55.徳妃の出産
一泊の外出から後宮に戻った珠蘭は、冬を迎えるための準備に追われた。
下女小屋の冬は過酷だ。寒さで体調を崩す者が多く出る。そのおかげで冬は人が天に召されやすい。寒さが続けば体力は奪われ、ちょっとの体調不良が治らないからだ。それを緩和するために、昨年は炭を配ったり、体力がつくように食料を配ったり、いろいろやってみた。
おかげで例年よりは死亡率が下がった。
今年は第二段。
「炭は配った?」
「終わってます」
「食料は」
「備蓄済みです」
昨年と違うのは、李皇太后が幽閉されたことで、なんやかんやと文句を言われなくなったことである。
なんともやりやすい。
しかも都合の良いことに……これを都合が良いと言っては申し訳ないが……徳妃がまもなく出産を迎える。無事に子が誕生したら、お祝いと称して食べ物やら衣類やらを大盤振る舞いする予定なのである。
なお、考えたくはないが、もし無事の出産とならなかったとしても、細々と食料は出していく予定である。
「なんだこれは?」
「綿入れです」
「見ればわかる。なんでここに積み上げられているのかを聞いている」
夜に珠蘭の宮を訪れた玉祥が、宮の片隅を見て足を止めた。
子の誕生祝と称して配ろうと思っている綿入れが届いたので、とりあえず積んであるのだ。たしかに皇后の宮に置くべきものでもないが、無駄に広いのだから問題なかろう……と思っているのは珠蘭だけのようで、雲英が明日には片付けますと玉祥に言っている。
「暖かいですよ。羽織ってみますか?」
「いや、いい」
「陛下が一度袖を通した綿入れ、となれば価値が上がる気がします。それを下女長にあげましょうか。ということで、是非」
「そんな価値いらないだろ」
いると思う、という珠蘭の意見は却下された。
たっぷり綿の入ったものから薄いものまで様々な綿入れは、この冬を暖かく過ごすために役立ってくれるだろう。
今まで下女の中に階級は存在しなかった。仕事ができようができなかろうがみんな同じで横並び。それを珠蘭は少しずつ変え、下女の中にも上下を設けた。
下女を取りまとめる能力のある者に下女頭とか下女長とかいう名称をつけて、一般的な下女よりも少しだけ上に置いた。そういった少しだけ位の高くなった下女には良い綿入れを支給するつもりだ。
だいたい年嵩の者が下女頭になる可能性が高いので、寒い冬の生存率が上がるに違いない。
(本当は布団も変えてあげたいけれど)
かつての下女仲間はもういい歳だ。少しでも暖かく過ごしてほしいが、特別な功を立てた褒賞でもない限り、皇后が個人的に贈り物をすることはできない。
「宮女にも配るのか?」
「下女だけ贔屓するわけにもいきませんから。上層部用だけちょっと色を変えているんですよ」
宮女は平民なので、やろうと思えば上に行ける。下女と同じ物をまといたくない、というのであれば頑張ってもらおう、という魂胆だ。
身分を完全に撤廃することはできないが、仕事ができる人は位を上げていこうという取り組みは、少しずつ効果が出てきている。
「面白いことに、能力の高い人たちの出世を早めたら、下女に辛く当たってきた人たちは置いてけぼりになっているんですよ。ふふふふふ」
「怖い顔してる」
仕事ばかり投げてきたり、理不尽な怒り方をしてきたり、そんな人はいっぱいいた。多くが年季で出ていったけれど、今も一部は後宮にいる。まさか皇后に顔を覚えられているとは思うまい。
とはいえ、珠蘭だって直接手を下すつもりはない。正々堂々と実力で勝負する土台を作るだけだ。そうすれば自ずと仕事を下女に投げて功績だけ奪っていた人はボロが出て、ちゃんと仕事をしている人が上がっていく。
下女だって、感情がないわけじゃない。だけどいくら理不尽に怒られようが、耐えて流すしかなかった。一矢報いたようで嬉しくなるのは仕方がないだろう。
「ふふふふふ」
