50.相談
徳妃の話を聞いてから数日。
珠蘭の元へ玉祥の訪れはなかった。後宮の別の宮へ行っているわけでもないようなので、単純に忙しいのだろう。珠蘭も日中は李皇太后が幽閉されたことで後宮内がバタバタしており、いろいろと慌ただしい。きっと玉祥はもっとだろう。
(ちゃんと寝られているといいけれど)
皇后の職務の一つとして、皇帝が後宮のどこを訪れたかは把握している。でも表での様子は大まかなことしかわからない。
『皇后さま、陛下を頼みますね』
徳妃はそう言ったけれど、一体何をどうしたらいいのだろう。玉祥の宮へ押しかけてあれやこれやと世話を焼くのがいいだろうか。いや、嫌がられそうな気がする。
そういえば、玉祥は妃嬪を自身の宮へ召し出すことはほぼない。珠蘭も仕事で昼に訪れたことはあるが、夜に呼ばれたことはない。後宮へ渡るよりも呼んでしまったほうが楽な気がするが、それをしないということは、私室へ入られるのは嫌なのかもしれない。
とすれば、一体何ができる?
悶々と考えていると、今宵の玉祥の訪れが告げられた。
「よかったですね、皇后さま」
「え?」
「だって、陛下がいらっしゃらないから寂しかったのでしょう? 何か悩んでいるみたいでしたし」
目を丸くすると、明明はそれを気にせずに「さぁ準備、準備」と呟いて行ってしまった。
来ない間は何ができるか悩み、来ると言われたらそれはそれで何をしたらいいかわからず、また悶々と悩むことになった。
結局いつもと大して変わらないまま迎えた夜。
出迎えるために建物の外へ出ると、涼しい夜風が頬をかすめた。つい最近まで夜でも生ぬるい気温だったというのに、季節は秋に移ろうとしているらしい。
「陛下にご挨拶を。疲れていらっしゃいますね」
「まぁ、いろいろあったからな。お前も後宮をまとめるのに忙しいだろう?」
「徳妃も動いてくれていますので、わたくしの方は大丈夫です。とりあえず中へどうぞ。夕食は召し上がりましたか?」
「軽く食べた」
軽く、ということはしっかり食べていないに違いない。明明に目配せして、簡単につまめる料理をいくつか出してもらう。
「もう毒は盛られていないか?」
「はい、なくなりました。徳妃のところも落ち着いたみたいです」
「そうか」
毒の危険が減ったことは喜ばしいけれど素直に喜べないのは、それが皇太后によるものだったと言っているようなものだから。珠蘭にとっては気の合わない姑だが、玉祥からすれば生母だ。やりきれない思いもあるだろう。
席につき、料理をつまみながら、近況報告をする。
「昭媛は相変わらず牢の中で暴れているらしく、残念ながらまだ下女の仕事をさせられない状態です。しばらくは仕方がないですね。皇太后さまの様子はいかがですか?」
「母上も……いや、皇太后も宮で暴れているらしい。こちらもしばらくは仕方がないな。武力を行使してでも宮から出すなと厳命してあるから、外に迷惑が掛かることはないだろう。落ち着いたら皇后に管理を任せることになる」
「いつでもおっしゃってくださいませ」
皇太后も後宮の女性なので、権限は皇后にある。皇帝の生母であるため扱いが難しく、一時的に皇帝預かりとなっているが、本来であれば皇后が取り仕切る問題だ。
「陛下に相談があるのですけれど」
「なんだ」
「李婕妤を九嬪の位に上げたいと考えています」
玉祥は動かしていた箸を止め、珠蘭を見た。ぐぐっと眉間に皺が寄る。
「理由は?」
「一つは子のためです。母の身分により疎まれることを避けたいのです。もう一つは、後宮を恙なく治めるために、彼女の力を借りたいのです」
「李婕妤の?」
「はい。李皇太后さまが幽閉となり、後宮内の李家派閥に属する者達をまとめるのが難しくなっています。いずれは貴妃がその役割を担うのでしょうが、まだ彼女に任せることはできません」
李皇太后という絶対的権力者を失って、後宮がガタついている。余家派閥は徳妃が上手くまとめてくれているが、李家派閥は現在トップがいない状態。まとめ上げる能力がある者がいないのだ。
厳しい顔を続けながら箸を動かす玉祥に、珠蘭は肩を落とした。
「わたくしが皇后の仕事ができない状態になった時のことを考えたのですよ」
徳妃が毒に倒れた騒動で軟禁状態だったとき、もし自分が罪に問われることになったらと考え、引き継げるように準備しようとした。その時気がついたのだ。引き継げる人がいないと。
「ちょっと待て。お前を廃する気はないと言っただろう」
「それは嬉しいのですが、今後何があるかわからないではないですか。皇后を廃されなくても、休むことなく続けられるかもわかりません。例えば体調を崩すこともあるかもしれませんし、陛下の遠征についていくこともあるかもしれません。それとか、ほら、あの、もしかしたら、ですね、その……」
「なんだ?」
急にどもりだして目を逸らした珠蘭を玉祥が訝し気に見る。
