57.過去1
性暴力的な表現があります。
「わたくしが葉という下女として一度人生を終えていることはご存じですよね。その葉が後宮の下女となるまでの話です。少し長くなるかもしれませんけれど、いいですか?」
玉祥が頷いたのを見て、珠蘭は一度深呼吸し、ゆっくりと話し始めた。
「葉の生まれはわかりません。どういう経緯でそうなったのかもわかりませんが、物心ついた時にはある屋敷にいて、奴婢仲間に育てられていました。父と母はいませんでしたが、その屋敷の奴婢は助け合って生きていたので、皆で守ってくれていた感じですね」
〇
当時、その屋敷にいた奴婢の小さい子は葉……わたしと呼ばせていただきますね……わたしともう一人、平という名の男の子だけでした。
平は体格などから考えて、わたしよりも一歳か二歳ほど年上だと思います。思います、というのは、彼は生まれ年がわかっていましたが、わたしはわからなかったからです。
平には奴婢の母がいました。屋敷の奴婢たちは皆で平とわたしの面倒を見てくれましたが、中でも平の母がわたしの母代わりになって見てくれました。彼女は実子である平とわたしを分け隔てることなく接してくれました。わたしは平を兄のように慕い、彼もわたしのことを妹のように可愛がってくれました。時には喧嘩をしたり、一緒に悪戯をしたりしながらも助け合い、わたしたちは兄妹のように育ちました。
わたしたちは奴婢でしたから、子供のころから仕事がありました。子供にできることは限られるので、大抵は掃除とか水汲み、洗濯あたりが多かったですね。あとは言われたことはなんでもやりました。
その屋敷の良かったことは、食べ物や衣などの生活に必要なものはちゃんとくれたことです。毎日お腹いっぱいとはいきませんけれど、空腹でどうしようもない、というほどでもなかったですし、繕いながら使ってはいましたが、時折衣も新しいものをもらえました。
炭ももらえたので、冬は寒いなりにも凍えることなく過ごせていました。
後宮に来た時に、それは恵まれていたんだなと知ったんです。炭が少なくて、後宮の下女小屋は本当に寒かったですから。
貴族の屋敷にとって奴婢は所有物なので、冬の寒さで死なれるよりは、まだ炭を渡しておくほうが良かったのかもしれません。
屋敷の奥様は気分屋な方で、気分が良い時は奴婢にもお菓子や褒美を下さったりしましたが、虫の居所が悪い時は普段なら気にも止めない小さな至らぬ点を指摘しては、奴婢を細い棒で打ちました。
わたしも何度も打たれました。大人の奴婢はわたしたちを守ってくれましたが、それでも皆奴婢です。主一家には逆らえません。
『痛かっただろうねぇ』
そう言って平の母……おばさんと呼んでいました。今考えればおばさんというほどの年齢ではなかったのですけれど……おばさんは草を潰したものを塗ってくれました。
楽しみが全くないわけでもなかったのですよ。季節ごとのお祝い事には残ったごちそうが食べられましたし、平と一緒に庭の木になった熟れすぎの果実を取って食べたり、見つからないようにこっそり遊んだりもしました。
たまにお使いで街へ出ることもあったという話はしましたよね。それも楽しみの一つでした。
わたしと平は奴婢仲間に見守られながら、少しずつ育っていきました。
そこまでは良かったのです。子供だと見られている内は。
仕事は大変だし、たまに棒で打たれることはあっても、それなりに平穏に過ごせていましたから。
平もわたしもだいぶ大きくなり、子供とは呼べないくらいになっていたある日、わたしは屋敷の主人に呼ばれました。主人に呼ばれることなど滅多になく、もう暗い時間だったので不安でしたが、主人のモノである奴婢に行かないという選択肢はありません。
わたしが呼ばれたことを知ったおばさんはわたしを抱き寄せ、苦しそうに言いました。
『いいかい、何があっても、大きな声を出したり、逆らったりしちゃいけないよ。言われた通りにするんだ』
わかったかい、と聞かれて、頷きました。そして主人の待つ部屋へ行きました。
主人は部屋で一人で書物を読んでいました。わたしが入ると、書物を閉じ、わたしを下から上まで舐めるように見ました。そしてわたしの服の紐を解きました。
なぜそのようなことをするのかわかりませんでした。咄嗟に服を押さえると、主人は目を細めて『じっとしていろ』と言いました。
