59.玉祥の子供のころ
翌朝目覚めた珠蘭は、隣に玉祥がいないことに気がついた。玉祥の胸の中で泣いた記憶はあるが、その先が思い出せない。たぶん泣き疲れてそのまま眠ってしまったのだろう。だとすると、ここに寝かせてくれたのは玉祥しかいない。
皇帝に世話を焼かせた上に朝寝坊して送り出すことさえせず。
あぁ……。
なんだか瞼が重くて目がはっきりと開かない。たぶん腫れている。頭もぼーっとするし、体も怠い。
「娘娘、お目覚めですか?……って、どうしたのですかその顔!」
明明が飛び上がったので、相当な顔をしているらしい。これも玉祥に見られたのか。うん。頭がぼんやりするし、もう何も考えないようにしよう。
起き上がろうとしてみたけれど、どうにも体が動かなかったのは、熱を出していたせいらしい。苦い薬を飲まされてまた布団を掛けられた珠蘭は、再びとろとろと眠りに落ちていった。
『はい、これ葉の分』
『どうしたの?』
『奥様がくれた。今日は機嫌がよくてさ』
まだ小さい平が、小さい手でお饅頭を差し出す。自分も食べたいはずなのに、半分に割ったわずかに大きいほうを葉にくれた。
(これは、そうか、夢か)
そう気が付いたところで場面が切り替わる。
大人に近くなった平が楽しそうにキョロキョロしながら隣を歩いている。街に出た時だ。
『あの串焼き旨そうだな。あっちの飴も、それからあっちの麺も』
『良い匂い。お腹すいてきちゃった』
『俺がお金持ちになったら、ぜーんぶ買ってやる』
ニカッと笑った平。きっと葉も笑っている。
また場面が切り替わる。
『助けてやれなくて、すまない。守ってやれなくて、すまない』
ううん、いつも助けられてた。ずっと、守られてた。
葉こそ何もできなかった。助けてもらうばかりで、何も返せなくてごめんなさい。最後にちゃんとお礼を言えただろうか。感謝していたと、ずっと感謝していると。
『平、ありがとう』
どうか、彼が平穏な人生を送れていますように。
どうか、どうか……。
「珠蘭」
声が聞こえてハッと目を開けると、玉祥の姿が映った。
寝たり起きたり、ぼんやりを繰り返しながら、気がついたら夜になっていたらしい。
「大丈夫か? うなされていたから心配した」
目元が濡れているように感じる。瞼も重たい。ということは、たぶんまだひどい顔をしている。どちらかというと見ないでほしい。せっかく来てくれたというのに、そんなことを思う。
とりあえず、大丈夫なのかわからないけれど大丈夫ですと示すためにコクコクと頷いてみた。
玉祥の手が額に触れた。ひんやりと感じることから、きっとまだ熱があるのだろう。その冷たさが気持ちよくて、額に触れていた玉祥の手を握った。
「珠蘭?」
「はい?」
布団の上に下ろされた珠蘭の手に、玉祥のもう片方の手が乗せられた。ふぅと小さく息を吐いた音が聞こえた。
「お前がそんな顔してるから、俺があらぬ疑いをかけられてる。雲英と明明の目が怖いから、早く良くなって誤解を解いてくれよ」
どんな顔だっただろうか。あぁ、泣きはらしてしまったもんな。玉祥が泣かせたと思われてるんだろうか。
弱々しく微笑んだ玉祥の顔が映って、そこでまた意識が途切れた。
その日と翌日は、寝たりぼんやりと起きたりを繰り返し、起き上がれるようになったのは二日後だった。
それから回復までに少し時間がかかり、業務に復帰したのは結局五日後のことだった。
「雲英、少し歩きたいのだけれど、付き合ってくれる?」
久しぶりに参加した朝の会の後、珠蘭は雲英を散歩に誘った。休んでいた間にたまったたくさんの業務を横目に見ながらも、雲英は誘いに応じた。おそらく珠蘭の様子から、それが必要だと判断したのだろう。
