58.過去2
その日、わたしの中の何かがきっと壊れてしまったのだと思います。
わたしは、男という人がどうしても怖くなりました。見ただけでも体が震えるようになって、どうしようもなくなってしまったのです。
平はわたしにとって、幼い頃から共に育った仲間であり、兄のように慕う人であり、わたしの心の拠り所で、一番信頼している人でした。その彼との関係にヒビが入って、わたしの一部もきっと割れてしまったのでしょう。
平に悪かったところなど一つもありません。恨んでいるはずがないばかりか、感謝しかありません。彼にも選択肢などなかった。むしろ主人に逆らってでもどうにか避けようとする彼を止め、先に手を掛けたのはわたしです。
彼の意でなかったことも、彼がそのようなことをする人でないことも、彼もまたとても苦しんでいることも、充分すぎるほどにわかっていました。
今までも恐怖心はありましたが、体が震えてどうにもできなくなるということはありませんでした。これも仕事のうち、避けられないこと。そう考えて、なんとか割り切っていられたのです。だけど、その日からはもう駄目でした。
今まで育ててくれた奴婢仲間でさえも怖いと感じ、平ともまともに会話できなくなってしまいました。そんなわたしに気が付いたのでしょう、何度かお互いに謝り合うということを繰り返し、彼はわたしと距離をとるようになりました。近付かないほうがいいと、わざとそうしてくれたのだと、それが彼の優しさだとわたしは知っています。お互いに憎み合うことなどありえません。彼はわたしを心配してくれていたし、わたしもまたそうでした。
その後主人に呼ばれても、わたしは震えてしまってどうしようもなく、主人からは役立たずと罵られました。
それから少しして、身ごもっていることがわかりました。誰の子かは、わたしにもわかりません。
子をできにくくするという苦い汁は飲んでいましたが、奴婢が作ったものです。絶対の効果があるものではなかったのでしょう。
主人の子かもしれない命を宿したわたしを、奥様は許しませんでした。いつものように棒で打たれるだけでなく、わたしは屋敷の外に追い出されました。行く場所など、あるはずがありません。あてもなく放浪すること二日、わたしは兵に捕えられました。
屋敷からの逃亡は死罪だと聞いていました。連れ戻されたとしても、奥様はわたしを屋敷に置かないでしょう。自ら逃亡したわけではありませんが、どちらにしろ殺されるのだなと思いました。もうそれでもいいかと思いました。
三日後、わたしは牢から出されました。ついにこの世とお別れなのだと思いましたが、そうはなりませんでした。兵が教えてくれたことによると、屋敷の主人がわたしのことを「捨てた奴婢だ」と言ったそうです。わたしが自分のいた屋敷をすぐに伝え、逃亡したわけではないと話したこと、それから主人もそれを認めたことで死罪にはならず、屋敷に連れ戻されることもなかったそうです。
それからわたしは同じような身なりの人たちと共に移動させられました。何日も歩きました。着いた先にはもっとたくさんの人がいました。おそらく、主人のいない奴婢たちなのでしょう。そこで毎日仕事を振り分けられ、言われたとおりにこなしました。連れていかれた先の洗濯や掃除だったり、畑仕事だったり、工事の手伝いだったり、仕事内容は毎日違っていろいろでした。
体調が良くなくても休むことなどできませんでした。屋敷の時と違って、寄せ集められた奴婢であり、毎日同じ部屋で寝るわけでもありませんでしたので、助け合うということもありませんでした。むしろ、奪い合うのが普通でした。少し油断して、食事を全て取られてしまったこともあります。
部屋は男女別でしたが、仕事では一緒になることもありました。わたしは体調が落ち着かない中で震えながら仕事をこなし、回復しないまま、また仕事に行くというのを繰り返しました。
ある日、ついに子は流れ、そのまま意識を失いました。
そのまま死んだのかと思いましたが、運が良かったことに、倒れたわたしを見つけた良家の奥様がとても親切な方で、家に連れ帰って介抱してくださっていました。
奥様はわたしの身の上を聞き、同情してくださったのでしょう、なんと、わたしを買い取って下さいました。
