52.風呂
だいぶのんびりと散歩を楽しみ宮へ戻ると、本邸らしき一番大きい建物ではなく、隣のやや小ぶりな宮へ通された。部屋からも湖が見え、景色がいい。夕日も見えるかもしれない。
部屋には玉祥と珠蘭、どちらの荷物も運び入れられているように見えた。
「陛下もこちらの部屋なのですか?」
この部屋も充分に格が高い。けれど、おそらく一番格の高い部屋は本邸にあるだろう。皇帝をこちらに通す意味がわからない。お忍びということになっているから本邸を使わないのだろうか。
「ここは皇后用の宮だ。本邸は改修工事中でな。こちらに一緒でも大丈夫か問われたから構わないと答えてしまったが、良くなかったか? もし駄目ならば俺は別の部屋へ行くが」
本邸の他にいくつか宮があるように見えたが、そこはそれぞれ妃嬪が滞在する場所らしい。本邸には皇帝用の部屋とその他にいくつも部屋があるけれど、后妃用の宮はだいたいのところが主人用の部屋と使用人部屋でできている。
「別の部屋って、他の宮ですか? それとも使用人部屋?」
「他の宮は用意されていないはずだから、この宮の別の部屋だな」
「陛下が使用人の部屋で良いはずがないじゃないですか。行くならばわたくしが行きます」
まさか皇帝に使用人部屋を使わせるわけにはいかないと必死で訴えると、玉祥はあからさまに沈んだ顔をした。
「そうか、駄目か。いつもお前の宮で一緒に寝ているし、問題ないと思ったのだが、一緒では駄目だったのか。そうだよな、俺がいると息抜きできないよな」
うじうじ言い始めた。なんだろう、今日の玉祥は面倒くさい。
「そうじゃないです。陛下がよろしいのなら、わたくしは一緒で全く問題ありません」
それからは部屋でのんびりと過ごした。「昼に何もしないなんて変な気分で落ち着かない」と言い始めた玉祥は仕事中毒に違いない。「ではこちらの案件を」と書類を出してきた全忠には笑ったけれど、なんだかんだ時間があれば珠蘭も後宮のことを考えているので、いきなり何もなくなるよりは程よくやることがあったほうがいいのかもしれない。
夕日はとても綺麗だった。外へ出ようとすれば護衛も動かなければならなくなるので室内から眺めるにとどめたが、湖が夕日の色で輝くのはなんとも言えない美しさがあった。
それから少し早い夕食が運ばれてきた。運んできたのは着飾った年頃の娘である。しかも、代わる代わる何人も。まるで自分をアピールするように、玉祥に微笑みかけている。お忍びということで最低限にしか声を掛けていないとは聞いていたが、それでもこうなるとは、皇帝は大変だ。
その中でひときわ豪奢な衣装で登場した娘が、ふわりと裾を翻して玉祥と珠蘭の前で礼を取った。
「陛下、皇后さまにご挨拶を申し上げます」
口を開こうとしない玉祥に代わり、珠蘭が「楽になさい」と声をかける。
今日は誰の挨拶もいらないから放っておいてほしい、という願いはどうやら聞き入れられないらしい。
顔を上げた彼女は勝ち気な瞳で珠蘭を見たあと、玉祥に向かってあだっぽく微笑んだ。ふわりと彼女の衣から甘い香りがし、ほんのりと色気が飛ぶ。
(胸あるな)
思わず目が行ってしまったのは仕方がないだろう。だって明らかに強調されている。顔も悪くなく、後宮にいてもそこそこ目立つことができるだろうと珠蘭は思った。だけど、彼女に非はない……いやわからないが、今は時期が悪い。豊満な身体つきといい、色気をまとう動きといい、なんとなく昭媛に似ているからだ。
彼女を気に入るとは思えないが、と玉祥をチラッと見ると、案の定いい笑顔だった。微笑んでいるように見えるが、これは不機嫌な時の顔だ。
「お料理をとりわけさせて頂きます」
「いや、必要ない。下がれ」
断られると思わなかったのか、彼女は目を瞬かせて動かない。このまま硬直状態を続けるのはお互いにとってよろしくないので、仕方なく口を挟むことにした。
「陛下は下がれとおっしゃいましたよ」