麦ちゃんを引き連れて、しばらく無言で歩く。麦ちゃんはしばらく一緒に散歩できなかった珠蘭と歩けるのが嬉しいらしい。ちょっと興奮気味に珠蘭の横についている。
さすがに冬の庭園は寂しい。葉がすっかり落ち剥き出しになった木の枝、夏には緑と花で満たされている花壇も乾いた土が見えるだけだ。
池には水鳥が数羽浮いていた。麦ちゃんはこの池で溺れた経験から、あまり池に近づきたがらない。特に橋は怖いらしく、明明に麦ちゃんを渡して珠蘭は雲英と橋に乗った。振動を感じたのか、冷たそうな水の中から魚が口を開けてくる。残念ながら、あげられる餌はもっていない。
「娘娘、冷えますよ。戻りましょう」
「もう少しだけ」
降り注ぐ太陽の光のおかげでほんのりと暖かさも感じるけれど、空気はさえわたって冷たい。その冷たさが、今は心地よかった。
玉祥も子供のころは、この池で遊んだだろうか。庭園を走り回ったりしたのだろうか。
珠蘭が知っている玉祥は、皇帝になってからの姿だけだ。その前のことは徳妃に少し聞いた程度。彼は今までどうやって過ごしてきて、何を考えてきたのだろう。珠蘭はそれをもっと知りたいと思った。
「雲英は陛下が子供の頃、教育係だったのよね。陛下はどんな子供だった? 今みたいに思慮深くて落ち着いた子供だったのかしら」
雲英はチラッと後ろを見る。雲英以外は橋の前に控えているから、声は届かないだろう。
「そうですとも違いますとも言い難いですね」
「どういうこと?」
「陛下はたしかに思慮深くて落ち着いた子供でした。でも最初からそうだったとは私は思いません。男の子らしくやんちゃな時期もあったのですよ。兄皇子殿下と一緒に走り回ったり、ちょっとした悪戯をしたり、宮を抜け出したりもしていました」
なんだか想像できないな、と珠蘭は思った。
雲英によれば、女官たちと鬼ごっこをしては高いところから飛び降り、木に登り、危ないことも平気でするような子だったそうだ。こっそり壁に絵を描いて怒られたり、迷子になって大混乱になったこともあるという。
「おかげでいつも女官たちはハラハラしっぱなしでしたよ。傷も絶えなかったですね。陛下は自分に傷がつくのはあまり気にならなかったようで、転んで怪我をして痛いと思っても、次の瞬間には忘れているような感じでした」
子供にはきっとよくあることなのだろう。珠蘭に子育て経験はないが、徳妃がそんなことを言っていた。
ちなみに珠蘭自身もなかなかにわんぱくな子供だったので、そんな経験がたくさんある。怪我をしては女官たちに怒られ、走り回っては女の子なのにと呆れられていた。
雲英は懐かしそうに目を細める。でもその表情はフッと影のあるものに変わった。
「何か問題があったの? 大きな怪我をしたとかひどく怒られたとか?」
「いいえ、大きな怪我は女官たちが必死に防ぎましたし、陛下自身が怒られることはありませんでした。ですが……」
玉祥の母は、玉祥に何かあるたびに女官や宦官を厳しく罰したらしい。玉祥が怪我をすればその時についていた女官が棒で打たれ叱責される。ある時は玉祥が小さな痣を作っただけで、女官に大きな痣ができた。黙って兄皇子の宮へ行けば、兄とその母が罰を受けて跪かされた。
「そんな様子を陛下は見ていました。やめてと皇太后さまを止めれば、よりひどくなりました。貴方を傷つけたのだから当然よ、と。許しを請いながら打たれる女官を前に、陛下はただ唇を噛んでいました」
玉祥自身は皇子という身分であり、我が子を次の皇帝にしたいと目論む母皇太后にとっては大事な存在だった。だから傷一つつかないように、真綿で包むように大切に大切にされていたという。
「陛下は元来争いを好まず、優しい性格でした。そしてとても聡い子でした。自分の行動によって周りがどうなるかということに気がついたのでしょう。だんだんと危ないことはしなくなりました。抜け出したり、悪戯をすることもなくなりました」
