51.小旅行
秋半ば。うっすらと色付き始めた後宮の庭園を、珠蘭は麦ちゃんを連れて散歩していた。珍しいことに、玉祥が一緒だ。皇太后の幽閉騒ぎから少し落ち着き、時間が取れるようになった、と急にやってきた。いきなり現れた皇帝のおかげで今日の庭園は賑やかだ。
「陛下に見初められたい女性たちが集まってきましたよ」
これだけいるのだから、好みの娘の一人や二人いるんじゃないだろうか。
どうしてかちょっとやさぐれた気持ちで珠蘭が話しかけると、玉祥は一度周りに目を向けてから、ずずずと珠蘭との距離を詰めてきて、珠蘭の頬をするりと撫でた。
「余の目に映るのは皇后だけだ」
わざと聞こえるように大きめな甘い声で言い、微笑みまで追加の大盤振る舞いである。
周りから声にならない悲鳴が聞こえてくる。
(うわぁ……)
後宮では皇帝の寵愛がものを言う。皇后が後宮の主として恙なく治めるには、皇帝の寵愛が皇后にあると見せるのが一番だ。
先日の「皇帝の寵愛は昭媛に移ったらしい」という噂。宮女や下女には全く信じられなかったが、侍妾や女官には少しは効いた。表だって昭媛につくような者はいなかったが、皇后とは距離をとっておこうとする者が出たのだ。
玉祥はこうして見せることで皇后の名誉回復をはかり、立場を知らしめようとしている。
わかっている。これはわざとそうしているのであって、玉祥がそう思っているわけじゃない。それがわかっているのに……。
どうしてだろう、触れられた頬が熱い。
顔を見られないように、俯いて歩く。玉祥との距離が近い。
「どうした、体調が悪いのか?」
「いえ、大丈夫です。あの橋を渡って戻りましょうか」
池の上は涼しい風が吹いている。きっと頬の熱もすぐに取れるだろう。
〇〇〇
最近珠蘭の様子がおかしい。
何か様子が違う気がするとは思っていたが、先程庭園を散歩して、絶対におかしいと玉祥は確信した。
「なぁ全忠、あいつなんだか様子がおかしくないか?」
「あいつとは皇后さまのことでよろしいでしょうか?」
「他に誰がいる」
「いっぱいいらっしゃいますけど?」
全忠は執務に集中できていない玉祥の前からそっと書類を抜き取り、代わりに茶を置いた。こういうときに仕事を渡しても一向に進まないことを、全忠はよく知っている。
「どのようにおかしいのですか?」
「最近避けられている気がする。俺が近付くとさりげなく離れるが、そうかと思えばいきなり近付いてきて腕とか体を触ってきて、期待してどうしたのか聞けば何でもないとまた離れてしまう。あまり目も合わせてくれない」
「期待するんですね」
「雲英にどうかしたのかと聞いてみたら、笑って『最近は熱心に本を読んでいらっしゃいますよ』と言われた。意味がわからないし、何の本かも教えてくれない。というか、何の話だ?」
「読書の秋ですからねぇ」
「読書の秋?」
「秋は読書をするのに相応しい季節だということですよ」
どこもかしこも話がかみ合っていない気がするのは、気のせいだろうか。
「先程庭園を共に散歩したのだが、長明宮に戻るなり距離を取られた。昼食を共にとっても、あまり話してくれない。一体どうしたのだろうか? 急に行ったのが迷惑だったか?」
「陛下、いつも皇后さまのところには思いついたようにいきなり行くじゃないですか。今更迷惑って」
「なんだ?」
「なんでもございません」
「俺は避けられているんだろうか? 嫌われたか?」
本気で悩んでいる玉祥は、全忠が笑いを堪えていることにも気がつかない。
「陛下、もしかしたら、皇后さまも疲れていらっしゃるのかもしれませんよ。いろいろありましたからね」
「たしかに、あいつにも負担をかけたよな」
「たまには息抜きが必要かもしれないですよ」
「息抜き?」
「幸い仕事が落ち着いてきていますので、少しなら休みが取れます。皇后さまも一緒にお出かけになられてみては?」
