61.星空
翌々日の夜。
珠蘭がどこかソワソワした気持ちで待っていると、玉祥がもうすぐ来るという連絡が入った。
「娘娘、良かったですね」
揶揄うような明明の顔を、睨めていないような顔で睨む。
来るということは仕事は無事に終わったのだろう。会えることを嬉しく思う気持ちと、疲れているだろうから休んでほしいという気持ちがごちゃまぜになって、なんとも複雑な心境に苦笑する。
それからすぐに玉祥はやって来た。出迎えに外へ出ると、キーンと冷えた冬の空気が頬を刺す。
「陛下にご挨拶を。寒かったでしょう、中へどうぞ」
「いや、少しだけ、来い」
「え?」
「少しだけだ。付き合え」
そう言うと、玉祥は珠蘭の手を取って、宮の外へ連れ出した。出迎えだけの予定だったから、あまり厚着はしていない。慌てて明明が宮に引き返し、上着を取ってくるのが横目に見えた。
「陛下、どちらへ?」
「庭園だ。あまり長いこと行くわけじゃない。ちょっとだけだ。お前に見せたいものがある」
スタスタと歩いていく玉祥に、珠蘭は小走りでついていく。やっと仕事が終わってぐったりしているかと思えば、案外元気そうだ。少し安心する。
途中で追いついた明明に上着を掛けられた。だいぶマシになったけれど、やはり空気は冷たく、吐く息が白い。
庭園に着くと、そこから中に少しだけ入ったところで玉祥は歩みを止めた。さらに進むつもりはないらしい。どうするつもりだろうと玉祥を見ると、彼は灯りをもってついてきた者たちにそれを消すように命じていた。
灯りが全て消えると、足元さえ見えないくらいに暗い。玉祥の顔色もはっきり見えないけれど、ちょっと強く繋がれた手があったから怖くはなかった。
「陛下、何を?」
「上を見てみろ」
言われた通りに見上げると、無数の煌めきが透き通るような紺色の空に散りばめられていた。今夜は月が出ていない。冷たく冴え渡った空気の中で、星々だけが静かに、悠然と瞬いている。圧巻の星空だった。
珠蘭はただ空を眺めながら息を零した。玉祥も何も言わない。ついてきているはずの者たちも、音一つ立てない。夜の静寂の中で、言葉にならない思いが、白い吐息となっては消えていく。意味もなく涙が出そうだ。
どれくらいそうしていただろう。玉祥がわずかに動く気配を感じた。
「どうだ?」
「綺麗ですね。すごく」
「そうだろ? 宮に来る途中で見上げたらこんなのが見えてしまったから、お前にも見せなきゃと思ったんだ」
「あっ」
星がひとつ、すーっと流れて消えた。
「見ました?」
「見た」
「あっ、また」
一つ目を追いかけるように、またひとつ流れて消えた。
暗くてはっきりと顔は見えないけれど、玉祥と見合って、笑った。
「気に入ったか?」
「はい、とっても」
「お前と見れてよか……」
くしゅん。
話の途中なのにくしゃみが出た。玉祥はただ苦笑する。
「寒かったな。戻るか」
そう言う玉祥の手もだいぶ冷たい。
その手にもう片方の珠蘭の手を合わせて、温めるようにさする。
「あと、ほんの少しだけ、このままで」
ずっと見ていたい星空だった。近くに側仕えたちがいることはわかっている。それでも、玉祥と、この奇跡のような星空を二人占めしているみたいだった。
夜空に向かって大きく息を吐き出す。また見られるだろうか。いや、きっとこれから幾度だって見られるはずだ。
「戻りましょうか」
考えてみれば出迎えに外へ出た珠蘭より前から玉祥は外にいる。風邪でも引いたら大変だ。ぽっぽっとまた灯りが灯される。名残惜しむように珠蘭は星空をもう一度見上げ、歩き出した。
「陛下と見られて嬉しかったです。夜の散歩もいいですね」
フッと笑った気配がした。
宮に戻るとすぐに玉祥を湯殿に放り込んだ。そんなに長い時間ではなかったけれど、やはり冬の夜は冷える。
それに、宮に戻って覗き込んでみると、やっぱり玉祥の顔色が良くなかったのだ。連日忙しく業務を行っていたから疲れているのだろう。今日は早く寝かせなければ。
ここ最近はいつもそうしているように、珠蘭が玉祥の背を流す。なかなか手慣れてきたと思っているがどうだろうか。
「冷えただろう。お前も一緒に入るか?」
ふいに玉祥が振り向いて、ニイッと笑って言った。今までだったら目を丸くして慌てて拒否していただろう。玉祥はそれをちょっと面白がっている。
だけど、もう、本当にそうなっても大丈夫な気がした。
同じように悪戯っぽい顔で言い返してみる。
「それも悪くないかもしれません」
「おっ、おい」
自分で言っておきながら急に慌てだす玉祥に、珠蘭はニヤリと笑った。
「でも今日は駄目です。そのひどい顔色を何とかしてからにしてください」
「今日は?」