「今後、わたくしが子を授かることも、ですね、あるかも、しれないじゃないですか……」
カランと箸が落ちた音がした。
すかさず明明が拾い、新しい箸を玉祥に差し出す。
「もし、仮にですよ、そうなった場合の事を考えて、ですね、その、そういった場合にも後宮が問題なく回るようにしたいのです」
なんでだろう、当然ありうる可能性を言っているだけなのに、珠蘭もちょっと顔に熱が集まってきた。ちょっと冷めたお茶で熱を流し込む。そしてコホンと小さく咳払いをして、表情を取り繕った。
「李婕妤は降格後、全く問題を起こさずに静かに過ごしています。わたくしに対していろいろ思うところはあるのでしょうけれど、彼女は陛下に対しては忠実です」
徳妃とは方向性が違うが、李婕妤が玉祥に不利になるように動くとは考えられない。だから、安心できる。
「言いたいことはわかったが、俺は李婕妤を戻す気はないぞ」
「わたくしも四夫人の位まで上げる気は今のところありません。今すぐに、という話ではありませんので、頭の片隅に置いておいてください」
玉祥からの返事はなく、聞こえていたはずの彼はまるで聞こえていないように箸を動かした。やっぱり軽くしか食べていなかったらしく、料理がけっこう減っていく。
「これ、うまいな」
「おぉ、それは宮の畑でつい先ほどわたくしが採ったものなのです。美味しいでしょう?」
「おぉって、お前……」
「こっちも食べてみてください。美味しいですよ」
「好きじゃない」
「え、人参ですか? 採れたてですよ。栄養満点ですよ。わたくしは好きですよ」
「俺は好きじゃない」
「一口だけ食べましょ? 口に入れてみたら気に入るかもしれませんよ」
「……お前、けっこう押しが強いよな」
「そんなことありません。さあどうぞ」
一通り食べ終えると、玉祥は就寝の支度をし始めた。
「陛下、今宵は泊まっていかれるのですか?」
「そのつもりだが、駄目だったか?」
「いえ、忙しそうでしたから、お戻りになるかと」
「たまには休ませろ。お前も準備してこい」
寝室で二人、寝台へ腰かける。疲れているだろう玉祥に早く寝ろと言いたいところだが、結構食べていた。満腹ですぐに横になるのも良くないと聞いている。珠蘭はなんとなく恒例になりつつある肩揉みを始めた。
「徳妃に話を聞きました。いろいろ大変だったのですね」
「俺は別に大変じゃないが」
顔は見えないが、珠蘭は玉祥が苦笑しているのがわかった。
「徳妃は許されると思っていなかったみたいですよ。だから命を救ってもらったと」
「そんなに大仰なもんじゃない。徳妃とはあくまで政治的な繋がりのための婚姻だ。というか、俺のところに送られてくる女は皆そうだ。お前もそうだろ」
「そうですね」
「徳妃のことを好ましくは思えど、別に恋愛感情をもっていたわけじゃない。俺がそうなのに、相手にだけ俺に情を向けろと言えるか?」
珠蘭はクスッと笑った。皇族という立場なら、それでも情を向けろというんじゃないだろうか。
「事情を聞いて納得したし、お互いに役割さえ果たせば、あとは好きにすればいいと思った。それだけのことだ」
「それだけのことと言いますけれど、徳妃にとってはそれが大きかったんじゃないですか?」
「そうかもな。でも仕方がないとはいえ、なんだか申し訳ない気もした。自分の目の前で好いた女を抱かれて、彼はどんな気分だっただろうな。徳妃も辛かっただろうな」
玉祥はいつも相手のことを考える。考えてしまう。皇帝には向かないと思うほどに。
でもそんな玉祥だから、慕う人がたくさんいる。徳妃も忠誠を誓っている。
珠蘭も……。
「徳妃に辛くはないかと聞いたら、今は辛くないと言っていましたよ」
「それならいいが」
だんだんと手が痛くなってきた。どれだけ肩が凝ってるんだ。ぐぐぐと押してみるが、一向に柔らかくなってくれない。
「ずいぶん凝っていますね。固いです」
「書類仕事が多かったからな」
「忙しければ、無理にいらしていただかなくてもいいのですよ」
「おい、来られて迷惑みたいなこと言うな」
「いえ、そうではなくて、わたくしが陛下の宮へ行けばよろしいかと。自室に誰かに入られるのは嫌ですか?」
玉祥はピクッと肩を動かしたあと、なんだか気まずそうに、ごにょごにょと「皇后なら大丈夫か?」などと言っている。
「いや、そういうわけじゃないんだが……」
「でも妃嬪を招くこともないですよね。誰かを呼んだこと、ありましたか?」
「一度だけある」
「一度だけ? 何かあったのですか? あの、積極的に勧めるつもりはないのですよ。でも忙しいならば後宮に渡るよりも呼んだほうが楽なんじゃないかなと思ったので、不思議だったのです」
手が限界だ、と思っていると、玉祥に代われと言われ、珠蘭が前に座った。相変わらず玉祥は肩揉みが上手い。男の人はやっぱり力がある、と思って、そうだ、男の人なんだ、と急に緊張した。
