5.幽霊
妃嬪たちの朝の会で幽霊の噂が騒がれた、その日の午後。
「—―というわけで、今夜わたくしが泰寧宮に調査に行きます」
「駄目です」
間髪入れずに返事が返ってくることにいっそ感心しながら、雲英をまっすぐに見つめる。珠蘭としても、ここで引きたくはなかった。
「妃嬪たちにもわたくしが調べると言ったのです。嘘はつけません」
「皇后が調べると言ったなら、皇后付きの誰かが調べればよい事です」
「調べると言っても、そんなに大層なことをするつもりはないのですよ。様子を見て戻るだけ。駄目ですか?」
「駄目ですね」
「どうしても?」
「どうしても。逆に行ってもいいと思いました?」
「思いました」
珠蘭がまっすぐに答えると、「はああぁぁぁ」とすごく長い溜息が返ってきた。お説教の気配が感じられたのか、明明がそっと出ていく。
「夜に、皇后が、自ら、護衛もつけず、出歩いて、良いわけがないでしょう! しかも主不在の幽霊が出ると噂の宮ですよ。何かあったらどうするのですか」
細かく区切って言うあたり、とても怒っていらっしゃる。
「で、でも、変装して行きますし……」
それでも諦めきれずに目を逸らしながら小声で呟くと、雲英の雷が落ちた。これは諦めざるを得ない。仕方がなく大人しくお説教を聞く体勢を取った。
「お説教、終わりましたか?」
「うん、やっと」
雲英が出ていくとそれを待っていたかのように代わりに顔を出した明明が、苦笑しながらお茶を差し出す。ちょうど飲みたいと思っていたところだった。さすがに珠蘭と長いだけあって、これがほしいと思ったとき明明はスッと差し出してくる。珠蘭がわかりやすいのか、明明がすごいのか。
明明との関係はかなり改善している。元々仲が良かったこともあるのだろう、「侍女に敬語を使わない」と怒られても未だに雲英にはかしこまってしまうところがあるが、明明とは気楽にやり合えるようになった。
明明のほうも、珠蘭が少し変わっても、いやけっこう変わったけれど、珠蘭は珠蘭であると割り切れてきたらしい。
「雲英に怒られて、よく平気ですね。以前の珠蘭さまだったらもう少し怯えてましたよ」
「うーん、下女だった頃と違って、怒られても罰は与えられないから」
「罰?」
「そう。食事抜きとか、仕事増やされるとか。ひどい時には殴られたり棒で打たれたり。それが原因で死んじゃう人もいるから、本当に怖かったの。だから、別に怒られるくらいなら特に怖くはないかな」
雲英だって、口は出すが棒は出してこない。身分上、皇后に罰を与えられるのは皇帝くらいなものである。なんとも良いご身分だ。
「それに雲英は理不尽な怒り方はしないでしょう。ちゃんとわたくしの悪いところを教えてくれる」
「あ、悪いっていう自覚はあるんですね?」
「……少しは?」
「ならば、怒られないように努力してください。雲英の機嫌が悪くなるとこちらも困りますから」
「ハイ、善処いたします」
「ついでに反省もしてくださいね」
幼少期から珠蘭と共に過ごした彼女は容赦がない。ちょっとその笑みが雲英に似てきた気がするが、それを言うのは何とか思いとどまってお茶で喉に流し込む。
「お呼びでしょうか?」
「えぇ、春慶。頼みたいことがあるの」
入ってくるなり膝をついた春慶は幼少期に宦官になったそうだ。珠蘭の輿入れ以来、ずっとこの宮で働いている。三十歳も近くなっているけれど、あまり低くない声と男性っぽくない容貌をしていて、おかげで珠蘭は怖がらずに接することができる。
「—―というわけで、わたくしの代わりにちょっと調べてほしいのです」
「え、僕ですか? 幽霊の出る宮とか、怖いんですけど」
「でもわたくしが行くといったら雲英に怒られてしまって」
「それはそうでしょうね!」
やっぱり駄目らしい。
「とにかく、春慶ならば思い当たるところはあるでしょう?」
「あー……」
「とりあえず見てくるだけでいいから」
「でも僕、その現場を覗く趣味はありませんよ」
「現場覗かなくていいから! 確認だけすればいいから!」
泣きまねをしながら調査に向かった春慶が結果を持ってきたのは、三日後の事だった。
「やっぱりいましたよ、幽霊もどき」
「どんな様子?」
「しっかりやっちゃってました」
「あー、覗く趣味ないって言ってなかった?」
「覗いていません! 聞いただけです」
笑顔で言い切る春慶にそれもどうなんだと思いながら、詳細の報告を受ける。
横で会話を聞いている雲英の顔が怖くて見られない。
なお、詳細とはどのくらいの人数かとかであって、その詳細では決してない。
後宮に入れる男性は皇帝一人。それに対して年頃の女性は大勢いる。そうなればどうなるか。まぁ、その、一般的ではない愛の方向に向かう人達がそこそこ出る。宮女同士だったり、宮女と宦官だったり、宦官同士だったり。
「木で隠れる場所の門が一部壊れていて、人が通れるくらいの穴があったんですよ。そこを見張っていたらですね、僕が見たのは合計で七組」
「三日で七組? 思ったより多いわね」
要するに、夜に誰もいない宮はそういった人達が落ち合うのにちょうどいい場所だったのだ。幽霊かと思われた女の声は、そういったときのあれである。
幽霊話を持ち出した徳妃がどう思っていたのかはわからないが、お嬢様育ちの妃嬪や夜に宮から出ることなどほとんどない宮付きの女官たちには、想像がつかなかったのかもしれない。
「もしかして、会合?」
「それはないと思います。そんな雰囲気ではなかったですから」
恐れているのは、それやあれをしている二人ではなく、複数人での密会だ。最悪、陛下や妃嬪、皇子などを害する勢力が育っていること、それは怖かった。
とりあえず今回はそのようなことはなさそうなので、あとは誰も処罰することなく、穏便に噂を収めたい。
「わかったわ。春慶、もう一つ頼みがあります。幽霊が出るという噂と共に、皇后が調査することと祈祷が行われること、その噂を宦官、女官、宮女に流してほしいの」
「もちろんです。皇后さまの優しさに感謝させましょう」
「いや、それはいいから」
もし見つけてしまえば、勝手に宮に立ち入ったとして処罰しなければならない。下女だった目線で見れば日々の中のわずかな楽しみを奪いたくはないが、だからといって噂になってしまった以上、何もしないわけにはいかなかった。
後日、皇后自ら女官を引き連れて調査に訪れ、尼僧を呼んで祈祷が行われた。これ以降、幽霊の声は聞こえなくなったという。