53.街歩き1
(おはようございます、良い朝ですね。ところでここはどこでしょう)
朝の光を感じて目覚めた珠蘭は、一瞬自分が誰だったかさえわからないほどにぼんやりとした頭で考えた。見回せばいつもと違う天幕。そもそも、ここで寝た記憶がない。
一拍遅れて、ハッと記憶が戻ってきた。
(ここは! わたしは!)
珠蘭は玉祥と共にお忍びで保養地に来ているはずだ。ということは、ここはその部屋の寝台。ふかふかで気持ちが良く大きい。そこで珠蘭は一人で寝ていたらしい。
たしか玉祥と同室ではなかったか、と思いを巡らせて、大変なことに気が付いた。
昨日は食事を取ったあとに玉祥の背を流すといって、湯殿で玉祥の髪を洗い……。それからどうしたんだっけ?
(記憶が、ない!?)
記憶がないのも不安だが、その前に湯殿でいろいろ言わなかったか。言ったな!
お酒と湯殿の蒸気のせいか、はたまた衣を身に着けていない玉祥を見たせいか、頭がポーッとなっていたことは覚えている。そこで玉祥が「何をそんなに頑張っている」とか聞くから、期待に応えたいんだというようなことをつらつらと……言ったな!
(ああぁぁぁ、どんな顔して陛下に会えばいいんだ……)
それに、記憶がそこで切れてるんだが、それから何が起こった?
そもそも、ここで一緒に寝ているはずじゃなかったか。玉祥はどこへ?
「娘娘、お目覚めですか? 開けますよ」
悶々と考えていたら天幕が開けられ、明明が顔を覗かせた。
「体調はいかがですか? いきなり倒れられて、心配したのですよ」
「倒れた?」
明明の話によると、珠蘭は昨日湯殿でいきなり倒れ、心配した玉祥が医官を呼んで診させたところ眠っているだけだろうとの診断だったらしい。
(湯殿で寝落ち……)
「陛下はどちらに?」
「別室で休むと出ていかれました」
「え、それって、使用人のお部屋へ?」
「おそらくそうなりますね」
ああぁぁぁ、と再び頭を抱えた珠蘭に、明明は溜息をついた。
「とにかく、お元気そうで何よりです。お目覚めになったことを伝えますから、娘娘は支度を整えてください」
「ちょっとまって、まだ伝えなくていい」
合わせる顔がない、と懇願したが。
「お目覚めになられたらすぐに知らせるように、と命じられておりますので無理です」
速攻で却下された。
「陛下、昨夜は非常に心配されていたのですよ。元気そうな顔をお見せするべきかと思いますが」
「うっ」
心配してくれていたのかとちょっと嬉しくなりつつ、それはそれで申し訳なさすぎてやっぱりどんな顔をすればいいのかわからない。
玉祥は先に起きていたらしく、すぐにやってきた。本当に早かった。支度を整える時間なんてなかった。寝起き姿などいつも見られているといえばそうだが、なんだか気まずい。
「大丈夫か?」
「問題ありません。陛下、昨日は大変なご迷惑をお掛けしたようで、大変、大変申し訳ございません」
「うん……心配はしたが、まぁ体調を崩していないようならば良い」
「しかも陛下、使用人のお部屋でお休みになられたとか」
「あぁ、それは、まぁ、こちらの事情だから気にするな」
「気にします。重ねて申し訳ございません」
意識がなかったとはいえ皇帝を使用人部屋に追いやるとか、もうありえない。
「ところで陛下、わたくし何か変なことを口走ったりしておりませんでしたでしょうか」
「変なこと? あぁ、俺の期待に応えたいとか、健気で可愛いことなら言っていたな」
「かっ……!? わ、忘れてくださいっ」
クッと笑いながら玉祥は無理だと言った。
「えっと、その先は……?」
「その先も言う事があったのか? そこでお前が意識を失ってしまったから聞けていないな。続きがあるのか?」
「ないです……」
意識を失うまでの言動を全て覚えていたことに関して、安心すべきか、忘れていたかったと思うべきか。少なくともその後覚えていないやばそうなことがなかった点については、非常に安堵できる事柄に違いない。