それからの玉祥は早かった。
ズババババという音が聞こえそうな速度で仕事をこなしていく。
全忠はそんな玉祥に笑いが止まらない。雲英と打ち合わせながら、「顔がにやけていますよ」と何度注意されたことか。
全忠は有能な側近である。
どうすれば皇帝の仕事がはかどるか、一番よくわかっているのだから。
〇〇〇
「お忍びで出かけるから用意しておけ」
そう言われたのはわずか数日前。一泊で王都から近い保養地に行くらしい。どうしてだろうとは思ったが、皇帝にそう言われれば断るわけにもいかないし、断る理由もない。しかもしっかり根回しされているらしく、雲英から断れない圧を感じた。
留守中の事を身重な徳妃に頼むのは気が引けたが、徳妃からは「いってらっしゃいこちらのことはご心配なく一泊といわず何泊でも。仲良く楽しんできてください」とキラッキラな笑顔で言われた。
どうやらこの時期にしたのは、徳妃の子が生まれれば、より動けなくなるからという理由もあるらしい。
珠蘭は不在にするその二日、表向きは少し体調が良くないから休んでいる、ということになっているらしい。ちなみに玉祥もそういうことになっているらしい。当日陽秀宮に来てみれば、非常に元気そうな玉祥がいたが。
「陛下にご挨拶を」
「来たか。では行くぞ」
一応お忍びということで裏門から出て、馬車に乗った。周りを警護の軍人が固めている辺りで、だいぶ目立つ集団になっている。お忍びとは何ぞやと思わなくもない。
「いきなりお忍びだなんて、どうしたのですか?」
「んー、俺も忙しかったし、お前もいろいろ大変だっただろ。たまには息抜きも必要だろうと全忠に言われてな」
「そんなにわたくしに気を使わなくて良かったのですよ」
「俺も行きたかったんだ。だから、そんな顔してないで付き合え」
皇帝はいろいろなところにいくつも宮を持っている。今回行くのはその中でも一番近いところにある宮らしい。近いといっても馬車で三時間はかかる。その間、玉祥は大丈夫だろうか。馬車酔いしやすい体質のようだから。
……大丈夫じゃなかった。
途中下車すること二回。休憩時間を長めに取ったことにより、宮に着いたのはお昼をゆうに回っていた。
「昼食は……無理そうですね」
「俺に気を使わなくていい。お前だけ食べろ」
「では、遠慮なく」
盛大なる出迎えを受け、用意された豪華な昼食を前に、玉祥は「無理」という顔をしている。せっかく用意してくれた料理人たちのためにも、少しは手をつけるのが礼儀というもの。珠蘭は言われた通り、気を使わずに食べ始めた。
それを見た玉祥はクッと笑う。
「気を使わなくてもいいと言ったが、本当に遠慮しないんだな」
「した方がよかったですか?」
「いや、しない方が楽だ。気を使うなと言ったところで大抵の奴は、陛下が食べないなら食べられません、とか言ってくるからな。そうなれば俺は無理にでも口にいれなきゃならなくなる」
「陛下も大変ですね。あ、これ美味しいです」
そんな珠蘭でもさすがに一人で堪能するのは気が引けたので、後で気分が良くなったら食べられるようにいくつか包んでもらい、昼食を終えた。
「部屋で休まれますか?」
「いや、せっかく天気がいい。少し散策しよう。歩いているうちに気分も晴れよう」
この宮は湖のほとりに建てられている。宮からも湖が見えるし、近くに行くまで徒歩でもそんなにかからない。
だいぶ顔色が良くなってきた玉祥の歩みに合わせて進む。ずっと後宮にいる珠蘭にとって、外の世界を見る機会は少ない。これだけでも気持ちが明るくなる。
湖のすぐ前まで来た。珠蘭は早足で近づくと、水にそっと触れる。水はひんやりと冷たい。隣で玉祥も水に手を入れている。後ろで雲英が変な顔をしているが、何も言わないところを見ると今日は見逃してくれるつもりなんだろう。
