60.菓子を届けに
珠蘭は積み上がった仕事をひとつずつこなしていた。熱を出して五日も休んでしまったのだ。急ぎのものはなかったけれど、春に後宮の人員が大きく動く準備やその他もろもろ、やることはいくらでもある。
玉祥は急ぎの案件があるそうで、数日は来られないと連絡があった。代わりに毎日全忠が様子を確認に来る。
「もう体調も戻りましたから、お気遣いなくとお伝えくださいませ」
そう言ったのだけれど、全忠は毎日やってきた。彼は苦笑しながら「陛下は皇后さまが心配でならないのです」と言った。そんなことを言われたら、少しうぬぼれてしまうかもしれない。
(会いたいな)
ふいにそう思った。顔が見たい。そして、少しでいいから何か言葉を交わしたい。
何日も会っていないというわけでもない。ほんの数日だ。それなのに、どこか寂しいと感じるのはなぜだろう。
玉祥に葉としての過去を話し、大泣きしてから、珠蘭の心はとても軽くなった。今までたまっていた負の感情が流れ出してしまったみたいだった。そこに入り込んできたのは知らなかった感情で、珠蘭は静かに戸惑っていた。
「皇后さまにご挨拶を」
「徳妃、忙しいのに来てもらってごめんなさい」
「いいえ、とんでもない。乳母も安世もいるから問題ございませんわ。それに、我が子は可愛いですけれど、たまには離れたいものなのですよ」
「そうなのですか?」
「ずっと一緒だと気が滅入るものなのです。いずれ皇后さまにもわかりますわ」
この日は後宮の人員についての相談をするために珠蘭の宮に来てもらっていた。後宮の人事についての最終決定権は皇后にあるが、相談に乗ってくれる徳妃がいるのはありがたい。特に今回は、後宮を牛耳っていた李皇太后が幽閉されて初めての春だ。人事は大きく動くことになる。
「こちらの権限の一部を女官長に移動しようかと思っているのですけれど、どうでしょうか? それからこちらは新たに部署を作って、そちらに任せようかと……」
「概ね賛成ですわ。でも、たしかに皇后さまのお仕事は大変かと思いますけれど、あまり移動しすぎるのも危険だと思います。今の仕事量は厳しいですか?」
徳妃は珠蘭に対して、仕事を放り出して怠けるなと言っているわけではない。単に皇后の権力が他に移り、珠蘭の力が弱くなることを心配しているのだ。
「いいえ、このままでも今は問題ないのだけれど、わたくしがもし充分に仕事ができない状態になった時のことを考えたのですよ。今はわたくしと徳妃に職務が偏っているでしょう?」
徳妃は「まぁ」と小さく声を上げ、意味ありげに珠蘭に微笑んだ。その意味がよくわからなくて、珠蘭は首を傾げる。
「それならば、皇后さまがもしそうなった時にどこにどの仕事を任せるか、明確にしておけばいいのではありませんか? 完全に権威を移してしまうのではなくて、そうなったときに移管する場や人を決めておけば問題ないでしょう」
「なるほど」
ある程度の仕事を片付け、お茶と菓子を出した。珠蘭が先に口をつけると、徳妃は菓子に手を伸ばした。その後も次々に菓子を口に運んでいく。それを珠蘭が見ていることに気が付いて、徳妃は手を止めた。
「あら、ごめんなさい。授乳中ってお腹がすくものですから、出していただいたものを節操もなく。お恥ずかしいですわ」
「いいえ、とんでもない。わたくしは嬉しかったのですよ。いくらでも食べてくださいませ」
後宮はどこで誰に狙われるかわからない。毒見として珠蘭が先に手をつけたとはいえ、他者の宮で出されたものをこれだけ気がねなく口にしてくれるというのは、それだけ徳妃が珠蘭を信頼してくれているということに他ならない。
軽く微笑んだ珠蘭を徳妃が覗き込んできた。
「皇后さま、何かございました?」
「何か、とは?」
「晴れやかな顔と、憂い顔を同時になさっていますわ。陛下の事で悩んでいらっしゃるのかしら。それとも陛下と喧嘩でもなさいました?」
ちょっと悪戯っぽく徳妃が言う。慌ててそうじゃないと首を横に振った。
「喧嘩したわけじゃないのですよ。悩んでいるわけでも……いるのかしら? 徳妃から見た陛下はどんな方ですか?」
「わたくしから見た陛下ですか? うーん、何と言ったらいいのでしょう」
徳妃は少しの間、思案する姿勢を見せた。それから、臣下として皇帝のことを尊敬していると言い、あくまで徳妃の私見だと述べた上で口を開いた。
「とても優しい方で、自分のことよりも常に周りの事を気遣っていらっしゃいます。それから思慮深くて、基本的には温厚でめったに怒ることもないですね。でも、もしも怒らせたら大変なことになりそうだと思ったこともあります」
「あぁ、それはわたくしもそう思います」