信じられないというような顔をした彼女は、珠蘭をひと睨みして出ていった。これはきっと皇后に追い出されたという報告になるんだろう。まぁ別にそれで構わない。
全忠が苦笑しながら皇帝の耳元に口を寄せた。
「余興に舞いや器楽はいかがかと声がかかっておりますが……」
「いらぬ」
「ですよね」
「若い娘をこの部屋に近付けさせるなと伝えておけ」
その言葉には従う事にしたらしく若い娘は来なくなったが、代わりに色気の衰えない熟女が送り込まれてきたときには、玉祥はもう言葉も出なかった。珠蘭は腹筋を試され、全忠は崩壊していた。
「笑いごとじゃないからな」
「すみません、陛下も大変だなと思いまして」
「お前と同室にしたのは、こういうのを回避する意図もある。俺一人だとどんな奴が送り込まれてくるかわからんからな。いきなり危うい格好で現れて背中を流すと言ってきたり、寝ようと思ったら寝台に女がいたり」
「経験談ですか?」
「……とにかく、お前がいてくれればさすがに夜這いはないだろう」
経験談らしい。本当に大変だ。
ゆっくりと料理を楽しむ。全忠や雲英は控えているが気の置けない人達ばかりだ。こんな日もたまにはいい。珍しく玉祥はお酒を嗜んでいる。
「お注ぎします」
「お前も飲むか? 甘めの酒だぞ」
「いえ……」
断りかけて、飲んでみるのもいいかもしれないと思った。珠蘭は普段、酒を飲まない。いつもと違う場所、この穏やかな雰囲気がそうさせたのかもしれない。
「頂きます」
声は掛けたが飲まないと思っていたのだろう、玉祥はわずかに目を見張り、それからフッと笑った。
「注いでやろう」
「感謝します」
「そんなかしこまるなよ」
皇帝自ら酒を注ぐのは大層な事なので少し身構えたが、玉祥はなんてことないように珠蘭に差し出した。
ゆっくりと口に含む。たしかに甘めで口当たりがいい。珠蘭は酒に詳しくはないが、さすが皇帝に出すものなだけあって良い酒なのだろう。鼻に抜ける香りは爽やかで、甘味が広がりながら、後味はすっきりしている。
率直に言って好みだった。
「美味しい」
「気に入ったか?」
玉祥は酒の入った瓶を珠蘭に傾け、減った分を注いだ。もう一口含み、味わうように口の中で転がして嚥下する。ほぅ、と溜息がもれた。しつこくないのでいくらでも飲めてしまいそうだ。
「お前、意外と飲めるのか?」
「どうでしょう? あまり飲んだことがございませんので」
「なら、今日は好きなだけ飲め」
酒と共に箸も進んだ。料理も美味しい。食べて、飲んで、食べて、飲んだ。少しずつ頭がふわふわして、なんだか楽しくなってくる。
「ふふふ、美味しいですねぇ」
「おい、そろそろやめておけ。顔が赤くなってる」
「そうですか?」
同じくらい飲んでいるはずなのに、玉祥はいつもと変わらない。
いつの間にか料理が下げられていて、珠蘭の前には酒ではなくお茶が出されていた。もうちょっと飲みたい気がしたけれど、玉祥にやめておけと言われたのだから素直にやめる。酔いが回っている気はしないけれど、顔がちょっと熱い。
料理の皿を片付けて戻ってきたのだろう、代わりに果物ののった盆を手にした全忠がそれを卓子に置きながら玉祥に声をかけた。
「陛下、湯浴みの準備もできているようですけれど、どうなさいますか?」
「んー、少し休憩してから入る」
「かしこまりました」
湯浴み、湯浴み、湯浴み。
珠蘭は頭の中で反芻した。後宮では玉祥は自室で湯浴みしてから珠蘭の宮へ来る。だけど、今は同じ宮を使っていて、ということは玉祥もここで湯浴みをするはずだ。
背中を流すと言って女性を送り込まれたこともあると言っていた。今日も送り込まれるのだろうか? そういう女性を喜ぶ性格なら放っておけばいいが、きっと玉祥は嫌がる。珠蘭と同室にしたのはそういうのを回避する目的もあると言っていた。
(ということは、背中を流すのはわたしの役目なのでは?)