もう玉祥の顔が見られない。俯いて顔を手で覆うと、なぜか機嫌が良さそうなクククという笑い声が降ってきた。
「今日は行きたいところがある。体調が大丈夫ならば、これに着替えておけ」
全忠がニヤニヤしながら明明に渡しているのは平民服のようだ。
「ついに平民に降格……」
「違うから。俺も支度をしてくる。また後でな」
それだけ言い残すと玉祥は出て行ってしまった。ホッとしたような、どこへ行って何をするのか説明をちゃんと聞きたかったような。
とりあえず言われた通りに渡された服に着替えることにした。
服は思ったとおり、平民用のものだった。どうやら今日は平民に擬態してどこかへ行くらしい。明明と雲英も同じような服に着替えているが、二人とも、特に雲英はちょっと浮いている。
そこに現れたのはちょっとどころでなく浮いている人だった。高貴な人は何を着ても高貴なんだな、と遠い目になってしまう。
「準備はできたか? あぁ、似合っているな」
「陛下は全く似合っていませんね」
この似合っているは誉め言葉と取るべきか、貶されたと取るべきか。
「さっそく行くぞ」
「え、どこへ?」
「どこって、街歩き。言ってなかったか?」
「聞いてないです」
勢いに押されるまま馬車に押し込められ、ガタゴトとゆっくりと走りだす。昨夜のこともあり、一緒の馬車に乗るのには何となく気まずさを感じていたが、玉祥は全く気にしていないらしい。
「着いたらまずは朝食を食べよう。どんな物があるだろうか?」
まだ朝、時間も結構早い。朝食も取らずに飛び出すのには驚いたが、どこかで食べるつもりだったらしい。
「お店は調べてあるのですか?」
「いや、そうすれば楽しみが減る。平民になったように過ごしてみたいから何もするなと言ってあるし、今回は何も聞いてない」
何もするなと言われたところで何もしないわけにもいかないだろうから、お付きの者たちは裏でいろいろ調べたりしたんだろう。街歩きに許可が出たということは、きっと治安は悪くないのだと思われる。
「陛下は街へ出ることはないのですか?」
「街の視察はたまにあるが、決められたところに行くだけだ。先方も皇帝が来るというのがわかっている状態だから、丁重にもてなされるし、普段通りではないだろうな。今日は、それじゃつまらん」
「普段の街が見たいのですね」
「だからこの格好で来た。今日はお忍びだ。町の者が行くような店や屋台で食べてみたい」
「ふふっ、良い物に慣れた陛下のお口に合うか、わかりませんよ?」
玉祥はあからさまにわくわくしている。いつも凛とした顔をして年齢以上の落ち着きを見せている玉祥だが、こうしてみると少年っぽさも感じる。
珠蘭にもそのわくわくが移って、楽しみになってきた。
ガタン、と馬車が止まった。着いたらしい。扉が開けられ、玉祥はゆっくりと降り、続いて珠蘭も外へ出る。
玉祥はぐるりと見回して、呆然と立ちつくした。やってきた街は閑散としている。建物は並んでいるが人の気配はあまりなく、涼しい風がひゅうと吹いて、落ち葉がふわっと舞う。
「今日は休日か?」
「違うと思いますよ」
「朝は賑わっていると聞いたのだが」
たしかに街は街だが、こちらは高級商店街だと思われる。そういった場所は特定の、主に良家を相手にしているので、朝早くから営業しない店も多い。
馬車の中での話しぶりから、きっと玉祥は平民の利用する市のようなところを思い浮かべていたのだろう。
「陛下、あちらに評判の良い店があるそうですが、朝食はそちらでいかがでしょうか?」
全忠がぽかんと呆けている玉祥に声を掛けた。やっぱりしっかりと調べられているらしい。
「何もするなと言ってあったはずだが、予約でもしてあるのか?」