「ですよね? 絶対に怒らせたら駄目だとわたくしの本能が告げるのです。陛下が本気になれば、これほど怖いものはないと思う事があるのですよ。逆に言えば、味方であればこれほど心強い方もいらっしゃらないと思いますけれど」
幸いまだその本気は見たことがないと、徳妃はホッとするように笑った。
「あとは、何事も客観的に判断できる方だと思います。感情的にならずに、どうするのが最善かを常に考えていらっしゃいますね。それと同時に、ご自身の思いやお心は、上手に隠されていらっしゃるなとも思います」
少し憂うような表情で、徳妃は続けた。
「陛下は強いお方です。でもたまに、危ういと感じることもあるのです」
「危うい?」
「陛下を慕う人はたくさんいます。陛下が信頼する臣下や側近もそれなりにいると思います。だけど陛下は、ずっと背筋を伸ばして、一人で立っているような気がするのです。辛さも苦しさも寂しさも全部隠して、何事もないような顔で」
皇帝という至尊の位につく方としては仕方のないことなのかもしれないけれど、と徳妃は言う。
珠蘭も、あぁそうなんだろうな、と思った。たった一人で立ち続けるのはどれだけ大変なことだろう。即位してから今まで、いや、もっと前からかもしれない、玉祥はきっと、ずっと一人で闘い続けてきた。そして、今も。
「だから皇后さま、どうか陛下を支えてくださいね」
「わたくしが、できるでしょうか?」
「皇后さましかできませんよ。というか、すでにもう、そうされていると思います。わたくしからは、陛下は皇后さまにお心を預けていらっしゃるように見えますわ」
「そうでしょうか」
徳妃はニコリと微笑んだ。
そして、お菓子を大量に持ち、戻っていった。言わなかったが、珠蘭が作ったものだ。気に入ってもらえたようでとても嬉しい。
忙しい玉祥の代わりに全忠が珠蘭の様子を見に来るのは続いている。もう体調は何の問題もないというのに、今日もまたやってきた。
「全忠、陛下はまだ忙しいの?」
「あと少しで終わる予定です。この案件さえ終わればしばらくは余裕ができるはずなので、こちらにもいらっしゃるかと」
「ちゃんと休めているかしら」
無理を重ねていそうな気がして心配だ。
少しだけでも休憩してもらいたいと思うけれど。
「ねぇ全忠、わたくしが茶と菓子をお届けしたら迷惑になるかしら?」
「いいえ、喜ばれると思います」
いやにはっきりとした口調で全忠は言い切る。
それでも珠蘭には葛藤があった。珠蘭の気持ちとしては行きたいけれど、邪魔になってしまうかもしれない。それに、妃嬪は呼ばれもせずに皇帝のところへ行ってはいけないことになっている。皇帝の執務を邪魔したり、むやみに皇帝の目に留まろうとすることを避けるためだ。皇后はその「妃嬪」の枠からは外れているので規則的には問題ないのだが、珠蘭がそうすることで今後やろうとする妃嬪侍妾が出てこないとも限らない。
「雲英、どうかしら?」
「お出ししてすぐに戻れば問題ないと思いますよ」
「では準備しましょう」
雲英がいいというならいいはずだ。ちょうどおやつ時。何も夜に押しかけるわけではないのだし、忙しいならば後でどうぞと置いてくればいい。そう心の中で言い訳して、準備に取り掛かる。
お疲れであろう皇帝のため、という名目にしているが、実際のところは珠蘭が玉祥の顔を見たいだけなのだ。頻繁に顔を合わせているときは何とも思わなかったし、それより以前はむしろ顔を合わせたくないとも思っていたのに。
「明明、わたくしが焼いた菓子はまだあるかしら?」
「ございますよ。今包んできますね」
いそいそと準備を始める珠蘭を見て、雲英は小声で隣の全忠に話しかける。
「先に戻って陛下に娘娘が向かいますと伝えて下さる?」
「えぇ、そうしましょう。陛下はきっと首を長くされるでしょうね」
二人で苦笑し、それぞれの方向へ足を進めた。
「皇后さまがいらっしゃいました」
扉の前に控える宦官が声をかけると、中から「入れ」と玉祥の声が響いた。扉が開けられると、玉祥は文官と思われる数人と共に執務をしていた。
玉祥はチラリとだけ珠蘭を見て、また書類に目を落とした。疑ったわけでは全くないが、忙しいというのは本当らしい。机の上の書類の量からもそれが伺える。
こうして執務をしている玉祥を見ることはめったにない。夜とは違って髪を全て上げて小さな冠をつけ、執務をするとき用の衣を身に着けている。ちょっと憂いを含んだ表情で何かを書きつけている様子は凛々しく、珠蘭の心拍数が少し上がった。
後ろから「娘娘」と雲英の小声が聞こえ、ハッとして礼を取る。
「陛下にご挨拶を。お忙しいところ申し訳ございません」
