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6.徳妃

 夢を見た。


『来い』


 嫌だ嫌だ嫌だ。そう思っても足は声の主の方へ向かっていく。そしてその手が触れ、全身が粟立ち、震える。

 男はそれがむしろ気に入っているらしく、嗜虐的に口角を上げてさらに手を伸ばしてくる。奴婢である自分はこの男の所有物だ。逆らうことは許されない。


『可愛がってやる』

『いやっ、やめ……』




 ハッと飛び起きると、ひどく汗をかいていた。まだ気持ち悪い感触が残っているような気がして、ぎゅっと自分の身体を抱きしめる。怖々と視線を動かすと、繊細な刺繍の施された柔らかい布団が目に入った。


(大丈夫、ここは長明宮(ちょうめいきゅう)。もう、大丈夫)


 荒くなった息を整えようとゆっくり呼吸をすると、(とばり)が開いてろうそくの灯りが差し込んだ。どうやらまだ外は薄暗い時間らしい。


娘娘(にゃんにゃん)、どうなさいましたか?」 

明明(めいめい)?」

「だいぶうなされていたみたいですけれど、大丈夫ですか?」


 まだ呼吸が落ち着かなくて、返事の代わりにコクコクと頷く。明明が「すごい汗」と呟いて一度離れ、濡らした布を持ってきて顔周りを拭いた。ひんやりとするそれが心地よく、だいぶ気分が落ち着く。


「ごめんなさい、起こしてしまったのね」

「いいえ。不寝番から呼ばれて驚きました。声を掛けたのですけれど返事がなかったので開けさせてもらいました。大丈夫ですか?」

「夢見が悪かっただけだから、もう大丈夫」


 そう言いながらも、差し出された水を受け取る手がまだ小さく震えていた。明明が支えて飲ませてくれる。


「娘娘」

「昔の夢を見たの。あたしがまだ後宮の下女になる前、ある家の奴婢だったころの夢」


 以前はよく飛び起きていたけれど、この夢を見るのは久しぶりだった。先日、皇帝のお渡りがあると告げられたことで記憶が呼び起されたのだろうか。

 もう眠れる気がしなくて、起き上がって窓から外を眺めた。空がうっすらと明るくなり始めていた。

 


 ※



 今日も今日とて顔の筋肉が無駄に疲れた妃嬪たちの朝の会を終え、珠蘭(じゅらん)はそのまま後宮内にある御花園に来た。今朝嫌な夢を見て気分が塞いでいた珠蘭を、明明が気を利かせて誘ってくれたのだ。


「今はお花が綺麗ですから、歩くだけでも気分転換になりますよ。それにもうすぐ皇太后さまの生誕祝いですから、今の状況も見ておいた方がいいかと思います」


 皇帝生母である皇太后の生誕祝いはこの御花園で行われる予定だ。後宮内の行事であり、親に孝を尽くすという考えからも、正室である皇后が取り仕切ることになっている。


 春も半ばを過ぎ、丁寧に手入れされたのであろう色とりどりの花たちが、まるで「私を見て」と言わんばかりに咲き誇っている。白く良い香りのする花、大振りの赤い花、小さいながらもたくさん集まって咲いている淡い色の花。


「娘娘、綺麗ですね。見て下さい、こちらのお花。いくつか合わせて髪に飾ったら素敵だと思いませんか?」

「あ、えぇ、そうね」


 そう答えつつも視線は明明に示された花を通り過ぎて、その奥にあった小さな実に手を伸ばした。


(これは食べられないのよね)


 どんなに花が美しかろうが、食べられないものには意味がない。下女にとって大事なのは、腹が満たされるかどうか。欲を言うならば、味が良いとなお良し。


(果実のなる木でも植えられたらいいんだけど)


 一周ぐるりと見回してみる。所狭しと並ぶ花たち、綺麗に整えられた庭園。果実やら食べられそうな物を植える場所はなさそうだ。


(ここは無理か。宮ならば……)


 空いている土地を耕せば、種を植えられる。夏に採れる野菜を植えるには少し時期が遅くなってしまったけれど、まだぎりぎり間に合うだろう。


「娘娘、皇太后さまのお祝いには、こちらの花も座席近くに移動させましょうか? とっても見事ですもの」

「あっ、ええ、そうね、そうしましょう」

「娘娘、今全然違う事考えていたでしょう?」


 細められた明明の目から逃れるようにすっと顔を横に向けると、数人の人影が見えた。あちらも気がついたようだ。こちらに向かってやってくると、軽く膝をまげて首を垂れた。


「皇后さまにご挨拶を」

「楽になさい。……徳妃(とくひ)も散歩ですか?」

「えぇ。本日はとてもいいお天気ですので、気晴らしに出て参りました」


 おっとりと微笑んだ徳妃は、実ではなく大振りな花に手を触れた。


「美しく咲いていますね。この花も大きくて綺麗だとは思いますけれど、わたくしはどちらかというともう少し小ぶりな方が好きですわ。皇后さまはどのようなお花が好みですの?」

「わたくしは、どの花も美しいと思いますわ。それぞれ個性があって、美しさが違いますもの。決めかねます」


 どれでもいいし興味があまりなく、どれか選ぶのも面倒である、とはもちろん言わない。


「まぁ、さすが皇后さまですね」


 一体何が「さすが」なんだろうか。よくわからないながらも珠蘭はふんわり微笑み、徳妃もおっとりと微笑んでいる。早く行ってくれないかな、なんていう内心は顔に出してはいけない。


