴妃が自分から何かを言うことはなかった。今のこの表情からも、特別に喜んでいるとは感じられない。


「強要するつもりはないのだけれど、この後宮で過ごしていく以上、陛下のお渡りを受ける方が貴妃にとってもいいとは思いますよ」


 冷遇しているわけではないと分かる程度に玉祥が貴妃のところへ通い、できることならば子を儲ければ、貴妃の立場は安定する。珠蘭の気持ちはさておき、今置かれている現状の中ではそれが貴妃にとっていいだろうと珠蘭も玉祥も思っている。


「でも、もし忌避感があったり何か不安があるのであれば、陛下にはそうお伝えしましょう。咎めるつもりなどありませんから、嫌だったらそう言ってくれてかまいませんよ」

「そういうことは、ございません」


 少し不安そうには見えるけれど、誰でも最初は怖い気持ちがあるだろう。かつての珠蘭のような激しい嫌悪感でなければ大丈夫なはずだと思う。あまり歓迎している感じではないが、嫌がっているようではないようなので、話を進めることにした。


「では、陛下に勧めてみますけれど、大丈夫かしら?」

「かしこまりました」



 それから数日後。

 今宵は玉祥が来ない。貴妃のところへ行っているからだ。


 窓から月が見える。ちょうど半分に割ったような半月だ。珠蘭の気持ちとは裏腹に、夜空は紺色に澄んで美しい。

 考えないようにすればするほど、考えてしまう。今ごろ玉祥は貴妃の宮で、彼女を抱いているのだろう。


 わかっているのだ。必要であることも、これが務めであることも。

 だけど、こんな夜に慣れることは、できそうにない。


 気を紛らわせようと、本を手に取った。最近流行りだという物語らしい。途中までは読み終えていて、続きが気になっていたはずだった。それなのにどうにも文字は頭に入ってこない。


 ぽとり。


 ひとしずく落ちてしまったのは、どうやら珠蘭の涙らしい。慌てて本を避ける。汚しては大変だ。


 ぽとり。ぽとり。


 今度は机に落ちた。後で拭かなくちゃ。


 考えることができたのは、そこまでだった。一度流れ出した涙は止まらない。

 どうせ今宵は玉祥がこない。思いっきり泣いたところで、明日にまで響くほどでなければ問題ないはずだ。


 どれくらいそうしていただろうか。ふいに顔をあげれば、半月はまだそこにいた。美しくて、憎らしい。あの月のように、残りの半分がなくとも悠然と静かに佇んでいられたらいいのに。



 バタバタと足音が聞こえ、珠蘭は慌てて涙を拭いた。


「娘娘、陛下がいらっしゃるそうです」

「え、どうして?」

「わかりませんけれど、もうこちらに向かっているとか」


 明明から知らせを聞いて、急いで衣を整える。濡れた布をもらって目元を少しだけ冷やすと、出迎えるために外へ向かう。もうそれなりの時間だ。何かあったのだろうか。それとも、ことを終えて、寝るためにここへ来るのだろうか。


 外へ飛び出すと、ちょうど玉祥たちが来たところだった。形だけの挨拶をする。


「陛下、一体どうしたのですか?」

「とりあえず、中へ入れてくれるか?」

「……はい」


 玄関に向かって横を通った玉祥から、この宮の香りでも、玉祥の宮の香りでもない匂いを感じる。それに胸が痛んで、今日はお戻りくださいと言いたくなった。


「今日はいらっしゃらないと思っていましたから、何の用意もありませんよ」


 ちょっと声が尖った自覚がある。いけないとは思いつつ、それでも他の女の匂いのついた玉祥に優しくできるほど、珠蘭の心は穏やかではなかった。わかっているし、納得もしている。なにより貴妃の元へ行くようにと言ったのは珠蘭だ。だからここにあるのは、ただ醜い感情だけ。


