56.赤子
徳妃が無事に出産したとの連絡を受け、珠蘭は急いで徳妃の宮に向かったが、用意が整うまで待ってほしいと言われてしまった。
どうやら安世が、とにかく急いで連絡せねばと産まれた瞬間に宦官を走らせてしまったらしいのだ。彼にしては珍しく落ち着きを失っていたらしい。
「まだ時間がかかると追って別の者を走らせたのですが、皇后さまは入れ違いになってしまったようです」
申し訳なさそうに中から出てきた侍女が教えてくれた。
「かまわないわ。徳妃は無事?」
「はい、母子ともに落ち着いていらっしゃいます」
珠蘭はよかったと長い息を吐いた。
「出直したほうがいいかしら?」
ここで待つのは構わないのだが、皇后が待っている、という状態はいたずらに中の者達を急がせ、慌てさせてしまうだろう。一旦戻ろうかと思ったとき、足音が聞こえてきた。どうやらあちらも追って走ったという宦官と入れ違いになったらしい。
宦官はきっと慌てているに違いない。
「陛下にご挨拶を」
「良い。徳妃は?」
「わたくしも会えておりませんが、母子ともに落ち着いているそうです。まだ用意が整わないそうですよ。安世が、何かあればすぐに知らせて、と言ったわたくしの言葉通りに即座に連絡をくれたらしくて」
クスッと笑うと、玉祥は安心したように「そうか」と呟いた。
出直そうかと思っていたところだと軽く雑談をしていると、中から声がかかった。
「お待たせして申し訳ございません。中へどうぞ」
促されて中に入り、案内されるまま進む。部屋の前には安世が控えていた。安世は何も言わず、礼を取ると扉を開ける。
「陛下、わたくしはこちらでお待ちしております」
いろんな事情を聞いたとはいえ、生まれたのは玉祥と徳妃の子だ。まずは父である玉祥が会ってねぎらうべきだろう。
一緒に入るつもりだったのか、玉祥は一度珠蘭に視線を寄こしたが、そのまま一人で部屋へ入り、扉が閉められた。安世はどんな気持ちでいるのだろうか、何も言わぬまま扉の前で待っている。
少しの後、玉祥は穏やかな顔で出てきた。扉が閉められると、安世はいきなり膝をつき、拱手して玉祥の前に跪いた。玉祥も予測していなかったらしく、何事かと見やる。
「陛下に、心からの感謝を」
泣き出しそうな声だった。
玉祥はフッと笑うと、労わるように安世の肩に手を乗せた。
「安世、徳妃と子を頼む」
そう告げると、安世が顔を上げるのを待たずに戻っていった。
別の侍女が扉を開け、玉祥と入れ替わるように珠蘭が部屋へ入った。
徳妃は寝台の枕を高くして背をもたれかけさせ、半分体を起こした状態で子を抱いていた。それを見ただけで、なぜか涙が出そうになる。それをなんとか留めながら口を開く。
「まずは皇后として、子の誕生を祝います。大儀でしたね」
「感謝いたします」
「徳妃、おめでとう、本当に、よかった」
いろいろ言う事を考えたのに、何も出てこなかった。ただ生まれた子と、徳妃の元気そうな顔を見て安心した。そんな珠蘭に徳妃はふふっと笑った。ちょっと疲れが見えるけれど、いつもの顔だ。だけど、母親の顔だった。すごく綺麗だと思った。
「皇子ですよ。顔を見てあげてくださいますか?」
眠ったらしい子は、赤くて時折手をふにゃふにゃと動かした。だから赤子というんだな、と妙に納得した。触れてみたい気持ちになったけれど、壊れてしまいそうで手が出せなかった。
「今はとにかく体を休めて、できることがあれば何でも言ってくださいね」
「ありがとうございます」
出産後に長居するのは駄目だと聞いている。なるべく早めに切り上げて、部屋から出る。扉が閉まったのを確認して大きく息を吸うと姿勢を正し、皇后として出産を無事に取り仕切った医官や産婆、侍女たちに労いの言葉を掛けた。
毎日でも見舞いや手伝いに行きたいところだけど、産後はむしろそっとしておいた方がいいらしい。「皇后さまが伺えば、徳妃さまは疲れていても休めません」と言われてしまえば遠慮せざるを得ない。ということで、数日に一度様子を見に行くに留めている。
その間、珠蘭は忙しく過ごしている。普段の仕事に加えて徳妃がこなしていた仕事も珠蘭が受け持っているからだ。春にはまた後宮の人員が動くのでその調整もあるし、行事の準備もある。
それに加えて、皇子が生まれた祝いと称して妃嬪侍妾に記念品を配ったり、下女たちには綿入れや食料を配ったりしていたので、目が回るほど忙しい。
そんな日々をすごしているうちに、子が生まれて一月が過ぎようとしていた。
「お招きいただいたので来てしまいましたけれど、大丈夫ですか?」