「いいえ。ですが、さすがに治安もなにもわからない場所に陛下をお連れするわけにはいきません。下見はしてあるそうです」
機嫌が急降下していくのが分かる。これは相当楽しみにしていたようだ。
珠蘭は全忠の言い分もわかった。だけど、せっかくの機会なのだ。玉祥に街歩きを楽しんでもらいたい。
「陛下、そもそも庶民街に馬車は止められませんよ。ここに馬車を置いて、歩くしかありません。きっとそのつもりなのでしょう」
珠蘭は全忠にチラッと視線を送る。少しホッとした様子が伝わった。
「全忠、この地の権力者の屋敷はどちらかしら?」
「権力者の屋敷ですか?」
全忠は後ろの控えていた一人に向かって「どこだ?」と聞いた。彼はこの地に詳しい者らしい。小声で何かを話し、それから指差した。
「あちらの方角で、瓦葺の屋根が見えますか?」
「あぁ見えたわ。あれなのね。ということは……」
権力者の屋敷の周りにはそれに準ずる貴族が住んでいる。そしてその先に豪商や裕福な平民街があって、高級商店街もそこにある。珠蘭たちは今、その辺りにいるのだろう。
その先に庶民街があるのが一般的なので、権力者の屋敷と逆方向に進んでいけば庶民が利用するような店や市がある可能性が高い。
「陛下、先程提案されたお店よりも歩きますけれど、いいですか?」
「あぁ、それは構わないが」
「ならば、ここはわたくしに任せていただけますか? 街歩き、したいのでしょう?」
ずんずん進む珠蘭に、玉祥はぴったりとついてきた。全忠と雲英が続き、そこから距離を開けて平民服の者たちがぞろぞろついてきた。たぶん護衛だ。あんなにいたのか。
しばらく進むと人も増え、何やら賑やかになってきた。どうやら当たりだったらしい。良い匂いも漂ってくる。
こういった所を考えていたのでしょうと得意げに見上げた珠蘭に、玉祥は素直にすごいなという目線を向けた。
「お前、ここに来た事があるのか?」
「ここではありませんけれど、お使いで似たような街に出たことはありますよ。昔々の話なので当時とは様子が変わっているでしょうけれど」
珠蘭としての話じゃないとにじませると、玉祥は「なるほど」と頷いた。
「そういえば、最近の話だと李婕妤とも街歩きをしましたね」
それを自分で言って、ふと足を止めた。あの時、李婕妤と街を歩き、その後で襲われた。思い出して急に怖くなった。
「どうした?」
「いえ、何でもないです」
無理やり足を進めようとすると、玉祥に手を握られた。
「これで大丈夫だろう?」
「え?」
「これならはぐれることはないだろう? 何かあったら俺が守るから、心配するな」
見上げると、玉祥はちょっとだけ気まずそうに目を逸らした。
「俺は武官じゃないが、お前一人くらい守れるはずだ、たぶん。最近は書類仕事が多くてあまり鍛えられてないが、少なくともお前よりは力もあるだろ。……それに、後ろを見てみろ。あれだけの護衛がついてる。だから心配するな」
いつの間にか全忠や雲英も離れたところにいた。全忠はわりと平民に溶け込んでいるが、雲英はやっぱりちょっと浮いている。隣の人が一番浮いてるが。
「行こう」
ぐいっと手を引っ張られ、珠蘭は足を踏み出した。不思議とさっきの重さはなく、すんなりと足が動いた。
「あ、それから今日はお忍びだ。陛下と呼ぶんじゃないぞ。名で呼べ」
「お名前ですか?」
「たぶん俺の名は市井までは浸透してない。陛下と呼ばれれば身分がすぐにわかってしまうが、名なら大丈夫なはずだ。いいな、珠蘭?」
わざと名を少し大きく呼ばれ、ドキッとした。そういえば、今まで名で呼ばれたことはない気がする。同時に、玉祥を名で呼んだこともなかったはずだ。
玉祥を見上げると、なんだか期待のこもった眼差しを向けられている気がした。面白くなってフッと笑う。
「はい、玉祥さま」
玉祥はビクリと肩を震わせ、そして固まった。
誤字報告助かります。ありがとうございます。




