62.妬心
春の後宮は慌ただしい。任期の終了及び新規採用が春だからだ。後宮を出る人の引き継ぎに入ってくる人の教育。出ていく侍妾たちの手続きやら入ってくる妃嬪候補の準備。毎年のことなのに、やっぱり毎年どこかで混乱は起こるものだ。
人員の移動に合わせて組織を少し変えたり、それに合わせた人事の見直しなども珠蘭が中心となって行っている。
さらに加えてこの春の始めには三年に一度行われる選秀女という皇帝の妃候補を選ぶ試験があり、皇后として珠蘭は大忙しだ。
その選秀女が行われる日。
後宮の一つの宮に、試験を受ける女性たちが集められていた。教養、舞いなどの試験を受けて一定のレベルに到達していると認められた者が、最終試験として皇帝と皇后の前に立つことができる。
今は楽器の試験が行われているらしく、音色が聞こえてくる。それに合格した女性たちがこれからここへやってくるはずだ。
「選秀女なんて、やらなくていいのに」
「そういうわけにもいかないのですよ」
「合格者なしでいいぞ」
自分の妃候補を選ぶ試験だというのに、玉祥は机に片肘をついてつまらなそうにしている。前回の試験は皇帝として即位から間もなくまだ忙しい玉祥と、皇后として日の浅かった珠蘭に代わり、皇太后たちが選んだ。その時は、珠蘭の意志どころか、玉祥の意志さえも全く考慮されなかった。その李皇太后は幽閉されたし、余皇太后は体調が思わしくないので参加していない。代わりに皇后と貴妃、徳妃が審査員として座っている。
「陛下、気に入った女性がいたら教えてくださいね。わたくしが落として差し上げますから」
「おい、それは思っても言っちゃ駄目だろ」
「そのお言葉、そっくりお返しします」
合格者なしでいい、とか言っておきながら、珠蘭が候補者を落とすのは駄目なのか。
フン、と意気込んで言うと、徳妃はクスクスと笑った。
貴妃は所在なさげに微笑んで大人しく座っている。
実際のところ皇帝が気に入ったとなれば即入内となるのだが、一応は後宮の人事権は皇后にある。皇后の了承がなければ妃嬪候補にはなれない、ということになっているし、何事にも思慮深い玉祥が、一目会っただけの女性を気に入ったという理由だけで入内させるとは思えない。その点については信頼しているはずなのに、それでも珠蘭の心には不安があった。
もしかしたら、玉祥の好みの女性が現れるかもしれない、という思いが消えない。
最近、珠蘭はこのモヤモヤした気持ちを持て余している。皇帝の周りに多数の妃嬪がいるのは当たり前のことだし、夜ごと違う妃嬪のところへ渡っては多数の子を儲けるのが皇帝の務めでもある。皇后としてはそれを喜ばなければならないのに、今日だって気に入る妃嬪候補を率先して見つけるべきだし、もし好みの女性が現れれば喜ぶべきなのに、それができそうもない。
気を取り直して、もうすぐ来ますよ、と珠蘭は態度を崩している玉祥の脇をつつく。スッと背筋を伸ばして表情を取り繕った玉祥の横で、珠蘭も皇后の顔になった。
「丁家の娘、歳は十六……」
宦官が候補者の家柄と名、歳などを読み上げると、候補者が入ってきて礼を取る。
「皇帝陛下、皇后さまにご挨拶を申し上げます」
「楽になさい」
それから少しの問答を経て、また次の候補者へ移る。この選抜に参加している女性たちは皆、良家の娘だ。といっても貴妃のように実家の後押しだけで入内できる身分ではなく、下級から中級の貴族の娘なので、皇帝に見初められることがあれば万々歳。そうでなくても合格できれば箔が付き、戻されても格上の家柄に嫁げる可能性が高くなる。だからどの娘も気合が入っている。
それにも関わらず、審査する皇帝と皇后がこの様子。なんだか申し訳なくなってしまう。
結局三名の合格者を出した。最終的に選んだのは珠蘭だ。玉祥は皇后の職務は基本的に珠蘭に任せてくれている。素養が良く野心のない娘で、任期を終えたら外に出せる女性ならばいいらしい。その基準はどうなのだろうと思わなくもない。
選秀女の合格者三名と国内の部族から人質を兼ねて送られてきた姫一人が侍妾として後宮に入り、五人が出ていった。その中には九嬪の位を得ていた充儀も含まれる。
「納得はしてもらったが、泣かれた」
玉祥がそう言っていたのは冬のある日。やはり玉祥は数々の女性を泣かせている。下賜される相手が見つかった充儀は今期に、次の春には修儀も後宮を出ることが決まっている。
二人が出ると誰もいなくなってしまう九嬪の位に、淑妃から降格していた李婕妤がつくことになった。九嬪の中で一番下である充媛の位だ。これから順を追って、九嬪の筆頭まで上げる予定である。今のところ、四夫人に戻すつもりはない。
一度床を共にしてから、玉祥は二日と開けずに珠蘭の宮へ来ていた。そうなる日もあればならない日もあったが、珠蘭は玉祥と共に過ごせる時間に幸せを感じていたし、玉祥もそうであったはずだ。
そして忙しい春を切り抜け、季節が夏に移り変わる頃、珠蘭の懐妊がわかった。