保養地から戻ってきてからというもの、玉祥は珠蘭の宮で過ごす時間が増えた。今までは夕食も湯浴みもしてから来ていたが、最近は仕事が終わったらそのまま足を運び、夕食を共に取り、湯浴みもして、寝て、朝戻っていく。週に二、三日はそのように過ごしている。
徳妃を見舞ったり、貴妃の宮に顔を出したり、李婕妤の子を見に行く程度はしているようだが、それ以外でどこかの宮を訪れている様子もない。
皇帝が足繫く通っているという事実もあり、珠蘭は皇后としてゆるぎない地位を得ている。後宮にいる侍妾から貢物が絶えず、同時に願い事もされる。
要するに、皇帝をこちらにこさせてほしい、という要請だ。
「陛下、あの……」
「それ以上言わなくていい」
珠蘭が手にした紙を見たのか、玉祥は眉間に皺を寄せてその紙を奪い取った。
紙には珠蘭が勧めるべき妃嬪侍妾の名と、簡単な経歴、訪れるべき日程、要するに月のものの周期が書かれている。
侍妾たちは今がチャンスだと考えているのだろう。徳妃は懐妊中で相手ができず、皇后以外に寵姫がいない。あわよくばと考える侍妾が多いのは仕方がない。
こんなことは今までいくらでもあった。その都度皇后の務めとして玉祥に伝えてはいたし、行ってもいいんじゃないかと勧めたこともある。
一方で玉祥の、なるべく後宮の外に出してやりたい、という気持ちもわかっている。一度手をつければ、それは遠のく。だから勧めても行かないことに文句はなかった。
「気になる者はいましたか?」
「お前は職務に忠実だな」
褒め言葉だろうか。全く褒めていないように玉祥は言う。
(今日も気になる者はなし、かな?)
玉祥の様子を注意深く観察する。
勧めても行かないことに安心するようになっていたのは、いつからだろう。
こうして勧めることが嫌だと感じるようになったのは、いつからだろう。
そして、いつからだろう、たとえ冗談でも「行ってくださらないと、またわたくしが皇后の務めを果たしていない、皇后が皇帝を独占している、悋気が強い皇后、なんて言われるのですよ」と笑って言えなくなったのは。
玉祥は珠蘭の書いたその紙をいきなりやぶくことはさすがにしないらしい。一応紙に目を落とし、さっさと宦官に渡すのがいつもの流れだった。
今日もきっとそうなるだろう、と思っていたのだが。
珠蘭の予想は裏切られ、玉祥は紙を眺めたまま口を開いた。
「修儀と充儀のところへ近々訪れることにしよう。お前からも伝えておいてくれ」
珠蘭は声が出せなかった。
玉祥が、妃嬪のところへ行くと言った。
皇帝なのだから、そういうことがあって当然だ。むしろ珠蘭のところにしか通わない方がおかしいのだ。
理解はしているはずだったのに、心臓をぎゅっと握られたような感覚がして、手先が急激に冷えた。
「か、しこまり、ました」
かろうじて了承の言葉を口にすると、玉祥が顔をあげた。
「どうかしたか?」
いつもと変わらぬ様子の玉祥に、全忠がそっと何かを耳打ちする。
その瞬間玉祥は目を丸くし、顔に喜色を浮かべて珠蘭を見たと思ったら動揺し始め、額に手をつき、下を向いた。
沈痛な面持ちで俯く珠蘭と、悶えながら俯く玉祥。
全忠ばかりはこの沈黙の中で吹き出さないように、必死にこらえて顔が真っ赤になった。
しばらくの後、玉祥が顔を上げた。
「俺が修儀たちのところへ行くのは、相談に行くだけだからな。次の春に後宮から出したいという話はしてあっただろう?」
「えっ? あっ……」
考えてみれば、そんな話をした。家臣に下賜する方向で考えていると。珠蘭から伝えると反発があるだろうから、玉祥から直接伝えたほうがいいだろう、とお互い納得していたはずだった。
なんで勘違いしたんだろう。カッと顔に血が上った。そのお勧め妃嬪の紙をじっと見ながら言う玉祥が悪いと思う、と心の中で言い訳してみる。
「……そうなのですね」
「……そうだ」
なんとも変な空気が流れ、玉祥がガタッと席を立った。
「湯浴みしてくる。今日は全忠にやってもらうから、お前はくるな」
「あ、でも」
「いいから、休んでろ」
もしかしたら今夜何か起こっちゃいますぅ?