おばさんに言われたことを思い出し、言われた通りにしました。主人はまた舐めるようにわたしを見て『いいだろう』と言い、わたしを横たえました。
『主人を慰めるのも奴婢の仕事だ』
泣きながら戻ったわたしをおばさんは優しく抱きしめてくれ、それから苦い汁を飲みました。子をできにくくするためのものだそうです。
考えてみれば、おばさんも、他の女性の奴婢も、時折夜にいなくなることがありました。わたしはその意味を、この時初めて知りました。
それからわたしはたびたび呼び出されることになりました。当然、断ることなどできません。
そうして何度か呼ばれたある日、今度は奥様に呼ばれました。不安でしたが、行かないという選択肢はありませんでした。
奥様はわたしを見るなり目を吊り上げて、細い棒で打ってきました。
『主人を誑かした女狐め』
『養ってやっているというのに、恩を仇で返すんじゃない』
『二度と主人に近付くな』
そんな罵声を浴びせられながら、今までの比ではないくらいに打たれました。誑かしただなんてとんでもないことですし、近付くなと言われたところで主人の命令に背くことなどできるはずもないのに。
次に主人に呼ばれた日、わたしは奥様から近付かないようにと言われたことを話しました。普段主人は手を上げる人ではありませんでしたが、その時はひどくぶたれました。「お前は俺に逆らうのか」と。『逆らったりしちゃいけない』とおばさんが教えてくれた意味が、よくわかりました。
それから、主人に呼ばれては相手をし、奥様に打たれる、それを繰り返す日々が始まりました。
屋敷を訪れるお客様の相手もしました。
この屋敷のモノであるわたしを傷つけることは、客の立場ではさすがに気が引けることなのでしょう。たいていのお客様は静かにことをなすだけでしたが、身分の高い方なのでしょうか、中には暴力を振るう人もいました。
逆に、わたしに同情してくれたのか、それともわたしではそういう気分にならなかったのか、酒の酌だけで終わることもありました。
そういった時、わたしは「客を満足させられなかった」と叱責されました。
屋敷を逃げ出すことはできませんでした。
奴婢の逃亡は死罪になると聞いていました。そうでなくても、捕まって連れ戻されれば主人に殺されるでしょう。
それになにより、わたしが逃げれば残った奴婢が罰を受けます。おばさんや平、それから育て、助けてくれる奴婢仲間たちをそんな目に合わせることはできません。
辛かった。それでも耐えられたのは、わたしが主人に呼ばれていることに気が付いているはずの平が、いままでと変わらない態度で接してくれたことでした。
『助けてやれなくてすまない』
あるとき彼は、ポツリとそう言いました。彼も苦しんでいたことを知りました。平の母が苦しんでいても、妹分であるわたしが辛いと思っていても、自分には何もできないと彼は悔しそうに拳を握りました。
わたしはわざと明るく言いました。
『大丈夫だよ。たまに、お前も食べろ、とか、お前も飲め、と言われて美味しい物を食べたりお酒を飲んだりできるんだよ。いいでしょう』
それに合わせたのでしょう、彼は顔を歪ませながら答えました。
『それはいいな。今度俺にも持ってきてくれよ』
『駄目だよ、わたしだけの楽しみなんだから』
お互いに持ち出せるはずもないとわかっていましたが、わざと二人で軽く言い合って笑いました。そんな彼がわたしの支えでした。
その日は屋敷に多数のお客様が来ていて、宴が開かれていました。もてなすために、奴婢たちは大忙し。そして夜には当然わたしは呼ばれました。あまり暴力的な方じゃないといいなと呼ばれた部屋に入ると、三人のお客様が主人と共にまだ酒を飲んでいました。主人にとって気の置けない人たちなのでしょうか、主人もお客様もすでにだいぶ酔っているように見えました。
お酒の席では酌をするのがわたしの仕事です。空いた器を見つけてはお酒を注ぎ、つまみを出しました。次第に主人もお客様たちも、目つきも手つきも怪しくなっていきました。
こういう場合、だいたいは主人がそれとなく誘導して、数人いる女性奴婢の中から気に入った者と共に一人、また一人と抜けていくのですが、その日はそうはなりませんでした。そもそも、お客様は三人いるのになぜかその場にはわたし一人しか呼ばれていません。