背中を流す、ということは、どういうことだ。
玉祥の背を服の上から触れながら、その中を想像したのを思い出した。もわん、とその想像物が頭に浮かぶ。
(いやいやいや……)
でもなんだか今日は大丈夫な気がすると、ほわほわした頭で思った。
現に、それを思い出してもあまり心拍数が上がっていない。
(いい機会なんじゃないだろうか)
これを機に、もしかしたら一気に克服できるかもしれない。
それに、見知らぬお姉さんが玉祥の背を流すのは、なんか嫌だ。
珠蘭はぐっと拳を握った。
「お背中お流しします!」
「は?」
〇〇〇
玉祥は脱衣所で全忠に帯を緩められていた。頭やいろんなところについている装飾品が外されていく。
「あいつ、本気か?」
「おそらく。今ごろ濡れても大丈夫な衣に着替えているはずです」
いきなり「背中を流す」と言ってきた珠蘭。同室なので同じ湯殿を使う事にはなるが、玉祥にそんなつもりは全くなかった。だから何度もやらなくていいとやんわり断ったのだが、今日の珠蘭は聞く耳を持たなかった。
「あいつ酔ってるのか?」
「陛下、飲ませてどうするおつもりですか?」
わざとらしくニヤッと口端を上げる全忠をねめつける。美味しいといって慣れない酒を飲んでいた珠蘭。ほぅ、と息を吐きながら楽しそうに飲んでいるのを可愛いと思ったのは事実だ。だけど顔が赤くなってきたのを見てすぐにやめさせたし、量にしてみればそんなに飲んでいないはず。
当然だが、たくさん飲ませてどうのこうのなど考えていない。あわよくば、なんてことも考えていないはずだ。
お忍びなので普段よりは簡素な服装だ。すぐに用意が整ってしまった。下は布を巻いているが、それだけなので何とも心もとない。
「大丈夫だろうか?」
「皇后さまの心配ですか、それとも?」
「……俺」
ブッと吹き出した音が聞こえた。さらにねめつけたいところだが、着ていた衣を置いていて後ろを向いている。顔が見えないかわりに背中に向かって思いっきり睨んだ。
「もし駄目そうだったら止めろ」
「お任せください。そうなったらこの全忠、全力で後押しいたします」
「おい、それじゃ意味ないだろ」
「はいどうぞ。いってらっしゃいませ」
全忠が開けた扉を抜けると、もわっと湿気を含んだ空気が流れた。幸いまだ珠蘭は来ていなかったらしく、今のうちにと玉祥は浴槽に入る。
体はあとで自分で流すとして、髪を洗うのを手伝ってもらい、下がらせればよいか。そんな事を考えていると、「失礼します」と声が聞こえて扉が開いた。しっかりと衣を着ていることにホッと息を吐くのと同時に、玉祥はゴクリと唾を飲み込んだ。
「本当に来たのか」
「大丈夫です。お任せください!」
「そんなに意気込んでやることじゃないぞ」
「結構前ですけど、背中の流し方も習ったのですよ。こうなるとわかっていれば復習してきましたのに……でも大丈夫です。まずは髪でいいですか?」
湯につかりながら背を珠蘭に向けると、すぐ後ろに珠蘭が来た気配が伝わった。髪が下ろされ、湯の通る感覚がする。
「陛下の髪は綺麗ですね」
頭に触れ、スッと通される細い指。嫌じゃない。むしろそれを珠蘭がやってくれていると思うと口端が上がりそうになるのに、どうにも落ち着かない。
「誰に教わったんだ?」