泰寧宮(たいねいきゅう)の幽霊の件、祈祷のかいもあって、もう出なくなったそうですね。すぐに噂も収まったようですわ」

「そのようですね。穏便に解決できて、わたくしも安堵しております」

「これほど早く解決してしまうなんて、さすが皇后さまですわ」


 だから何が「さすが」なんだろう。


「そういえば、お聞きしましたよ。陛下のお渡りをお断りしたとか」

「……えぇ、その日は少し体調が良くなくて」

「それもお聞きしました。わたくし毎朝皇后さまにお会いしていますのに、体調がよろしくないことに全く気が付きませんでしたの。申し訳ございません」


 眉を下げ、本当に心配してくれているように見える徳妃に、まさか「仮病です」とは言えず、なんとも居心地が悪い。


「何かできることがあれば、遠慮なくおっしゃってくださいませ。今はもうよくおなりですか?」

「えぇ、もう大丈夫ですわ」


 パッと明るくなった徳妃の顔を見て、珠蘭は失敗を悟った。これで体調不良を理由に断れなくなってしまった。


「それならよかったですわ。皇后さまはまだお若いですし、陛下のお渡りもまたあることでしょう」

「それはどうでしょうか。陛下はもうわたくしに愛想をつかしてしまったかもしれません」


(むしろ、そうであってほしい)


 そんな気持ちを隠して、少し残念そうに微笑んでみせる。いくらもう皇帝がこなければいい、男から離れて平穏に過ごしたい、なんて思っていたとしても顔には出さない。ここで嬉しそうにでもしてしまえば、皇后としての権威だなんだと雲英(うんえい)に叱られるのは目に見えている。


「そんなことあるはずがございませんわ。陛下は皇后さまのことをとても大事にしていらっしゃいますもの。体調が良くなられたのなら、またすぐにでもお声がかかりますわ」

「そうでしょうか」


(それならば非常に残念です)


「そうですよ。陛下はもちろん、わたくしたち妃嬪も皇后さまの御子の誕生を心待ちにしているのですもの」


 珠蘭はわずかに目を見開いた。皇帝が皇后の子をほしいと思っているとは初耳だし、それが真実かどうかもわからない。少なくとも妃嬪は皇后が子を儲けることを喜ぶはずがない。もし正室である皇后が男児を儲ければ、自分の子を帝位につける可能性がぐっと減るからだ。


 徳妃は男児を二人産んでいる。しかも一人は皇帝の長男である。今の状態であれば、この長男か、徳妃よりも家柄が少し上の淑妃が産んだ次男、どちらかが皇太子になる可能性が高い。それにもかかわらず、皇后の子を望むだろうか。


「徳妃がわたくしの子をなぜ心待ちにするのでしょう」


 意図がわからなくて、質問が直球になってしまった。こちらから敵対するつもりはないけれど、そう取られてもおかしくない発言だった。それにもかかわらず、徳妃は純粋に驚いていた。少なくとも、そのように見えた。


「陛下の御子を産むのがわたくしたち妃嬪の務めではございませんか。どうして皇后さまの御子を望まずにいられるのでしょう。わたくしからも、皇后さまの体調がよくなられたようだと伝えておきますわ」


 やっぱりわからなかった。



 丁寧に礼をとって去っていった徳妃一行が見えなくなると、珠蘭はあからさまに肩の力を抜いた。「娘娘」と明明の咎める声は聞こえたけれど、疲れたのだ。本当に疲れた。


 雲英に「ここは後宮ですよ」と毎日のように言われている。信用できるのは自分だけ、周りは全て敵だと思いなさい、と。それでは生きていけないでしょう、と反論した珠蘭に、雲英は諭すように、信頼することは大事だけれど、疑うことを忘れてはなりません、と言った。


 雲英の言う事がわからないわけではない。だけど、上官に言われたら返事は全て「ハイ」であり、疑う事は許されなかった下女の時とは全く違う世界に、まだ慣れることはできていない。

 

「徳妃の考えていることが全くわからないわ」

「ですよね」

「あ、明明もそう思う?」

「思います」


 珠蘭だけではなかったらしい。雲英ならばわかるのだろうか。それとも、徳妃はわざと混乱させようとしているのだろうか。そう思う程度には、全く考えが読めなかった。

 敵対心を露わにして、よくわかる嫌味を言ってくる淑妃の方が、まだやりやすいかもしれない。


「わたくしの子を望んでるって、本気だと思う?」

「いいえ」

「だよね。あ、もしかして、わたくしにまだ子がない事に対して、妃嬪の務めも果たせない皇后だって遠回しに嫌味を言われた? 子がいる自分の方が立場が上だっていう主張?」

「うーん、どうなのでしょう。そのような態度には見えなかったですけれど、そうともとれると言いますか」


 嫌味を言われることは別にいい。気にしなければいいだけだ。それに立場うんぬんならば、元下女であった自分にとって、それこそどうでもいい話だった。

 皇太子時代に嫁いでいて、妃嬪の中で陛下とのつきあいの一番長い徳妃が「皇后よりも自分の方が上だ」と主張するならば、それでもいい。確かに珠蘭の方が若いし、付き合いも薄いのだから。


「それで、結局わたくしにどうしてほしいのかしら?」

「うーん……?」


 二人で首を捻っても答えなど出るはずもなかった。

 



 それから数日後。

 来ないでほしい、という珠蘭の願いも虚しく、宦官が知らせを持ってきた。


「今宵、陛下がお渡りになります」

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