ザバーッとお湯を掛ける。
「お前、ちょっと雑じゃないか?」
「丁寧なのがお好みでしたら、全忠に頼んでください」
「いや、あれも結構雑だ」
なら他の妃嬪に、とは言いたくなかった。他の宮で湯浴みしているところとか、想像したくない。
湯から上がった玉祥の髪を丁寧に拭き、疲労回復に用意した薬湯を渡す。「苦い」と文句を言いながら飲んだ玉祥を褒め、寝台に転がした。灯りを消していつものように隣に滑り込むと、玉祥は不貞腐れたような声を出した。
「俺をさっさと寝かしつけようとしてるだろ」
「お疲れのようですから」
「疲れていないわけじゃないが、大丈夫だ。せっかく来たのだから、もっとこう、話をするとか、俺の愚痴を聞くとかだな」
「明日聞きます。おやすみなさいませ」
相当疲れていたのだろう。強制的に会話を切ってから穏やかな寝息に変わるまで、時間は掛からなかった。
珠蘭は玉祥が寝たのを確認して少しだけ体を起こし、寝顔を眺める。皇帝として執務をしている凛とした顔と違って、寝顔はあどけない。
疲れているにも関わらず来て、星空を見るために連れ出してくれた。
『お前にも見せなきゃと思ったんだ』
鼓動がトクンと跳ねた。
珠蘭は玉祥の頬に、そっと口付けを落とした。
この仕事が終われば余裕ができると言ったのは本当だったようで、翌日は少し早めの時間に玉祥がやってきた。久しぶりに珠蘭の宮で共に夕食を取り、食後のお茶を楽しむ。
「お酒にしますか?」
「うーん、一杯だけもらうか。お前はどうする?」
「わたくしはお茶でいいです」
たわいもない話をして、ゆっくりとした時間が過ぎる。昨日と比べて顔色も良くなった。きっと薬湯を飲ませてさっさと寝かせた珠蘭のおかげだ、ということにしておく。
玉祥が先に湯浴みし、珠蘭も軽く湯を浴び直した。
外を見ると、雪がちらついていた。冷えるはずだ。
「雪か?」
「はい。積もるでしょうか?」
「どうだかな」
「戻らなくて大丈夫ですか?」
「雪の中、追い出すつもりか?」
「滅相もございません」
玉祥の軽く睨むような顔を見て、ふふっと笑う。
「何だ?」
「そういえば、玉祥さまが初めてこの宮に泊まっていったのもこんな日だったなと思い出していました。雪だから早く戻った方がいいと伝えたら、いきなり泊まっていくと言って。あの時はとても慌てました」
二人で寝室に入って、いつものように寝台に腰かける。珠蘭は何となく、いつものように玉祥の肩を揉む。これが「いつものように」となってからどのくらい経つだろう。
玉祥が初めてここに泊った日からもう一年近くが過ぎた。何度も同じ寝台で休んでいるというのに、玉祥は珠蘭に触れようとはしてこなかった。
怖がる珠蘭に「皇后がいいというまで伽はしない」と約束してくれてから、もう一年半にもなる。玉祥は皇帝だ。そんな口頭での約束を違えることなど簡単だったはずだ。それにもかかわらず今までの間ずっと、律儀にも玉祥は約束を違えることなく守り続けてくれている。
「今日も凝ってますね」
「忙しかったからな。でもこれで少し休める」
「よかったです」
玉祥の肩は珠蘭のものよりも広い。練習させてもらっている明明や雲英よりも広い。それから、首も太い。背中も広い。
代われ、と言われて珠蘭が前になった。後ろから肩に触れるその手は温かくて、珠蘭のものよりも大きい。
「冬の間は難しいが、春の忙しい時期を越えたらまた出かけよう。お忍びでもいいし、時間がとれるようなら泊りでもいいな」
「いいですね」
「また違う街を歩いてみたい。あの時みたいな肉饅頭はあるだろうか?」
庶民が並ぶ屋台の饅頭がよほど気に入ったらしい。たしかに美味しかったが、宮にいればいくらでも食べられる肉はあんまり入っていなかったというのに。
「そうだ、庶民が身に着ける帯がほしいと思っていた。俺のやつな。この前一式買ったつもりだったのだが、足りなかったみたいで」
「ではわたくしが手配しましょうか? それとも街に出て選びますか?」
「街でお前が選んでくれ」
「わかりました。では、ふふふ、すごいのを選びましょう」
「すごいのって何だ。目立たないのにしろよ」
「陛下自身が目立ってますから、帯くらいじゃ変わらないと思いますけどね」
何を着たって高貴さが出てしまうのだから、まずは庶民の動きから学んだらいいんじゃないだろうか。
「お前は何かほしいものはあるか?」
「ほしいもの、ですか?」
「別に街で、ということじゃなくてもいいぞ。簪とか衣とか、何でもいい。お前は俺にねだることもなければ、自分で必要以上のものを買うこともしてないだろ?」
「そうかもしれませんね。昔と比べたら物がありすぎて、特に不便だと感じていないからでしょうか」