以前いた屋敷とは違って広くなく、奴婢はわたしの他に二人いるばかりの家でした。良家とはいえ、そんなに身分の高い方ではなかったようです。奴婢の金額など知りませんが、簡単に買えるものではなかったと思います。
お礼と謝罪をなんども繰り返すわたしに、奥様は笑って言いました。
『運が良かったのはこちらなのよ』
どうやら倒れて今にも死にそうだったわたしは労働力として価値なしと思われていたらしく、タダも同然の金額だったそうです。
『娘が女官試験に合格して後宮に出仕することが決まっていてね、お前、ついていってちょうだい。後宮ならば男はいないし、お前にもちょうどいいでしょう』
こうしてわたしは後宮へ入りました。救ってくださった奥様の恩に応えるため、必死に女官となったお嬢様を支えて二年。任期を終えたお嬢様は外に出て縁談を受けることになりました。
お嬢様はわたしが男に恐怖心を抱いていることを知っていました。だからでしょう、後宮に残るように手続きをしてくれていました。お嬢様と別れるのは辛くもありましたが、正直、外に出るのは怖い気持ちがありましたので、ありがたく思いました。
こうしてわたしは後宮の下女になったのです。
〇
「そこからは、軽く話したこともありましたよね。下女の仕事は楽ではありませんでしたけれど、平穏に毎日を過ごすことができました。後宮に入れる男性は陛下のみ。下女の身ではお目にかかることなどほとんどありませんし、ましてや国の頂点たるお方が下女一人に目を付けるはずもありませんから」
最初は宦官も怖く感じたけれど、一緒に仕事をしていく中で、時の流れと共に震えることなく普通に話すことはできるようになっていった。後宮にいれば、安心して毎日を過ごすことができた。
そして、そのまま葉は後宮で人生を終えた。
はずだった。
珠蘭はふぅ、と大きく長く息を吐いた。一度取り乱してしまったけれど、全てを話した今、驚くほど気持ちが穏やかだった。震えることもなく、息も乱れていない。
「まさか陛下とお話することがあるなんて思いませんでしたし、今こうして隣に座るなんてことが起こるとは、全くの予想外でした」
クスッと自嘲するように笑った。
こうして話してみると、自分がどれだけ玉祥と並ぶのに相応しくないか、突きつけられている気がする。
「玉祥さま、聞いて下さってありがとうございました」
ここで初めて珠蘭は顔を上げて玉祥を見た。ずっと怖かった。彼が、どんな反応をしているのかを見るのが。
それだけ、珠蘭は玉祥に情が移っていたのだろう。
玉祥は、明らかに怒気を含んだ顔をしていた。
(やっぱり、か……)
この話をしてしまえば、もう珠蘭は玉祥の側にいられないかもしれない。そういう覚悟はしていた。葉の体ではなくても、葉としての意識はしっかりとある。きっと玉祥に相応しいのは、穢れのない人だ。
ざっと頭を働かせる。後宮の下女たちがなるべく困ることなく生活できるように、制度を整えた。支援はもう少ししたいところだけど、玉祥ならば今すぐに珠蘭を追放することはないだろうから、次の人に引き継げるように準備する時間はあるだろう。
できることならば、少し我慢していただいて、位だけはしばらく皇后の座につかせたままでいてくれるとありがたい。それが無理であれば、妃嬪の一つでも。とにかく後宮を恙なく治め、下の者まで冷遇されることがないように見張れる立場だとありがたいと思った。
たとえ玉祥の側にいられなくても、玉祥を支えていけるように。
だけどそれも、図々しい願いかもしれない。
珠蘭はもう一度玉祥を見上げると、そっと一人分隣に移った。隣にいるのは相応しくないと思ったからだ。
「俺も怖いのか?」
「いいえ。ただ、聞いたでしょう? わたくしは玉……陛下の隣には相応しくありません」
なるべく穏やかに、笑顔を作って見上げようとすると、ふいに手が引っ張られた。けっこうな力だ。そのまま引き寄せられて、抱き寄せられた。いつもの玉祥にはないほどに強引だ。急な展開について行けず、目を見開く。
「怖いか?」
「いいえ。ですが、あの?」
「なら、そのまま聞け。お前がいたのは、どこの屋敷だ? 俺がすぐに潰してやる」
「え?」
「どこだ? 王都ではないのか?」