「いや、かまわない。もう少しできりがいいところまで終わるから、隣の部屋で待ってくれるか?」
「お邪魔になりそうですので、このまま戻ります。茶と菓子をお持ちしましたので、後でお時間のある時にお召し上がりください」
「余はせっかく来てくれた皇后を追い返すほど狭量じゃないぞ。茶を飲む時間くらい共にせよ。それとも皇后の時間がないか?」
「とんでもございません。では、待たせて頂きます」
文官がいるからだろう、皇帝然とした振舞いで珠蘭に接し、珠蘭もそれに合わせる。
優雅に礼を取ると、それを見ていた文官から小さく「ほぅ」という溜息が漏れる。珠蘭はそれを気にすることなく隣室に向かった。
全忠に促されて腰かけると、珠蘭は大きく息を吐いた。
「何かございましたか?」
「陛下はいつもあんな感じで執務をされているのね」
「今は忙しいので効率を重視して文官を呼んで一緒に行っていますが、お一人で執務をされることも多いですよ」
「あまり目にすることのない姿でしたので……」
「見惚れました?」
全忠の揶揄うような調子の言葉に、珠蘭は妙に納得した。そうか、見惚れたのか。そう自覚してしまったら、ちょっと顔が熱い気がしてきた。慌てて気持ちを落ち着ける。
「すまない、待たせた」
静かに扉が開かれ、玉祥が入ってきた。扉が閉まるなり少し姿勢を崩した玉祥は、珠蘭の向かいにドカッと腰かける。
「いえ、こちらが押しかけたのですから。忙しいのにすみません」
「いや、来てくれて嬉しい。こちらからは行けなかったからな」
玉祥がそんなこと言うから、珠蘭はまた顔に熱が集まるような気がした。
そんな時に顔を覗き込むのはやめてほしい。
「ちょっと顔が赤くないか? まだ体調が戻っていないのか?」
「だ、大丈夫です。陛下こそ、目の下にクマができていますよ。ちゃんと寝られていないのではないですか?」
「仕方あるまい。明後日には終わる。これが終わればしばらくゆっくりできるはずだ」
珠蘭は急いで菓子に手を付けた。毒見を兼ねて、もってきた珠蘭が先に手をつけるのが決まりだからだ。すぐに玉祥も手を伸ばした。疲れているときには甘い物がいい。
「何か手伝えることはありますか?」
「いや、こちらの仕事だ。お前も忙しいだろ?」
「やることはありますが、取り立てて急ぎなわけではございませんから大丈夫です」
「ならば、休めるときに休んでおけ」
今は珠蘭の心配をしている余裕なんてないだろうに、玉祥はいつだってそうだ。人の心配ばかりしている。
「そのお言葉をお返ししたいのですけれど、今はどうしても無理なのですよね」
「そうだな」
「わたくしが手を出せないことは理解していますが、陛下のお力になれなくて歯痒いです。何かあったら、いつでも呼んでください。お茶を出せ、というだけの用件でもいいです」
「それは嬉しいが、どうかしたのか?」
玉祥は珠蘭を見ながら菓子をもう一つ口に入れた。お茶のすすり方がちょっと早いのは、すぐに戻らなければならないからだろう。
「執務面ではどうしようもないかもしれませんが、少しは支えになりたいのです。だって、わたくしたちは、夫婦ではありませんか」
茶器を手にした状態のまま、玉祥は目を見張って固まった。そんな顔も綺麗だなと思いつつ、やっぱり顔色が優れないことが気になった。
「陛下、お茶がこぼれます」
ハッとして少し傾いていた茶器を戻した玉祥は、少し視線を彷徨わせ、残っていた茶を一気に飲み干した。
「明後日、仕事が終わり次第行く」
「無理しないでください」
「いや、行く」
珠蘭は少し目を丸くすると、微笑んで「お待ちしています」と告げた。
玉祥はそれを聞いて微笑み返すと、バタバタと戻っていった。
残っていたお茶をくいっと飲んで、珠蘭は大きく溜息をついた。
仕事が終わり次第行く、と言われて、喜んでしまった。来ないで休め、というべきだったかもしれない。
玉祥はいつも自分のことでなく人のことを最優先に考えるのに、珠蘭は自分の望みを捨てきれない。今だってそうだ。仕事の邪魔になるとわかっていながら、玉祥に会いたいと思ったから来てしまった。
立ち上がりながらもう一度溜息をついた珠蘭に、全忠が「どうしましたか?」と聞いた。
「自己嫌悪に陥っていたところ」
「はい?」
「全忠、陛下は明後日いらっしゃると言ったけれど、わたくしのことは気にせず、どうか無理させないようにしてちょうだい。ゆっくり身体を休めることを優先させてほしいの」
「一応伝えますけれど、陛下は無理してでも行くでしょうね」
「……疲労回復の薬湯でも用意しようかしら」
「そうしてください」
溜息顔を引き締め、背筋を伸ばす。
皇后らしく取り繕うと、皇帝の宮を後にした。