「たまには言ってみろ。俺があげられるものならば、何でもいいぞ」
うーん、と珠蘭は思案した。ほしいもの、これといって思い当たらない。元々着飾ることにはあまり興味がないし、宝石なども最低限持っていればいい。
「あ、また野菜の種と苗が欲しいです。新しい種類を試してみたいなって」
「苗」
「そういえば、鍬がちょっと欠けてしまってるんですよね。まだ使えるとは思ってたんですけど、ほしいといえばほしいかも」
「お前、皇帝にねだる物がそれなのか?」
いつの間にか肩もみをやめて横に座った玉祥が呆れた顔をしている。たしかに、ねだるものじゃない。でも玉祥は、「わかった、鍬と苗と種な」とただ笑った。
その呆れを含んだ笑った顔を見て、珠蘭の鼓動が早まった。
珠蘭がほしいもの。望んでも、いいだろうか。
「もうひとつ……」
「お、何だ?」
「……」
玉祥はちょっと期待の込められた顔で、ん? と首を傾げる。
「口付けをくださいませんか?」
一拍おいて、玉祥の目が丸くなる。聞こえなかったわけではないらしい。
「は? えっと?」
「もう一度言いますか? 口付けがほしいと言いました。駄目ですか?」
「えっ? 駄目っ、じゃ、ないけど」
「それなら、ください」
まっすぐに玉祥を見上げる。
口付けくらい玉祥は慣れているだろうに、どうしてそんなにうろたえているのか。いままでどれだけの女にそうしてきたのだろう。そう考えるとモヤモヤするから、これ以上はやめておこう。だけど、彼にとってそんなに珍しいものでも、難しいものでもないはずだ。
「酔ってるのか?」
「お酒は飲んでませんよ」
玉祥はしばらく珠蘭を見つめ、ゴクリと唾を飲んだ。
「本気か?」
「はい」
「わかった。目を瞑ってろ」
言われた通りに目を瞑ると、肩を押さえられた。それから、ふに、と柔らかいものが唇に触れ、すぐに離れた。
目を開けると近くにちょっと気まずそうな玉祥の顔がある。じっと見つめる。長いまつげ、整った目鼻に薄い唇。少し出ている喉仏は、玉祥が男の人だと示している。
大丈夫そうだ、と珠蘭は思った。鼓動は少し早い。でも苦しさは感じない。
珠蘭は今度は自分から口付けた。少し長く、唇の感触を確かめるように。
焦ったように玉祥が珠蘭を引き剥がした。
「おいっ、何してるんだ」
「何って、口付けです。嫌でしたか?」
「嫌じゃないが、お前……」
玉祥は自分を落ち着かせるように大きく息を吐いた。
「お前を怖がらせたくないが、俺だって男なんだぞ? 愛しく思う女からそんなことされたら、我慢できなくなる」
玉祥の瞳には、焦りと共に少しの熱が宿っている。この熱を珠蘭は知っている。だけど、思った通り、怖さは感じなかった。
それよりなにより、玉祥が珠蘭のことを「愛しく思う」と言った。それが嬉しくて、体中を血が駆け巡るような感覚がする。
「お約束はまだ有効ですよね?」
玉祥はわずかに目を見開き、不貞腐れたような顔をしてプイッと背けた。皇后がいいというまで伽はしない、珠蘭のために玉祥がしてくれた約束だ。一年半もの間、破られることはなかった。
「わかってる。お前は、まったく、残酷な奴だよな」
「いいですよ」
「……は?」
「わたくしがいいというまで、というお約束でしたよね。だから、いい、と言ったんです」
「…………は?」
珠蘭を見つめたまま、玉祥は固まる。
「えっと、いい、と聞こえたが」
「もし玉祥さまが望んで下さるなら、ですけれど、わたくしも望みます。だから、いい、と言いました」
玉祥は頭を抱えてうずくまった。長く息を吐くと、顔を上げる。その目には、さっきよりも濃い熱が宿っている。それを見ても、やっぱり恐怖心は湧いてこなかった。
「大丈夫なのか?」
「玉祥さまなら、きっと大丈夫です」
「きっとって、途中で無理だと言われても止まってやれないぞ」
「いいですよ」
「本当に、いいのか? そこまで煽られたら、俺は……」
何回確認するんですか、と笑うと、ぐっと抱き寄せられた。ちょっと力が強い。
「怖くはないか?」
コクリと頷く。
鼓動が早いのは、怖いからではなくて、きっと別の要因。
腕の力が弱まって、ふっといい香りが漂った。先程湯浴みしたときの香油の香りと、あとはなんだろう。
蝋燭が吹き消されると、長い口付けが降ってきた。
それから迎えた夜は、皇后の務めだからとこなした時とは違って、ましてや我慢していれば終わると思っていたあの頃とは全くの別物で、少しの苦しさと、大きな幸せで満たされていた。
玉祥は当然だけど手慣れていて、それに安心して、悔しかった。そんな玉祥が今までにないような幸せそうな顔をするから、珠蘭は不覚にもまた涙を零してしまった。