「お茶くらいなら出しますよ。それともお酒がいいですか?」

「茶で」


 顔を見られたくなくて、自分で茶器を取りに行く。俯いたまま注いでトンと玉祥の前に置くと、すぐに顔を背けた。


「なんだか今日はとげとげしいな。何かあったのか? もしかして、俺が貴妃のところへ行ったからか?」


 揶揄うような口調に腹が立つ。それがわかっていて、わざわざここに来たのだろうか。

 そのまま何も言わずにつまみを取りに行こうとすると、玉祥に腕を掴まれた。


「おい、本当にどうかしたのか?」


 今度は揶揄うようではなく、心配しているような声色だ。引っ張られて、目が合った。玉祥はぎょっとした顔をしている。

 あぁ、もう。


「目元が赤い。泣いていたのか? 何があった」

「何もございません」

「珠蘭、もしかして、本当にそうなのか? 俺が貴妃の……?」


 ガタッと立ち上がった玉祥が、珠蘭を引き寄せた。いつもならばそのまま胸に納まるところだけれど、珠蘭は思わず玉祥の胸を手で押していた。明確な拒絶だ。


「それがわかるならば、どうしてここに来たのですか?」


 キッと睨むと、玉祥は目を丸くした。そして本当にわからないとでもいうように、珠蘭を覗き込む。


「もしかして、だが、妬いてくれてるのか?」

「……妬いてますよ、ものすごく。理解はしているのです。陛下はわたくしが独り占めできる方ではないって。だけど、本当は、わたくしだけのものにしたくて、他の女のところになど行かないでほしくて」


 駄目だとわかっているはずなのに止まらなかった。さっきいっぱい泣いたはずなのに、悔しくて、また視界が滲んでくる。


 グイっとすごい力で引っ張られて、玉祥の胸に納まった。じたばたと動いてみても抜け出せない。


「放して下さい。別の女を抱いてきた腕に、抱かれたくなどないのです」

「嫌だ」


 嫌なのは珠蘭のほうだと叫びたい。しばらく抵抗していたけれど、玉祥の力が弱まることはなかった。当然玉祥の方が力が強い。珠蘭がいくら頑張ったところで、玉祥に放す意思がないならば抜け出せない。

 ふっと肩の力を抜く。悔しい。何が悔しいかって、他の宮の匂いがするのに、すごく嫌なのに、この腕の中が嫌じゃないことだ。


「お前がそんなふうに思ってくれているとは思わなかった」


 珠蘭の気持ちはささくれ立っているというのに、降ってきた声はなぜか嬉し気だ。本当に腹が立つ。


「だってお前、皇后の職務に忠実だろ。しょっちゅうこの娘はどうだあの侍妾はどうだと書類を見せてくるし、身ごもれば自分は相手ができないから他の宮へ行ってはどうかと言ってくるし、貴妃の件だって、お前から言われたから訪れることにしたわけだし」


 全て正しい。珠蘭だってやりたくなかったけれど、そうしてきた。それが皇后の務めだから。


「俺は仕方がなく重い腰を上げたというのに、お前は皇后として当然だとばかりに凛と澄ました顔をしているし。俺がどこの宮へ行こうが、気にすることなどないのかと思っていた。なのに、泣くほど嫌がってくれていたのか?」


 さらに腕に力がこもった。ちょっと苦しいのと、そう言われて顔に熱が上ったのと、もう感情がごちゃごちゃだ。玉祥も鼓動が早い。「あぁもう、かわ……っ」というわけのわからない呟きと共に、勢いよく吐き出された息が頭に掛かる。

 何度かゆっくりと大きく呼吸して、玉祥は腕の力を少し弱めた。その隙に逃げ出すことはできたかもしれない。だけど、珠蘭はどうしてか動けなかった。


「今日、善祥から急ぎで会いたいという申し入れがあってな。何かあったのかと通して話をきいたのだが」


 善祥とは、玉祥と徳妃の長男だ。もうすぐ十ニ歳になる。第一皇子として生まれた彼は幼い頃から周囲の期待を背負って成長し、年齢のわりに大人びてしっかりしている。徳妃はそれを心配していたが、珠蘭からみたら自分の子にもこうあってほしいと思えるような立派な少年だ。