幸い玉祥はそれには気がつかなかったのか、そのまま話を続けた。
「あの日は後宮に行く予定だったのに、どうしても忙しくて仕事が終わらなかったんだ」
玉祥が皇帝の座についてしばらくたった頃だったという。徳妃が二人目を出産し半年ほど過ぎたので、体面を考えて徳妃の宮へ渡ると伝えてあったそうだ。
「あちらも用意しているだろうし、悪いことをしたなとは思っていた。だから代わりにこちらに呼ぶかと聞かれて、そうせよと答えた」
それならば徳妃が準備している間になんとか仕事も終えられそうだし、予定をすっぽかされたと徳妃が噂されることもない。皇帝が予定通りに訪れないと、妃嬪が後ろ指を指されるのだ。
「そしたら……」
「そしたら、どうしたのですか?」
「布団でぐるぐる巻きにされた徳妃が、宦官二人にえっさほいさと担がれて運ばれてきた。何が起こったのかわからずに呆然としていると、宦官は徳妃を俺の寝台に転がしてそそくさと出ていった。徳妃は何も身に着けていなかった」
「えっ」
玉祥の手が止まった。肩揉みのない状態でただ手だけが肩に乗せられているのは、少し気まずい。そんなことはどうでもいいのか、玉祥はちょっと早口で話を続けた。
「皇帝である俺を害することがないように、床を共にする前には刃物を隠し持っていたりしないか等の検査されることは知っていた。思い返してみれば、たしかにそうなると聞いたことはあったんだ。でも本気にしていなかった。だって、裸で布団巻きだぞ?」
「そ、そうですね、たしかに言われてみればわたくしも聞いたことはあるような」
「あまりに驚いて、徳妃にそんなに見るなと言われるまで固まってしまった」
それから慌てて徳妃に布団を被せ、控えている者に徳妃の服を用意させ、そんなつもりじゃなかったと詫びたらしい。
「俺も慌ててたからな、着替えたら戻るように言ったんだ」
「そのまますぐ帰したのですか?」
「いや、それが、その……」
徳妃に「この状況で何もなく帰されたら、わたくしはどのように言われるでしょうか?」と言われたそうだ。それはそうだ。裸で連れ出されたのに何もなかったじゃ、体面もなにもあったものじゃない。
元々徳妃の宮へ渡ったところで、赤子の顔を見て、適当に時間をつぶして戻るつもりだったらしい。だから徳妃とこちらで適当に話しでもして、頃合いをみて戻せばいいだろうと思っていたので、忙しくて時間がなかったこともあり湯浴みさえしていなかったという。
「何もかも最悪だった」
仕方がなくことをなし、帰りは丁重に玉祥自身が徳妃の宮まで送り届けたらしい。
「陛下自身が送ったのですか」
「宮まで行って直接詫びた。あの布団ぐるぐる状態を準備したのは彼だろう。あの日は本気で安世に刺されるかと思ったからな」
「安世に?」
まさかと思った。あの安世が玉祥を害するようなことをするだろうか。
「そんなことありますか? 徳妃は『わたくしたちは陛下の忠実な臣下』って言ってましたよ?」
「徳妃はそう思っているらしいが、俺はそう思わない。徳妃の忠誠を疑ったことはないが、安世は別だ」
「別?」
「いや、安世を信頼していないわけじゃない。だけど、考えてもみろ。徳妃のために宦官にまでなった男だぞ? 全て徳妃のために動くに決まっている。徳妃が俺に忠誠を誓ってくれているから安世もそうしているだけで、徳妃に何かあればどうなるかわからん」
「そう言われてみれば、たしかに……」
優しそうに微笑む安世が思い浮かんだ。
徳妃はなかなか重い愛を背負っているようだ。
玉祥のためにも安世のためにも、徳妃には幸せでいてもらわなければ。
「とにかく、それ以来俺の宮には誰も呼んでいない。お前は正妻だから妃嬪に比べて検査は厳しくなかったような気がするが、調べてみよう。というか、俺がそのまま通せと言えばいいのか?」
「どうでしょう」
「とりあえず、今お前が裸で布団ぐるぐるで運ばれてきたら、俺は泣く」
真面目な声色で「泣く」と言われて、珠蘭は吹き出した。玉祥が泣くところなど想像できない。
「泣いてどうするのですか?」
「そりゃ、その、いただくに決まってる」
「はい?」
思わず振り向くと、玉祥はさっと目を逸らした。心なしか頬が赤く見えるのは気のせいだろうか。蝋燭の灯りがそう見せているだけだろう。そうに違いない。
「お前がいけないんだぞ。子を授かることもあるかも、とか期待させるようなこと言うから……もう寝るぞ」
玉祥はふっと蝋燭の灯りを吹き消すと、布団にくるまって壁側を向いてしまった。
(期待、してくれているのですか)
隣で横になっている玉祥の後ろ姿に無言で問いかけてみても、返事がくるはずがない。
今日は、なかなか寝付けないような気がした。
50話まできました。
50話だから何か進展を、と思いましたが、通常通りに。
珠蘭の気持ちもだんだん動いてきました。
読んでくださりありがとうございます。