「雲英ですよ。明明に練習台になってもらって。かなり前の話ですけど。どこか気になるところはありますか?」
「ない」
お湯が掛けられ、流されていく。布で拭かれて香油が塗りこまれたらしい。ふわっと良い香りが漂う。櫛で丁寧に梳かれるのは、なんとも言えず気持ちがよかった。
「無理してるんじゃないのか? 後は自分でできるから、もう出ていいぞ」
「だ、大丈夫です」
「何をそんなに頑張っている」
「……慣れようと思って」
髪が軽くまとめられ、肩に手が乗せられた。この部屋は温まっているにも関わらず、珠蘭の指先は冷たい。
「陛下が言ったんじゃないですか。わたくしが『子を授かることもあるかも』と言ったら、『期待させる』と。陛下にはとっくに諦められていると思ったのですが、期待してくださっているのかと思って」
「あぁ、うん」
「やっぱりそうなのですか?」
「それはその、いつかは、とは思うが、無理しなくていいぞ。約束を破るつもりはないし、お前が気負うことはない」
一度ピクリと手が動いてから、やわやわと肩揉みが始まった。いつもの服越しと違い素肌に指が触れる感覚に、玉祥は身震いした。嬉しいが、やめてほしい。
「わたくし、陛下が望んでくださるのなら、それに応えたいと思ったんです。それがたとえ政略的な思惑だったとしても」
「え?」
「陛下の事は信頼してるし、怖いと思わないし、一緒にいると楽しくて安らげて、だから応えたいと思って、陛下なら大丈夫だと思って、何でもしたいのに、わたくしはそうしたいのに、どうしようもなくて辛いです」
「……え?」
お酒を飲んでいるからだろうか、少し舌足らずのような、子供っぽいような言い方だ。
でも玉祥はそんなことはどうでもよくて、言われた内容を理解するのに必死だった。珠蘭はいったい何を言った? 都合よく解釈しそうになってしまう。
「やっぱりそういうことを想像したら体がついていかなくて、どうしても強張ってしまって。陛下は怖くないのに、大丈夫なはずなのに」
肩揉みをやめた手が形を確かめるように肩から腕のほうに下りてくる。
「いろいろやってみて、少し良くなったかなと思うんですよ。そういった本を読んでみたり、陛下に少しずつ触れてみたり、こうやって肩を揉むのは大丈夫だから、きっとその先だって……」
つ、と細い指が玉祥の胸の方へ動いてきた。そのまま覆いかぶさるようにふわっと珠蘭の体重が掛かり、さすがに玉祥も体を強張らせた。
「お、おい」
後ろから抱きしめられているような格好に、玉祥の心拍数が上がる。
まて、これはどうしたらいい。皇帝の手付きを狙うどこぞの女でもあるまいし、本格的に酔っているのか、それとも……?
玉祥が忙しく自問自答している間に珠蘭の重さはだんだん増していき、そしてそのままずるりと崩れ。
じゃぼん。
湯の中に倒れ込んだ。
「お、おいっ」
慌てて抱き上げる。意識がない。
軽く頬を叩いてみるが、戻る気配はない。
「全忠!」
扉に向かって叫ぶと、全忠の呑気な声が聞こえた。
「あー、えー、この全忠、ただいま席を外しており……」
「ふざけてる場合じゃない! 雲英を呼べ。明明もだ。すぐに!」
さすがにただならな雰囲気を感じたのか、バタバタと走っていく音が聞こえた。