湖沿いに歩いていくと、東屋があった。半分湖に浸かる形で作られており、入ってみるとまるで湖の上に浮いているみたいに感じる。水面がキラキラと輝いて美しい。きっと夕日の頃には赤く染まるのだろう。
少し離れて護衛がいるが、声が聞こえない範囲だ。こうしていると、二人きりになったみたいに感じる。
「湖、綺麗ですね。徳妃にも見せてあげたいです」
「そうだな。次は皆で来てもいいかもしれない。本来こういった保養地は皇帝が妃嬪をぞろぞろ連れてくる場所らしいからな」
「妃嬪はあまり外に出ることができませんから、楽しみの一つになりそうですね」
「そうなんだよな。可哀想だよな。できれば外に出してやりたいと思うんだけどな」
玉祥は机に頬杖をついた。片足を椅子に乗せてだらけた態度をしている。今日は皇帝の威厳はどこかに置いてきたらしい。
後宮に入った女は、基本的に外出は許されない。皇帝の手が付いていない者や女官たちは年季で外に出る可能性があるが、徳妃のように子を設けていればそれも難しい。
「陛下の言う『外に』というのはこういう外出ではないのでは?」
玉祥はフッと笑った。否定しないということは、そういうことだ。
「修儀と充儀も、いずれ外に出そうとしていらっしゃるでしょう」
「気付いてたか。通わなくなって二年過ぎた。次の春にそうできればと考えている。二人は俺が手をつけてしまったからな、下賜する方向がいいかと思ってる」
「手をつけておいて、なぜ外に出そうとするのです?」
普段だったら聞かなかっただろう。でも、こののどかな風景が珠蘭の口を柔らかくする。
「放り出すな、最後まで責任取れ、ということか?」
「いいえ、そんなふうには思っていませんよ」
「俺は後宮があんまり好きじゃないからな。母上たちのやり取りを見ながら育てば、後宮が女にとって幸せな場所じゃないことくらいわかるだろ。後宮にいるよりも外のほうが、まだいいんじゃないかと思ってる。だからできれば出してやりたい」
皇太后たちの時代は今よりも後宮にたくさんの女がいて、争いも熾烈だったと聞いている。そんな様子を子供ながらに敏感に感じ取ってきたのだろう。
「じゃあ手をつけるなと言われそうだが、皇帝になってしばらくは俺に力がなかったんだ。母上にも逆らえなかった。だから、大丈夫そうな女のところに通った。修儀と充儀はそれだ」
「大丈夫そうな女?」
「俺だって、無理やり後宮に入れられて、泣いて嫌がる女を手込めにしたくない。かといって、俺に色目を使ってくるような奴は野心が強い。もしそんな女が子を産めば、いずれ火種になる可能性があるだろ。家格が低すぎても駄目だが、徳妃よりも高いといずれ問題になる」
思った以上に考えられた人選だったらしい。
好きで選んだわけじゃないと知って切なくなった。同時に少しホッとしているのはなぜだろう。
「皇帝に自由なんてない。なりたくて皇帝になったわけじゃないが、放り出すわけにもいかない。女だって、好きに選べるわけじゃない。……すまない、せっかく息抜きに来ているのに、つまらん話になったな」
玉祥を見ると、水面のキラキラが少し顔に映っている。綺麗な人だな、と思う。
「どうした?」
「陛下は綺麗だなと思っていたんです」
「綺麗? 男に言う台詞じゃないぞ」
「そうですか? 男でも女でも、綺麗は綺麗でいいじゃないですか」
「お前も……」
「何ですか?」
「何でもない」
聞き取れずに聞き返すと、プイッと湖の方を向いてしまった。何が言いたかったんだろう。
玉祥と同じく湖面に目を移すと、水鳥が数羽浮いている。その中にぴったりと寄り添う二羽が見えた。番だろうか。あんな風に寄り添って歩んでいけたら、と一瞬考えて玉祥を見た。珠蘭は正妻ではあるけれど、玉祥は皇帝。あの鳥のようにはなれない。