「皇后さまこそお忙しいでしょう。お呼びたてしてすみません」
あまり頻繁に手やら口やらを出さないほうが良いかと思っていたが、この日は徳妃からの誘いだったので茶を飲みに来た。
案内された部屋に、徳妃は子を抱いて腰かけていた。安世がその少し後ろに控えている。子は起きているようで、ぐずりもせずに腕の中に納まっていた。たしかに玉祥の子なのだけれど、こうしてみると、徳妃と安世と子、三人が本当の家族のように見える。
「もうすぐでこの子が生まれてから一月。わたくしの体調も安定してきましたのでお誘いしてみました。陛下も皇后さまも、気を使ってわざと来ないようにしていらっしゃるでしょう?」
クスッと徳妃は笑った。
珠蘭だけでなく、玉祥もわざと避けていたらしい。
「徳妃も子も元気なようで安心しました。赤子って一月でこんなに変わるのですね」
生まれたばかりで見た時は赤くてふにゃふにゃしていて、可愛いと思うよりもこんなに頼りなくて大丈夫なのかと不安の方が大きかったが、たった一月で一回り大きくなり、あぁ人の子なのかと思える形になっている。
「抱いてみますか?」
「いいのですか?」
「もちろん。わたくしの子は、皇后さまの子でもありますもの」
珠蘭は赤子に慣れていない。どうやって抱いたら良いのかわからない珠蘭に、安世がやり方を見せてくれた。これは父代わりとして頼りになりそうだ。
珠蘭の腕の中に、徳妃が赤子を乗せる。緊張して珠蘭の身体が強張った。
「おおお、落としたらどうしましょう」
「ふふ、そんなに緊張しなくても大丈夫ですよ」
腕の中に納めた赤子は温かくて、純粋に可愛いと思った。
きょとんと珠蘭を見上げている。
「見えているのかしら?」
「この時期はまだはっきりとは見えていない、と産婆は言っていましたけれど、どうなのでしょうね。目の前で動かすと目で追ったりするから、見えていないわけでもなさそうですけれど」
黒い瞳がキラキラしている。鼻も口も、手も、みんな小さい。
赤子はほんのりいい匂いがした。何の匂いなのだろう、香の匂いでもなく、どこか柔らかい匂いだ。無意識にくんくんと匂いを嗅いでいると、赤子の体にいきなり力が入った。顔も赤くなってきている。
「えっ、なっ、何? どうしましょう」
泣き出すのだろうかとおろおろしていたら。
ぶりゅりゅ。
音が聞こえ、なんだか微妙な衝撃を腕に感じた。ぷうーん、と嗅ぎなれない匂いが漂う。
目を丸くする珠蘭。「やりきったぜ」という顔をしている赤子。
「まぁ! よほど皇后さまの腕の中が落ち着いたのね?」
乳母らしき女性はこの状況に顔を青くしているが、徳妃はうふふ、ふふふ、と堪えきれないように笑いながら珠蘭から赤子を受け取った。慣れた手つきで安世に渡すと彼は赤子を連れて出ていく。それに乳母がついて行った。
すっと手拭きの布が差し出された。
「どこかお召し物に汚れはついていませんか? 漏れてはいないようでしたけれど」
これはいったい。いやたぶんそうなんだろう。
珠蘭の初赤子抱っこは、腕の中で排便されるという結果に終わったのだった。
赤子がいなくなり、徳妃はお茶を変えさせると人払いをした。珠蘭もそれに倣う。
「お仕事を任せきりになってしまって申し訳ございません。少しずつならまたできそうですわ」
「とんでもない。陛下の子を産むという一番の仕事をした後なのですよ。ゆっくり休むのも仕事でしょう」
徳妃は微笑むと、お茶を飲んで菓子に手をつけた。
「母乳をあげていると、お腹が空くのですよ」
「へぇ、そうなのですか。なんだかわたくしには想像できないことばかりです」
「いつか皇后さまもそうなりますわ」
「え?」
ふふ、と徳妃は笑う。
「皇后さまは子を望まれないわけではないのでしょう?」
「そ、そうですね、たぶん?」
「ではきっと、次は皇后さまの番ですわね。もしそうなれば、陛下はきっと喜ぶでしょうね」
徳妃はまた菓子に手を伸ばした。お腹が空くと言うのは本当らしい。
珠蘭が下を向くと、徳妃は菓子のひとかけらを皿に置いた。
「不躾な事なので、嫌でしたらお答えにならなくていいのですけれど、皇后さまはお子を望まれているのになかなか授からないという状況ですか?」
「あ、いえ、そういうわけでは」
「ということは……いえ、やめましょう。わたくしが口を挟むことではございませんでしたわ。お許しくださいませ」
どうやら徳妃にはなんとなく察せられているらしい。
この話題は避けるべきと思ったのか、徳妃は話題を変えてきた。
「また皇子でしたわ」