「成人したら貴妃を自分にくれ、と言ってきた」

「えっ?」


 徳妃の宮でお茶会をした時など、よく二人で過ごしている様子を見ていた。貴妃が入内して間もないころは、幼さの残る貴妃と大人びた善祥がまるで同じ歳のように遊んでいて、相性がいいのだなと微笑ましく思っていたのだが。


「そ、それで?」

「すごい覚悟を決めたような、思いつめた顔だった。どこかで今日俺が貴妃のところへ行くことを聞いて慌てたんだろう。貴妃にも意向を確認した上で、双方がそのつもりであって、善祥が成人するまで気が変わることがないのならば考える、と答えておいた」


 まだ子供だと思っていたが、と呟きながら、玉祥はクッと笑った。

 彼が成人するまであと三年。それまで待てば、貴妃は二十歳を越える。


「貴妃にも聞いたのですか?」

「先ほど貴妃の宮を訪れて確認してきた。しばらくは言ってもいいものかと悩んでいるようだったが、もし許されるならばそれを望む、だそうだ。貴妃は身分が身分だから下賜先などないと思っていたが、相手が皇子ならば悪くない」

「えっ、でも、年齢差……」

「俺とお前の差と同じくらいだろ?」

「そうかもしれませんけれど、それは、どうなのでしょう」


 男が五歳ほど年上なのと女が五歳ほど年上なのでは、かなりの違いがあるような気がするが。


「まぁただ、子供の憧れのようなものである可能性もなくはないだろうから、まだ何とも言えない。とりあえず貴妃にもその意向がある以上、今宵俺が急いで手をつけるのは良くないだろ?」

「あ、えっと、そうですね?」

「だから、貴妃とは何もなかったぞ」


 そっか、何もなかったのか、と思った瞬間、全身から力が抜けるのを感じた。大きく息を吐いて、もたれかかるように全身を玉祥に預ける。


「わたくし、思った以上に独占欲が強いみたいです。してはいけないと本には書いてあったけれど、心の中は醜い嫉妬だらけです。本当は、皇后失格なのですよ」

「もしお前がそう思う事が皇后失格なら、俺も皇帝失格だ。こちらの教えは、多くの女を愛してたくさんの子を儲けろ、だからな。できる気がしない」


 玉祥がフッと笑った気配がして、珠蘭もまた少し顔を歪ませて笑う。


「なぁ珠蘭、俺は皇帝だから、これからもそういうことはあるかもしれない。どこか別の宮へ行かねばならない日もくるかもしれない。ここにしか来ないと言いたいけれど、言えない」

「そうでしょうね」

「でも、俺が触れたいと思うのはお前だけだ。望んでそうするのはお前だけだ」


 玉祥の少し早い鼓動が聞こえる。この人は、嘘は言わない。知っているから、嬉しくて、苦しい。

 

「皇帝として、俺はやりたくないことだってやらなきゃいけない。皇帝としての体はお前のものだけにはできない。だけど、皇帝としてじゃない俺の心には、お前だけだ。この先ずっと、お前だけのものだ。約束する」


 涙が溢れた。このままでは玉祥の衣が濡れてしまうとわかっているのに、止めることができない。


「俺が約束を破ったことがあったか?」


 声にならなくて、ただ首を横に振る。玉祥がどれだけ律儀に約束を守ってくれるか、怖いほどによく知っているから。疑う余地なんて、ひとつもない。


「そんな約束、してしまっていいのですか?」

「いいに決まってる。言っとくけどな、お前もだぞ。お前には、俺だけだ。いいな? 約束しろ」


 後宮に入れる男は皇帝だけ。玉祥以外、ありえない。

 でも、たとえそうでなかったとしても、やっぱり玉祥以外、ありえない。


「いいに決まっています。約束します」


 変わらずに悠然と佇む半月が、窓の外から静かに二人を見下ろしていた。

次回、最終話です。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  他の妃の所へ通うのが悲しいの、悔しいのといった事まで話せる。  俺もそうしたくなくても、そうせざるを得ない事があると返す。  はあ……。本来、そんな事は話せないだろう事まで話せるよう…
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