という全忠の期待は裏切られ、結果から言うと、そういうことは何もなかった。
湯浴みから戻った玉祥を待っていたのは、ソワソワとした珠蘭だった。何となく玉祥は直視できずに視線を彷徨わせる。
珠蘭はそんなことおかまいなしに玉祥に近づいた。
「陛下。たった今連絡がありまして、徳妃が産気づいたそうです。わたくし、様子を見に行ってきます」
「なに? 俺も行こう」
珠蘭は玉祥を見上げた。
湯から上がったばかりで髪は濡れ、赤い顔をしている。季節はもうすぐ冬になろうかという頃。すっかり暗い今、外は寒い。
「その格好で外に出れば風邪を引きます。まだすぐには産まれないでしょうし、ひとまずわたくしが様子を見てきます。陛下がこちらにいらっしゃることも伝えてきますから、休んでいてください」
だがしかし、などと言っている玉祥を残し、徳妃の宮へ向かう。
徳妃の宮の前までくると、徳妃が毒を受けたときのことを思い出した。あの時もこんな時間で、暗くて、そして中に入ることを拒まれた。今宵はそのようなことはなく、すんなりと中に通される。
人はいつもよりも多いが、意外なことにバタバタした様子もなく、宮の中は落ち着いていた。部屋の前に安世が出てきて礼を取る。徳妃には会えないかと思っていたが、部屋の中へ通された。
「皇后さま、わざわざありがとうございます」
思ったより元気そうな徳妃が寝台に腰かけていた。大きなお腹を押さえている。
「徳妃、大丈夫ですか?」
「これから大丈夫じゃなくなりますけれど、まだ大丈夫ですわ。ふふっ、心配なさらないで。元気な子を産んでみせますから」
徳妃は強いなと思った。もし珠蘭がこの状況だったら、こうして落ち着いていられるだろうか。
「陛下はわたくしの宮にいます。知らせを聞いて出ようとしたのですけれど、湯浴みしたばかりですぐに出ては風邪を召されそうでしたので、休んでいるようにわたくしが言ったのです」
「まぁ、湯浴みですか? ふふふっ…………ごめんなさい、少し待ってくださる?」
お腹を押さえながら、徳妃は俯いて苦しそうな顔をした。しばらくそうした後、荒い息を吐いて、またすっきりとした顔に戻った。
「徳妃?」
「陣痛ですわ。お腹がぎゅーっと痛くなって、戻って、痛くなって、戻って、と繰り返して、最終的に生まれるのです。まだ時間が掛かるので、皇后さまも宮でお休みください」
「陛下をお呼びしましょうか?」
「いいえ、陛下に来ていただいても、できることはなにもありませんもの。出産の時に殿方は全く役にたちませんのよ?」
ふふっと徳妃が笑うと、なぜか安世が目を逸らした。過去に何かあったのだろうか。
「むしろ風邪を召されては迷惑なので、こなくていいとお伝えくださいませ。皇后さまも、気にせずゆっくりとお休みになって。産まれたら知らせるように伝えておきますから」
このまま付き添ったほうがいいか、どうしようか、と考えていると、徳妃が「彼がいるから大丈夫ですよ」と小声で囁き、安世をチラッとみた。珠蘭は小さく頷くと、徳妃の手を握った。何と声を掛けたらいいものかわからなくて、とにかく無事を祈ってぎゅっと握った。
そのうちにまた陣痛がきたらしい。徳妃がぐっと険しい顔になったので、安世に促されて珠蘭は外に出た。たぶん居続けても気を使わせるだけだろう。
「安世、徳妃を頼みますね。陛下とわたくしはわたくしの宮にいます。何かあればすぐに知らせてちょうだい」
「かしこまりました」
それから宮に戻り、玉祥と共にうとうとしては起き、また少しうとうとしては起き、そわそわして寝付けない夜を過ごした。
朝の光が入り始めてもまだ連絡は何もなかった。
玉祥と共に朝食を軽くとって、支度を整えて徳妃の宮へ向かう。まだ産まれていないようだが、夜に訪れた時よりは人の動きがある。
中から安世が飛び出してきて礼を取った。
「どうだ?」
「まだ産まれておりませんが、だいぶ近づいてきたかと」
安世は懸命に看病しているのだろう、憔悴の色が見える。
玉祥は朝議があるため表へ戻っていき、珠蘭も近くにいては気を使わせるだけなので宮へ戻った。
子が生まれたと連絡があったのは、昼も近くなった頃だった。