顔は見えないけれど、声が本気だ。ここで告げたら玉祥はきっと本気で潰しにかかる。それが実際にできる立場だから、本当にそうなりそうだ。そんな声色だし、抑えているけれど、腕の力が怒っていることを伝えてくる。
「覚えていません」
「覚えてるだろ」
「嘘は言っていません。ここから離れているとは思いますが、当時のわたくしは学がなく、どこにその屋敷があってどのように移動して後宮まできたのか、わからないんです」
連れられるまま歩いた。どんな道順で、どこからどのように進んだかなどわからない。ぼんやりと覚えているのは景色だけ。
それに、珠蘭は復讐など望んでいない。
「もういいのです。きっと代替わりしていますし、当時の主人や奥様が生きているのかも知りません。それに、どこの屋敷でも、奴婢とはそういうものでしょう、きっと。だから、もういいのです」
「俺が良くない」
「それならば、いずれ、奴婢に優しい法でも作ってください。わたくしのような思いをする奴婢が減るように。そうしてくだされば、当時のわたくしは救われます」
玉祥は腕にさらに力を込めた。不思議と怖いとは思わなかったけれど、ちょっと苦しい。
「辛かったな。怖かっただろうな。何もしてやれなくて、すまない」
「え?」
「正直に言うなら、お前に辛い思いをさせた奴ら全員に同じ思いをさせてやりたいし、相手をさせられた奴らをみんな家ごとぶっ潰して再起不能にしてやりたい」
「陛下、それは怖いです」
別の意味でブルリと震える。
できないことが分かった上で冗談で言い合っていた平との会話とは違う。玉祥はやろうと思えば本当にできる。だからそれがより怖く感じた。
玉祥は珠蘭が「怖い」と言ったことに反応して一瞬息が止まり、それから身体の中の空気が全部抜けるように勢いよく吐き出した。皇帝らしからぬ態度でガシガシと頭をかく。
「まず、二人の時には名で呼べと言っている。それから、相応しくないなんて言うな」
「でも、わたくしは穢れ……」
「それ以上言ったら、お前でも怒るぞ。断れずに何人もの相手をしたことを穢れているというなら、俺も同じだ。俺は穢れているのか? 汚いか?」
珠蘭が驚いて首をブンブンと横に振ると、玉祥は自嘲気味にフッと笑って「まぁ、綺麗ではないか」と呟いた。いつもの玉祥の様子に戻ってきたことに安心して、珠蘭も気が抜けた。
「では、綺麗でない者同士ですか?」
「お前は綺麗だぞ」
思わず玉祥の胸に手をついて見上げた珠蘭に、玉祥は自分が何を言ったのか思い出したようにハッとして、気まずそうに目を逸らした。心なしか頬が赤く見えるのは蝋燭のせいだろうか。
今玉祥が言った「綺麗」というのはきっと美人だとかいう意味ではなくて、たぶん妃嬪を口説くために使っているかもしれない言葉でもなくて。珠蘭が葉として経験してきたあれやこれが決して穢れていなくて、珠蘭が、葉が汚らしいわけじゃなくて、少なくとも玉祥はそう思っていないから大丈夫だと、そういう意味だ。
玉祥は嘘は言わない。皇帝の言葉はどんなことでも真実になってしまうから、発言に気をつけていることを知っている。言葉が足りないことはよくあっても、思ってもいないことを言う事はない。
だからそれは、珠蘭がこれからも側にいていいということであって、それが許されたということであって。
(わたしは、ここにいてもいいんだ)
ここに。玉祥の隣に。
そう思ったら、目の奥が熱くなった。
「泣くな。俺が泣かせたみたいじゃないか」
玉祥は少し焦っているような、どうしたらいいかわからないといった顔をしていた。
「あ、えっと、やっぱり泣いていい。辛かったことも悲しいことも嫌なことも、全部流してしまえばいい……というのはさすがに無理か」
なぜか玉祥はあたふたしている。
数々の女をきっと泣かせてきただろうに、うろたえているのはどうしてだろう。
玉祥の胸は温かくて、背に回された腕ですっぽりと包まれた珠蘭はひどく安心した。玉祥が与えてくれたその安心というものが新しく珠蘭の心の中に入って、納まりきらなくなった辛かったこと、悲しかったこと、不安だったことが涙に変わって押し出されていく。
泣いていいと玉祥が言ったから、珠蘭は本当に泣いた。
枯れることを知らぬ負の感情は、涙となって流れ続けた。
まるで止まることを知らないかのように、泣き疲れて眠ってしまうまで。