そろそろ食べられる頃合いかと思い、包んでもらった料理を出す。当たりだったようで、玉祥はすぐに手を伸ばした。
食べられるようになって良かったと見つめていると、ふいに玉祥が顔を上げた。ジトッと見つめられて戸惑う。
「ど、どうかしましたか?」
「最近お前、俺を避けてるだろ」
「え? 避けてませんけど?」
「嘘言うな。俺が近付けば離れるし、あまり目も合わせないじゃないか」
珠蘭にそんなつもりは一切なかったけれど、ちょっと思い返してみる。
珠蘭は玉祥の「期待」とやらについて、珠蘭なりに考えた。それは玉祥が珠蘭とそうなることを望んでいるということであって、そういうことであって、そうなんだろう。自分でも考えていると頭の中がぐるぐるしてよくわからなくなってくる。だけど、そのはずだ。
それで珠蘭はどうしたいかというと、それに応えたいと素直に思ったのだ。玉祥がそう思ってくれるなら応えたい。驚くほどすんなりとそう思った。たとえそれが政治的な思惑だとしても。
玉祥のことを怖いとは思わない。一緒にいるのはむしろ安らげる気がする。だけど玉祥を男性として捉えると、やはり身体が強張った。恐怖心とは根深いものだ。
克服するにはどうすべきか考えた。
そう考えた時になんともいいところに春慶がいた。春慶には失礼だが、この人は宦官この人は宦官この人は宦官、と念じながら、服の上から背や胸にペタペタと触れてみた。もちろん際どい所は触ってない。結果、珠蘭は心拍数が少し上がったが大丈夫だった。が、春慶が大丈夫じゃなかった。「勘弁してください」と逃げられた。
それからしばらく彼は珠蘭から逃げていたので、二度としませんと謝った。
次に本を眺めた。嫁入り前の高貴なお嬢様向け図解あれのお作法本だ。最初は動悸がしたが、毎日見ているうちに大丈夫になってきた。効果ありだ。
少し自信がついてきた珠蘭は、玉祥に触れてみることにした。肩揉みが大丈夫なのだから、他も大丈夫なはずだ。試しに近寄って腕に触れてみた。問題ない。背中も触ってみた。触れながら、服の中を想像してみた。ドキドキした。
ここで振り向いた玉祥に「どうした?」と聞かれて心拍数が跳ね上がる。大丈夫じゃなかった。「何でもないです」とごまかして、少し距離を取る。
(たしかに距離を取ったな……)
避けたつもりは全くなかったけれど、なんとなく気まずかったりドキドキしたりして距離は取ったかもしれない。
目の前の玉祥を見る。ジトッとした目を向けられている。でもそんなこと言えるだろうか? 「目を逸らしたのは貴方の服の中を想像して心拍数が上がり見ていられなくなったからです」……言えない。まるで痴女じゃないか。
あわあわと考えていたら、玉祥がふいに目線を湖面に移した。横顔に哀愁が漂っている。
「お前は外に出してやれない」
「へ?」
変な声が出た。外に、というのはきっと後宮から出すということだろう。珠蘭は皇后だから、そんなことは不可能だと最初からわかっている。
「陛下だって、皇宮から出られないでしょう?」
「まあな」
「陛下が皇宮にいる間は、わたくしも出るつもりなどありませんよ。わたくしは皇后ですから。それとも陛下はわたくしなどさっさと出してしまいたいと思っていらっしゃいますか?」
「そんなわけないだろ! ただ、お前は俺といるのが嫌になったかと思って、だな……」
だんだん玉祥の声が小さくなり、最後のほうは聞き取れない。聞き取らせるつもりもないのかもしれない。
「お言葉をお返しします」
「えっと、どの言葉だ?」
「『そんなわけないだろ』です。わたくしは、陛下に疎まれない限り、陛下のお側におります。本当に避けたつもりなどなかったのですよ」
玉祥は目を見張った。
それからゆっくりと口端を上げ、「そうか」と呟いた。