ちょっと溜息がちに徳妃が言った。三人も男の子を授かるなんて、後宮では羨望の眼差しで見られるようなことだが、徳妃にとってはそうではなかったらしい。
「もちろん皇子だって可愛いのですけれどね、正直に言いますと、一人くらい女の子を育ててみたかったな、って思ってしまうのですよ。男の子も可愛いですけれどね」
男の子も可愛い、を強調しつつ、本音を言う。
「もう産まないような口ぶりですね」
「うーん、どうでしょうね?」
「出産してすぐに聞くのもおかしいですけれど、これでおしまいにするつもりですか? あ、ごめんなさい、この聞き方はおかしいですね。妃の義務を放棄するつもりか、と責めるつもりでは全くないのですよ」
単純に望みが知りたいだけだった。妃の義務、なんてことを言われてしまえば、珠蘭だって果たしていない。もう産みたくないと考えているのか、それとも、また産んでもいい、なのか、積極的に欲しいのか。徳妃がどう思っているのかを知りたいだけ。
それを誤解のないように説明すると、返ってきたのは予想していない答えだった。
「わかりませんわ。今は三人の子で充分だと思っていますけれど、やっぱり女の子が欲しいと思うかもしれません。でも、もしまた産みたいと思っても、その時にはきっと皇后さまは陛下を貸し出したくないでしょう?」
だからこの子が最後かと思っているのですよ、と徳妃はいたずらっぽく珠蘭に微笑んだ。
「そんなこと……」
ないだろうか?
現に、玉祥が侍妾のところへ行くのを勧めたくない、と思っているのだ。快く送り出せるのだろうか。それが皇后の務めなのはわかっているけれど、自信がない。
珠蘭が言葉を探したとき、赤子の泣く声が聞こえた。そろそろ授乳の時間だろうか、それとも眠いのか。
お茶の時間を作ってくれた徳妃にお礼を言って、珠蘭は宮を後にした。
その夜、湯浴みを済ませて入った寝室で、珠蘭は玉祥に肩揉みをしながら徳妃の宮での出来事を話していた。
「赤子を抱いたら、小さくてほわほわしてあったかくて、良い匂いだなって思っていたら、いきなりぶりゅりゅって……」
「クッ、それは災難だったな」
玉祥は肩を震わせている。そんなに笑うところか。
「陛下……玉祥さまはそうなったことはないのですか?」
街歩きをしてから、二人の時は名で呼べ、と言われていたのを思い出した。
「うんちはないが、おしっこならある。その時は漏れて俺の服にまでついた。侍女たちが真っ青になって謝ってきてな、そっちのほうが可哀想だった。仕方がなかろうに。ちなみに徳妃は思いっきり笑っていたな」
玉祥の口から「うんち」「おしっこ」という単語が出てきたことに小さく衝撃を受け、そしてやはり経験済みだったことに、なんだかもやもやしたものを感じた。考えてみれば玉祥は五人の子の父なのだ。子を抱いたことなど幾度もあるだろう。その姿を思って、やっぱりもやもやした。
「いつか、わたくしも子を抱く日がくるのでしょうか」
ポツリと呟いて、しまったと思い見上げると、玉祥は目を丸くしていた。
「あ、あの、徳妃に言われたのですよ、次はわたくしの番だって。そしたら、そんな日がくるのかな、なんて考えてしまって、えっと……」
何か言わなければいけない気がして、言い訳にもならないことを口走る。
あわあわしていると、玉祥が振り向いて、非常に悪戯っぽい目線を珠蘭に投げかけた。
「子を抱くためには、その前にしなければならないことがあるよな?」
途端に珠蘭から表情が消え、体が強張った。
「すまない、調子に乗りすぎた。気にするな」
「いえ、すみません。わたくし、そんな日がくればいいなって、そう思ったのですけれど」
「子がほしい気持ちはあるのか?」
「ある気はするのですけれど、それよりも怖い気持ちが強いんです」
「何が怖い? 夜伽か、それとも子を産むのが怖いのか?」
「どちらもです。どちらも、怖い」
玉祥は肩に乗っていた珠蘭の手を優しく掴み、隣に座るように促した。寝台に隣り合って座り、玉祥はわずかに珠蘭の方を向いた。
「珠蘭、何があった? 言いたくないならいい。だけど、怖いと思うようになったきっかけがあるのだろう?」
珠蘭は玉祥を見上げた。その目は真剣に心配していると言っている。
どうしようか迷った。きっと話せば、汚らわしいと思われる。もうここに来てくれなくなるかもしれない。
だけど、何も話さぬまま心配させ続けるのは駄目だと思った。
玉祥になら、聞いてほしいと思った。
「楽しい話じゃないですよ」
「そんなことわかってる」
「ずっと昔のことです」