女官たちは喜んだという。それはそうだろう、玉祥に傷が一つでもつけば、自分たちが罰せられる。表向き大人しくなった玉祥は女官たちの言う事も良く聞き、勉学にも励むようになった。母皇太后も次期皇帝の器だと喜んだという。
「その頃から陛下は感情を表に出すことを避けるようになって、心を隠すようになっていったように私には見えました。まだ遊びたい盛りだったでしょうに、やりたいことを殺して必死で良い子を演じているようでした」
雲英は、あくまで私から見た印象ですよ、と付け加えたけれど、珠蘭から見ても今の玉祥はそうして作り上げられてきたんだなという感じがした。
「それからは、娘娘の言ったとおり、思慮深くて落ち着いた子供でしたよ。歳のわりにずいぶんと大人びている、そんな子供でした」
どこからか水鳥が飛んできて、池に着水した。雲英は憂いを帯びた目でそれを見ている。その表情から、雲英は玉祥の子供時代をいいものだとは思っていないのだろうことが伝わってきた。
「娘娘は、陛下はどのような方だと思っていますか?」
「うーん、そうね、基本的には優しくて温厚な方だと思うけれど。雲英は?」
「子供のころからそうだったと私も思います。けれど、表に出さないだけでいろんな思いを抱えていて、本当はもっと、激しい感情を持っていらっしゃるのですけれどね」
「やっぱり? 熱を出す前、わたくしがかつて過ごした屋敷の話をしたの。昔の話よ。そしたら陛下、『家ごとぶっ潰して再起不能にしてやりたい』って。驚いて止めたけれど、本当にやりそうな勢いだった」
「ぶっ潰……陛下がそれを?」
珠蘭が頷くと、雲英は目を丸くして、それから堪えきれないように笑った。なんとか声を殺しているものの、気品だとか行儀に煩い雲英がこんな笑い方をするのは珍しい。
「大丈夫?」
珠蘭が驚いて覗き込むと、雲英はしばらく笑って目尻を軽く押さえてから、穏やかに言った。
「陛下が素を出せる方は限られています。陛下が感情を思った通りに出せる場所があるようで、私は安心しました」
「え?」
「あぁ、ちなみに、全忠は陛下について、また違うことを言っていましたね。まるで鷹のような方だ、と」
「鷹って、あの、鳥の?」
「そうです」
表面上はずっと穏やかに見せつつ、期が熟すまでじっと静かに獲物を狙い続け、ここだという時に狩る。珠蘭も雲英も表の政治についてはよくわからない。でも朝廷での陛下にはそのような評価があるそうだ。
「皇太后さまを幽閉されたときに、全忠の言っていた意味が良くわかりましたよ」
「なるほど? とりあえず、敵に回すのはやめたほうがよさそうね」
そんなつもりは最初からないけれど、クスッと笑う。
「あ、でも、陛下は本物の狩りは苦手らしいですよ」
先帝が存命の時の狩りの大会で、矢に射られた獲物が駆け回りながら更に矢をあび、ドサリと倒れたところで玉祥も気を失ったらしい。先帝は玉祥のそんなところは心配していたとか。
雲英も聞いた話だそうだが、玉祥の治世になってから狩りの大会は開かれていないことから、苦手なのは事実らしい。
そういえば街歩きをしたときも、玉祥は鶏を潰す瞬間を見て倒れそうになっていた。血とか、そういうのが苦手なんだろう。
「調子に乗って話しすぎました。娘娘、身体が冷えてしまいます。治ったばかりなのですから、そろそろ戻りましょう」
その言葉に頷いて橋を下りると、遅かったと言わんばかりに麦ちゃんが飛びついてきた。むぎゅっと抱いた麦ちゃんが温かく感じる。気がつかぬ間に冷えたようだ。
「麦ちゃん、戻るよ」
ちょっと不満そうな麦ちゃんを連れて、珠蘭は宮に向かって歩き出した。