主人はわたしに踊ってみせろと言いました。たまにあることです。奴婢のお姉さんが言われた通りに踊るところも見たことがあります。わたしはもちろん踊りなど学んだことはなく、身振り手振り動かしてみるしかありません。本物の舞いを知っている人達からすればそれは滑稽に見えるのでしょうね、一生懸命踊れば踊るほどお客様たちは大口を開けて笑いました。
別に嫌ではありませんでした。お客様たちが笑ってくれれば主人も機嫌が良くなりますし、褒美をやろう、などと言って食事や菓子を分けてくれたりするからです。実際にその時も踊って、笑われて、菓子を貰って食べ、踊って、機嫌を良くした主人に酒も飲んでいいぞと飲まされ、という感じで宴席が盛り上がっていました。
部屋の戸を叩く音が聞こえたので、他の女性奴婢がやってきたのだろうと思いました。そろそろ各自部屋へ移る頃合いだと思ったのですが、入ってきたのはなぜか平でした。平も困惑した様子でしたが、わたしにもわけがわかりません。なぜ彼が来たのでしょう。まさか、お客様の中にそういった趣味の方がいるのでしょうか。そうでないことを祈るばかりです。
わたしたちは主人に、一緒に踊れ、と命じられました。先程までは何も考えずに踊れました。でも彼に出来もしない踊りをして、笑われているところを見られるのは嫌だなと少し思いました。それでもわたしに選択肢などありません。同じように踊るだけです。
そんな経験はなかったのでしょう、平はしばし呆然としていましたが、わたしが先に踊りながら目配せすると、共に踊り始めました。主人の命には逆らえません。彼も教わったことなどありませんから、適当にわたしに合わせ、見よう見まねで同じような動きをしていました。
どうやらそれが、わたしと平が上手く合っていると思われたようです。お客様の一人が笑いながらとんでもない事を言い出しました。
『あっちの相性もいいんじゃないか?』
ガハハと笑うお客様たちは下世話な話で盛り上がります。わたし一人ならば、何を言われても聞き流せます。いつものことですから。でもそれを平に聞かせることが、なんとも言えず苦しく感じました。
それでもわたしたちにできることは、聞こえないふりをして踊り続けることだけです。
このまま何事もなく、平を早く戻してほしい。
そんな願いは、届きませんでした。
酒が進んでいたこともあったのでしょう、下世話な話に主人が乗っかってきてしまったのです。
『ここでやってみろ』
話の流れから、そういうことをしろというのはわかりました。でも、まさかと思いました。
ここで?
お客様たちの前で?
平とわたしが?
それでもたしかにそう言ったのです。それが主人の命令なのです。
平は困惑しながらもなんとか断れないかと思案していました。でもそれはやってはいけない。主人に逆らってはいけません。それをわたしは良く知っています。断ったところで、逆にもっとひどい目に合うのです。
さらに、彼には母がいます。わたしを育ててくれた大切なおばさんです。主人に逆らってもし怒らせてしまったら、彼女がどうなるかわかりません。
主人と平の間に入るように、踊っているように見せながら、わたしから平に近付きました。そして目で訴えました。逆らっちゃいけない、怒らせてはいけない。
そして彼の帯をゆっくりと解きました。
お客様の誰かが止めてくれないだろうかと願いましたが、その思いは届かないばかりか、逆に楽しむ声が聞こえてきます。
彼も意を決したように、わたしの衣の紐に手を掛けました。
彼は苦しそうな顔をして、本当に苦しそうな顔で……。
〇
「……蘭……珠蘭」
呼ばれたことに気が付いてハッと顔を上げると、玉祥が焦ったような瞳で珠蘭を見ていた。
無意識のうちに珠蘭は自分の体を抱きしめるようにぎゅっと肩を抱いていたらしい。体が小刻みに震えている。手は汗をかいているのに、ひどく冷たい。
「大丈夫か?」
部屋を見回す。ここは珠蘭の寝室で、蝋燭の炎が揺れている。どうやら話しながら意識が過去に入りすぎてしまったらしい。
優しく背を撫でる玉祥の手が温かくて、珠蘭は体の強張りを意識的に解いた。荒い息を整え、何度か深呼吸する。
「すみません、取り乱してしまったようです」
玉祥の手のぬくもりを感じると、自然と震えが治まった。
珠蘭はもう一度深呼吸すると、玉祥を見ることなく口を開いた。次の機会はないかもしれない。それならば、最後まで話してしまいたかった。
「続きを聞いて下さい」