玉祥は飛び上がって喜んだ。珠蘭ももちろん純粋に嬉しかったし、こうして玉祥が喜んでくれていることが何よりも幸せに感じた。ようやく皇后の務めの一つを果たせるという安堵感もあった。
同時に、葛藤もあった。
徳妃が懐妊中のことを思い出せば、玉祥は見舞いにはきてくれるだろう。だけど、今までのように頻繁に珠蘭の宮で夜を過ごすことはないかもしれない。
何より、妊娠中は相手ができない。とすれば別の女性の元へ通うかもしれない。むしろ皇帝としてはそうあるべきだし、皇后はそれを勧めなければならない。
「男の子だろうか、女だろうか。どちらでもかまわない。きっと可愛いだろうな。名前は何にしようか」
「気が早いですよ」
「どうした? 浮かない顔だな。嬉しくなかったか?」
「いいえ、嬉しいに決まっているではありませんか。でも初めての妊娠ですから、不安もあるのですよ」
「そうか、そうだよな」
「でも近くに徳妃がいますから大丈夫です。きっと元気な子を産みます」
珠蘭の心配は杞憂に終わった。
妊娠中でも玉祥は変わらずに珠蘭の宮に来たし、同じ寝台で朝を迎え、仕事へ行ってはまた夜に戻ってきた。珠蘭は一応皇后としての務めで「他の宮へ行かなくてもいいのか」と聞き、玉祥が不機嫌になるのを内心で喜んでしまう日々を過ごした。
そして月が満ち、珠蘭は無事に男の子を産んだ。
玉祥は泣くほど喜んだし、嫡出の皇子の誕生に国全体が湧いた。
それから二年。
珠蘭は二人目の子を身ごもっていた。それでも変わらずに玉祥は珠蘭の宮で過ごすことが多く、夜に他の宮へ通うことはなかった。
そんなある日、朝の会を終えた珠蘭は憂い顔で庭園を散策していた。溜息をひとつ零したところで徳妃に声を掛けられた。
「皇后さま、何かございましたか?」
徳妃にはいつも助けられている。特に子ができてからは助言をもらう事も多く、二人の結びつきは強くなった。身分としては珠蘭の方が上になるけれど、珠蘭にとって徳妃は信頼できる姉のような存在で、仕事のことも子供のことも、珠蘭の気持ちについても相談していた。
「貴妃のことなのですけれど、もうこれ以上は、と思っておりまして」
「あぁ、そうですわね」
貴妃はすでに十七歳になっていた。入内当初は十三歳でまだ幼さが前面に残っている子供だったが、小柄ながらも身長も伸び、もう子供とは言えない容姿に成長した。深窓の令嬢として育ったこともあるのか、今でも大人しく慎み深い性格のようで、自分の置かれている境遇に対して何かを主張することはなかった。
だからこそ珠蘭も玉祥も先送りにし続けてきたのだが、それもそろそろ限界だ。側室の最高位である貴妃に、理由もなく皇帝のお渡りがない状態が続くのは、誰にとっても良い事はない。
「陛下と貴妃、それぞれとお話しなければならないなと思っていたところです」
「それで、気分が塞いでいらっしゃったのですね」
「わかってはいるのですよ。そうすべきである理由も、それが皇后の務めだということも。でも、駄目ですね、どうしても気持ちだけはついていけません」
ちょうど、皇后が皇帝を独り占めするな、という意見を聞いたばかりだったこともあるかもしれない。その意見はいつものように聞くけれど、今回は特にこたえていた。
「ごめんなさい、徳妃。わたくしの我儘と愚痴を言ってしまいましたわ」
「いいえ、そう感じるのは当然のことだと思いますわ。むしろそれだけ想われて、陛下も嬉しいでしょうね」
「そうでしょうか。悋気の強い皇后だと呆れられているのではないかと思いますけれど」
季節は初夏。昼に近い日差しは、結構強くなってきている。珠蘭は池の近くの長椅子に腰かけると、徳妃に隣を勧めた。
「徳妃も本当はもう一人お子をと考えているのではありませんか?」
少し目を丸くした徳妃は、そのまま池のほうを向いた。答えは返ってこない。ということは、そういうことだ。
「わたくしに遠慮させてしまっていること、申し訳なく思っているのです」
「そんな風には思っていませんわ。わたくしはもう三人も子を授かりました。もう充分に幸せですもの、これ以上は高望みがすぎますわ」
「でも、徳妃、正直に教えて。もし機会があるならば、もう一人子を産むことは考えているのでしょう?」
徳妃は少し考えたあと、小さく頷いた。
「ですが、皇后さま、覚えておいてくださいませ。わたくしにとっては、陛下と皇后さまが心穏やかに過ごされることの方が大事なのです。これは本心ですよ。だから、無理しなくていいのです」
徳妃の表情を読むのは難しい。以前からそれは変わらないけれど、付き合いが長くなる中でだいぶ分かるようになってきた。それから徳妃は嘘は言わない。今言ったこと、それは徳妃の本心だと珠蘭にも分かった。だから珠蘭も、徳妃に感謝を述べた。
いつのまに、こんなに玉祥が好きになってしまったのだろう。
珠蘭は自分の思いと皇后としての責任の狭間で心を揺らしていた。